下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062138277

感想・レビュー・書評

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  • 諏訪哲二との関連。学びからの逃走、労働からの闘争は、学び、労働に経済原理を入れることが原因である。分からないものは買わない、何にでも等価原理が働くというのは教育、労働には当てはまらない。時間の観念を無視した考えでは両者は成り立たない。

  • 表現がわかりやすくおもしろく読める。
    論理の飛躍を感じなくはないが、全体を通して自分には納得できる論説だった。勉強や労働をしない若者が増え続ける根本的原因は、「何よりも先に消費主体としてアイデンティティを持ってしまうから。」と述べる。消費主体として教育を「権利」ではなく「義務」と受け取るために義務からの解放を求め、納得できない教育サービスを放棄する。労働についても「合理的判断に基づき」働かないことを選択する。もっともと思った。
    ただ解決への提言については、納得できるが、納得しかねる。
    レビュー登録日 : 2010年09月13日

  • 病巣を切り取ることにかけては随一だ。
    購入予定。

  • 日本の若者が社会から逸脱し下流に落ちるのは環境ややる気の問題ではなく、まともな生活を営むうえで決定的な能力が欠落していることが原因らしい。

    若者は本や記事を読んでいて、分からない記述、単語があっても読み飛ばし、聞いたり、調べようとはしない。つまり、「無知のままで生きる不安を
    感じずにいられる」そうです。

    私が子供の頃は、分からない単語が出てくる度に、辞書を引いていたし、
    今でも知らないことがあると気持ちが悪いので、調べようとするけどね。

  • 炎上必死、炎上上等の内田樹先生のほん。

    「市場メカニズムで得られる財サービスは元々消費者が価値をわかっているものであるという前提があるが、教育で得られる/叩き込まれるものは、消費の価値判断ができないもの(教育されて身につかないとその価値を判断することができない)である」という主張は非常にいいことを言っているなぁ、と思いました。

    格差再生産についても、勉強・教育というものの価値が外部環境(親族であったり、所属コミュニティ(学校・地域等々)に染み込んでいることで発生してくるものであるため、そこの部分を如何に乗り越えるか、というのは学校教育や家庭教育支援のキモになってくるんじゃないかなぁ。

    ブラジルの小噺で、「富めるも貧なるも皆サッカーで一攫千金を夢見てストリートで練習をする」というのではないけれども、そういう上昇志向をどう国家にインストールするか、期待値を上げていくかが重要ですね。

    ところどころいいことは言っていますが、文体やら言い回しやら論理展開やら、文章全体から匂う雰囲気がとても癖があるため、人を選ぶかもしれません。僕は昔は気にならなかったのですが、今はちょっとちゃんと読む気にはなれません。

  • 私たちはいつの間にか、消費者としての見方が基本となっている。
    その結果、消費者からの視点では測れない「労働」や「学び」まで、
    等価交換の原則によって考えている。

    消費者として育ってきた我々は、
    全能性を保ち、批判し、賢い取引をすることに慣れている。
    しかし、社会という場所と、労働という行為は、
    常に評価される側、客体化されるという状態に「晒される」。
    消費者として「唯一無二」のワタクシが、
    「商品」の側にまわることは考えられない。

    以下、思ったこと。
    個々人の中にも、消費者たる私と、労働者たる私は、
    10対0ではない関係で存在している。
    そして様々な物事を、その2つの(もちろんそれ以外もあるが)メガネを使って、
    判断していく。

    物事を判断する物差しは、たくさんあって良いし、
    どのような時に、使い分けるかという知性が必要。
    工作をするときに、各道具は、当たり前に使い分けられるのと一緒。
    このニッパーが一番便利というのは、単に使用頻度の問題。

    現代という時代は、単純化を求める。
    それは、情報が多くなりすぎ、選択肢が増えすぎたのが理由だと思う。
    毎回、選択をするコストはとてつもなく大きい。
    それに対して、いつの間にか、「確固たる、変化しない私」を設定し、
    常に彼の選択によって、世界を渡っていく。
    その結果の不都合と、毎回選ぶコストを比較して、
    前者を選ぶのが、「現代の格好良い」生き方とされている。

    変化を嫌うのはそんな心理かも。
    もしくは、完成されて、穴が少ない私という、一瞬の奇跡のような状態を、
    維持しなきゃいけない。
    レゴブロックで作った作品は、もう壊せないみたいな心理。
    遊び方はいくつもあるのに、それが最善として止まる、思考の狭さ。
    確かに、過去の基準における最善ではあるけど、
    未来に対してはそうではない。
    しかし未来に対してはそうではない「からこそ」、
    それを最善として、もうそれ以上先には進まないようにしているのかもね。

    そして、この特性は誰か彼かが持っているものとして語るのは容易だが、
    自分の中にも同様の部分があることを自覚する必要がある。
    賢い部分と馬鹿な部分を両方、内包しているのが私たち。

    何にしても、一つの価値観だけの生命体になる必要なんて、たぶんないんだ。

  • たしかにそれらしい状況であるし、どうしてそうなったか理解できる。ではどうするかまで読みすすめられなかった

  • 勤労が憲法に規定された国民の三大義務であるというのは言われてみれば、という指摘である。

    そんなことは普段意識していないし、いわれても違和感が残る。働くか働かないかは自己決定だと思っているからだ。

    勤労が国民の義務であることの意味は今でもうまく説明できない。我々を規定する価値観やそれを培う教育が自己決定する主体としての個人として自分を認識することしか教えてこなかったためである。

    憲法が想定した市民と現代社会を生きる我々との矛盾ではないだろうか。



    ここで我々は憲法の精神に立ち返り、勤労に励まなくてはならないという気はない。

    憲法には自省の念が込められていたようにも思うし、そもそも資本主義が想定する人間像は常に勤労を人々に求めるようなものではないと思うからだ。

    資本主義はいずれ人々を労働から開放すると信じられてきた。フォード生産方式を発明したフォードもそう信じていたはずだ。

    何をもって勤労とするかという定義の問題もあるが、投資家として生きる人間は今でも北欧を中心に増えていると思うし、自らの肉体を使うだけが生産活動ではないだろう。

    資本主義の本質は差異による価値の創出であり、価値というのは市場における人気投票のことであるから、人々のニーズを捉える価値を生み出すことが資本主義の要請であると言えるのではないか。



    確かに、今でも多くの人間にとって付加価値は集団における労働を通して提供するものである以上、どんな職場でも楽しく働ける能力はとても重要であるだろうし、生活の大部分を会社で過ごす人間にとって、幸せに生きるためには必要不可欠の能力だろう。

    しかし、だからといって勤労は国民の義務である、今の職場で頑張れと説くのは性急というか、つべこべ言わずに働け、という押し付けのリスクがあるようにも思う。

    筆者も十分自覚しているように、勤労は生きるために必要不可欠の行動ではなくなっている。それでも若者を取り巻く勤労のプレッシャーや空気から解放することの方が大事なのではないだろうか。

  • 客観的な納得できるデータが少ない。眉唾物。

  •  タイトルと目次、少し読んで気になったので購入。

     まぁ、だよなぁ…と。さて、今回、やっとゆとり教育が見直されました。
     わかっていたことなのにね。
     下流志向の若者…って、そうさせたのは、我々大人です。

     反省の意味をこめて、ごめんなさい、でもちょっとがんばってみよっか、どうしようもない世の中だけど…と、ダメですか?

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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