歎異抄 (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061594449

感想・レビュー・書評

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  • 「ひたすら一心に念仏を唱えていれば誰でも救われるよ」と言われてそのまま素直に受け取る人はいない。日本人は親鸞の時代からそうだったようで、親鸞の教えは誤解され濫用された。その状況を憂えた弟子の唯円が親鸞の死後に著したのが『歎異抄』(と言われている)。

    親鸞は、不完全な人間の理性や道徳を捨て、すべてを超越した阿弥陀仏の誓願(生きとし生けるものを救おうとする意志)にただただすがれと説いた。
    西洋哲学の合理論的潮流を否定しさったニーチェよりはるか昔、日本には親鸞がいた。そこで能動的ニヒリズムや超人を説くのではなく、他力本願という結論に至るのが日本的奥ゆかしさなのだろうか。

    親鸞によれば、他力本願という信仰すら、阿弥陀仏の思し召しによって“させていただく”ものだという。そのように考えると、デカルトが哲学の出発点とした「思考する自我」の存在さえ、確かなものと言えるのか疑わしくなってくる。

    西洋の近代哲学に先駆けて、昔の日本にも親鸞のような偉大な哲学者が存在したということは、日本人が誇るべ事実だろう。

  • 「念仏には無義をもって義とす」という有名な一節がアンテナにひっかかり、読んでみました。

    無義をもって義とす、っていうある意味底の抜けた考え方について考えさせられたのは、34歳の自分が、1歳4ヶ月のじぶんのこどもと生活をするなかでぼんやり考えることが、このことばに象徴されているからか。

  • 他力本願の世界を知り、親鸞の人柄にふれることができた。
    大教団の創始者としてこれまで抱いていたイメージとずいぶん違うお人柄。

  • ずっと気になっていたのだが、ついに手を出してしまった。様々な解釈が出てくるのを危惧して、親鸞の本意を弟子の唯円が思い出して書いたものであるらしい。
    阿弥陀様は悪人であろうが、善人であろうが、本当にその存在信じて一心に念仏を唱えている人を救ってくださるそうです。私のようにすぐ疑いを持ってしまう人間は、自分の力で生きていくしかないのだろうか。
    阿弥陀様を信じることがすべて。自分をなくすこと。欲をなくすこと。他力本願とはそういうことなのかなと思う。
    まだまだ私には難しい気がしたけれど、いつか分かるようになりたいと思う。

  • 「善人なをもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」
    この一節を「悪人のほうが追往生できるってことか」と誤解してる人のために親鸞の弟子唯円が異を嘆くために書いたものです。ていうか有名なあの嘆異抄です。清く正しく美しく貧しく、仏教のそんなイメージとはちょっと違う親鸞の生きざまはむしろ潔い気がします。興味のある人には読みやすいかも。

  • 念仏の本来の意味。悪人こそが救われるべき対象である理由。。

  • 善人なをもって往生をとぐ、いわんや悪人をや

  • 親鸞の死後に、弟子の唯円が彼の教えをまとめたものである。仏教だけでない、人としての生き方すらこれから見えてくる。彼の人生は、波乱であった。当時、驚かれるべき結婚もし、島流しにもあい、息子と絶縁もしている。その中で彼は常に仏教を信じていたが、自分の生き方について悩んでもいた。悩んだ末己の仏教の形、つまりは悟りを開いていったのだ。そして師の法然が説いた「悪人正機説」によって、悪の自己中心性を自覚させ、世の秩序を図った。その存在が、当時の人々をどれだけ救い、仏教に帰依させただろう。今現代にも残る、その信心を我々は知らなければならない。

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著者プロフィール

哲学者。『隠された十字架』『水底の歌』で、それぞれ毎日出版文化賞、大佛次郎賞を受賞。縄文時代から近代までを視野に収め、文学・歴史・宗教等を包括して日本文化の深層を解明する〈梅原日本学〉を確立の後、能を研究。

「2016年 『世阿弥を学び、世阿弥に学ぶ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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