- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062776011
作品紹介・あらすじ
官能の矢に射られたわたしは修道女――。俗世から隔離された修道院で、かしいましい尼僧たちが噂をするのは……。紫式部賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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ドイツの尼僧修道院の中に、日本から来た女性作家が潜入取材する、第一部が印象的。
人生のありとあらゆる大波を乗り越えた、未婚、あるいは離婚した女性たちが集まる修道院が、実は不調和だというのも、よくよく考えれば納得できるものがあり、何千年もの歴史を等しく重ね続ける建造物とは対照的に、理想や妄想でない現実的な人間味を、住んでいる尼僧たちに感じられたことに、むしろ好感を持った。
こういうのもハイブリッドというのかもしれない、なんて思っていたら、第二部での、「個人に本当に選択の自由があるのか」という、昔からあるような因襲的な問いかけに自ら飛び込んでいくような、彼女自身の歴史が、思いのほか印象に残らなかったやるせなさに、真の孤独は修道院でなく、ここにあったと実感させられた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ドイツの尼僧修道院を訪れた、物書きの「わたし」。
そこで暮らすのは高齢の尼僧たちで、修道院と聞いて思い浮かべるような禁欲的な生活とは違っている。お茶やおしゃべりを楽しみ、車で出かけ、男性も訪ねてくるらしい。
尼僧たちとの会話から、どうやら「わたし」を招待した尼僧院長はどこかへ行ってしまったらしいのだけれど、誰もはっきりとは話してくれない。
そのあたり、皆さん上品である。噂好きでペラペラ話しちゃうような人はいないのだ。
尼僧院長の出奔が気になりつつ、彼女たちがどんな風に共同生活を送っているのか、どんな人間関係なのか、そちらも興味津々だ。
「わたし」目線で読んでいると、ドイツにはこんな修道院が本当にあるに違いないと思える。
そして、第二部で尼僧院長の真実を知るのがまた面白かった。 -
舞台はドイツ。まずは二部構成の一部「遠方からの客」。由緒正しい尼僧修道院に取材目的で一時的に住み込むことになった作家の「わたし」(※日本人)が、共同生活を送る8人の尼僧たちと対話したり交流したりするだけの、淡々としたお話なのだけれど、なぜだかこれが面白い。ちょっとした会話の噛み合わなさに少し「くすっ」と笑えたり。
尼僧たちは皆、中年~かなりの高齢で、独り身であることが条件ではあるものの、離婚歴はあってもOK。一応プロテスタントではあるようですが、それぞれの宗教観も来歴もさまざま。尼僧院といえども堅苦しい修行の場でも信仰の場でもなく、一種のシェアハウスみたいな印象。
「わたし」がドイツ人の尼僧たちに勝手に漢字のニックネーム(透明美さんとか老桃さんとか)をつけているので(印象なのか音を変換しただけなのかは不明)、だんだんどこの国の話だかも曖昧になってゆき、前任の尼僧院長の不在にミステリーの予感が漂うあたり、なんだか日本の女子校ものミステリを読んでるような錯覚に陥りそうに(笑)。そのせいか、とっつきにくい印象のある多和田作品のわりに読みやすかったかも。
二部「翼のない矢」は、一部で不在だった元尼僧院長の恋のお話。「尼僧」という固い言葉から受けるイメージを裏切って、けっこうグダグダ(笑)な恋愛遍歴で、そこで流されずに踏みとどまらないと!といろいろ突っ込みも入れたくなるのですが、そういうところも含めて彼女の人間味あふれるところが愛おしい。独立した短編としても十分読める完成度でした。 -
とてもとても眠たいのであるが、いろいろあって投げ出すわけにもいかず、一気に、そしてようやっと、読みきったのである。ようやっと、というのには理由があって、読みかけては積み本に埋もれ、読みかけては積み本に、読みかけては積み本に、と計三回も一部(全二部構成)の途中まで読んだままになっていたのだ。だから、なのか、いや、もちろんたぶんそうなのだろうけど、この本の登場人物や舞台になにかしら見覚えがあって親しみがあって、それはもう楽しく読みすすめることができた。もう三度は会った(途中までだけど)仲である。ツーカーだもんよ、と思っていたらの、今回が初読みである二部での展開がもう魅力的で、ほんとうにどきどきしてしまった。
しかしまあ、このひとの小説はほんとうに違和感を違和感として認めたままに小説と成立させることにおいて一級品であるなあ、と思う。この小説中に出てくる尼僧のひとりが「不調和」について語ってもいるけれど、舞台となっている修道院にはたくさんの不調和なものごとがあって、それでもなお、それぞれがわかりあいながら、わかりあえないながら、わかりあえないことをわかりあいながら、あるのだ、というようなそこかしこの描写は、白黒つけたくないお年頃の(そんな時期あるか)年中グレーゾーン愛好家のわたくしにとってはとてもここちよいものであった。いや、ここちよくはないんだけどね、違和感あるから。でもいいの、それくらいが。
ということが言いたかったのかどうかはわからないけど、ほんとうにようやっと、ようやっと読み終わったよー!そしてそれは全然面白くなかったからだとかそんなんじゃないからね!そこ大事なとこだからね、すっごく面白いんだからね! -
中世から続く修道院、尼僧といったモチーフから想起されるものと作中で語られる現代的な尼僧らの生活や価値観のぶつかり合いに、読みながら知的興奮を覚える。
ルポ的ですらある前半と、ある一面からの答えをくれる後半の読み口の違いもたまらない。 -
この本もまた、単行本で発売になったときに読みそびれ、このたび文庫化されたので手に取った。最近そういうのばっかり。
もともと、ドイツ語翻訳者・松永美穂さんの随筆集『誤解でございます』の中に、多和田葉子さんとのドイツの修道院探訪のエピソードがあり、ちょっと驚いた逸話もあって、記憶にはっきりと残っていた。この作品のあらすじ紹介を見たときに、「あれっ、これってあのエピソード発展編ということ?」とあっさりつながったので、読むのを楽しみにしていた。
大まかに分けて2章に分かれた構成。前半の『遠方からの客』は、とある修道院を尋ねた日本人に対して、住人である尼僧たちが入れ替わり立ち替わり、自分の現在の生活とバックグラウンドを語ってくれる。それが日本人とドイツ人、宗教をあまり意識しない者と宗教の中に(その信仰にも濃い薄いはあるけれど)生きる者の目線をそれぞれ持って描かれるので、単に自分の知らない世界をのぞく感覚で、語り手とともに修道院のや尼僧たちの周りをたどっていける。「透明美」「老桃」「火瀬」と漢字であだ名される尼僧たちや、漢字の名詞にドイツ語の振り仮名をあてながら、一見ゆったりと、実は日独ふたつの世界をまめに往復するさまには、多和田さんの言葉に関する随筆集『エクソフォニー』を思い返しながら読んでいた。
第1章だけで終わっても十分面白いんだけど、第2章『翼のない矢』の冒頭の設定が鮮やかで驚いた。なるほど、そういうことがあったのは知っているが、そこで時間差を作ってそうくるか。そこまでのいきさつについては、登場人物のかつて体験した、わりない仲の迷いと生々しさがつづられており、ここだけ読めば高樹のぶ子的といえないこともない濃さもある。仏教的にいえば「煩悩」にとらわれた末の行動だろうが、「どうしてこうなった」「これは自分(たち)の望んだことか」とだらだら考えたり考えなかったりしつつここまで来てしまったという感覚には、ブッツァーティ『タタール人の砂漠』を思い出した。
別に、この「事件」には明確な解決を求めても仕方がないと思うものの、最後の文には、愁いといくばくかの許しが含まれていて、しかも締めとしてきりりと効いていて好き。なので、この☆の数です。 -
ドイツの尼僧修道院で暮す女性たちを「わたし」が観察する第一部、第一部でいなくなった修道院長が半生を回想する第二部。どちらもオチというほどのオチはついてないのだけれど、ああこうやって人が生きていて、なんだかんだありながら生が続いていくんだなというライブ感を感じる小説だった。
若くても四十代、上のほうは九十代のそれぞれに個性的な女性たちの暮しを好奇心いっぱいな「わたし」の眼とユニークな言葉遣いの文章を通して眺めるのがとにかく面白い。中年以降の個性は「避けがたくこうなってしまった」というようなものであり、そういうものがぶつかり合う様になにやら元気づけられた。
第二部で語られる、いなくなった修道院長の男性に対する異物感。理解できるけどこんな風に思われてるってわかったら傷つくなあ、とベルンハルトが気の毒になった。なんかしっくりこないって感じながら四十になってしまうって、恐ろしいけれどよくありそうなことのような気もする。どうなんだろう。 -
多和田さんの小説としては幻想的な部分が少なくて読みやすかった。
第一部は様々な性格の尼僧たちと修道院の様子が面白くて時間を忘れて読んだ。
第二部は主人公の流されてしまう性格が身につまされてなかなか読み進められなかったが、つらかった分ラストが良かった。 -
この奇妙さはなんなんだろう
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/682438 -
禁欲だと思っていた尼僧さんたち、いろいろ楽しんでいるのだなぁ。西洋のドイツが舞台だけど、あだ名がどこか東洋風で、登場人物たちに親近感がわいた。第一部では噂話にとどまっていた尼僧長。どんな人だろうと思っていたら第二部の主人公に。駆け落ちに至るまでの話だった。
自分で決める、って大事だよね(難しいけれど)。 -
本好きの友人に誘われ、多和田先生の読書会へ行くときに読みました。とても文章が好き。整頓された文章で且つ感情への訴えかけも緩やかでてくだです。
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読んでて、しきりと社会学におけるジンメルの「Fremd」の概念を思い出した。研究のため、「わたし」は尼僧修道院を見学するが、尼僧たちはそんな「わたし」に修道院内の〈本当の〉力学関係を口々に、他には内緒で語り出す。それは「わたし」がいわゆるストレンジャーとして捉えられているからではなかろうか。
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普段自分の読むようなジャンルではないけれど、講談社企画の「乃木坂文庫」で鈴木絢音ちゃんが紹介していた本だったので購入して読みました。
明確なオチはないのですがその時代の情景や人間関係が分かりやすく書かれていてたまにはこういうのもいいなって思いました。
もっと凝らして読めばまた違う感じ取り方があるんだろうとは思います。自分に感じ取れたかは微妙です。 -
唯一幻が出てこない小説であった。ドイツの修道院が舞台ということで珍しい小説である。
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ドイツの田舎町の歴史ある尼僧修道院を訪れた日本人のわたし。そこには様々な人生を送ってきた女性たちが共同生活をしていた。そんな尼僧たちの生活を観察するわたし。しかしわたしに滞在許可を与えた尼僧院長が不在だった。
透明美、陰休、老桃、火瀬、貴岸。わたしが尼僧たちにつけた呼び名は、その読みを示されておらず非現実感を高めます。しかし彼女たちはしっかりと現実に足を下ろしてそこにいます。
修道院の尼僧というと人生の全てを宗教に(神に)捧げた人たちなのかと思いましたが、そうとは限らず彼女らの宗教観も様々なものだったのです。それよりは自分の人生をどこかの段階で振り返り、少し方向を変えてみよう高さを変えてみよう歩む速度を変えてみよう、そう思った先に修道院があったのかも知れません。そこで共同生活をすることにより己の考えが純粋化することもあるでしょうし、より複雑化することもあるでしょう。わたしはそんな尼僧たちに彼女らの枠の外から声を投げ掛け、様子を観察します。静的なのに、いや静的だからこそ映像的なそんな面白い感覚がそこにありました。
そして第二部では失踪した尼僧院長の自伝。いかにして修道院へ入り尼僧院長となったのか。そして何故失踪することになったのかが語られます。第一部では尼僧たちはわたしに語りかけ、わたしがそれを文章化しましたが、ここでは己の言葉で表されています。そこにあるのはひとりの人間の意志。他者に流されたのか自分で選んだのか。自分の意志とは何なのか。さて。 -
尼僧につけられた呼び名の瑞々しさ、僧院内で交わされる言葉の生々しさ。俗世から隔絶された場所という僧院のイメージを覆してくれる。
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ドイツにある尼僧修道院に、取材のため長期滞在している日本人の”わたし”の目を通して描かれる共同生活のようすと、”元尼僧院長の独白”の2部構成になっている。
フェアな人には皆、すこし心を許すものであり、外国人ということもそこに加味されるものである。
第二の人生をこの修道院に捧げる尼僧たちは、離婚経験もあれば子供もいたりする。男性との関わりに疲弊した過去をもっていても、豊かな記憶や想いと一緒に生きている。
最後のほうで、わたし が修道院のことを執筆する(物語る)モードになっていく感覚が面白い。
なにか液体が土に滲んでいくようだった。
そして突然、平面的なものが立ち上がる。
元尼僧院長の独白は、自由意思を求めながら40歳になってしまう、このままではいけないと思ったところから修道院の生活に落ち着いたが、結局は元の夫に絡めとられてしまう。今までの生き方について、自分が選んできた道はないと思ってきたが、すべて自分が選んだことなんだということがわかった彼女は、(カラスになって)修道院を出ていこうとする。
多和田さん凄いです。 -
☆2 容
おもしろいのだろうな、という感想。たしかに文章はうまいし描写も愉快だ、私は特に心打たれなかったけれど、おんなの自我とかなんとかに思いを馳せたい人などは読んでもいい。
☆2 水無瀬
実験的であるところを評価。名まえとは記号であるということを強調するような、渾名にしてはヘンテコな登場人物を表す仮称がいちばん面白いか。 -
世界観にはひかれるものの、私には読みにくかった。
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この尼僧修道院の歴史的建物や庭や池の場所としての魅力、尼僧たちの存在感や感情の厚み。そこにやってきた「遠方からの客」がゆっくり近づいていく時間。それらを心地よく感じていた最後の方の瞬間に、時間がぐりゃりとしてハッとした。そして第二部「翼のない矢」、第一部では多くの謎をのこしていた修道院長からの告白。とても肉感的。言葉にできないベルンハルトが自分のことのように哀れで醜く感じる。彼が悪魔に操られて矢を向けたのは流壺さんだったか。
幻惑的でありながら、常にフラットな態度で世界に触れる多和田葉子さんの小説が好きだ。 -
この作品は修道院を舞台としており、個性的な尼僧たちが共同生活を営んでいる。主人公は取材にやってきた日本人作家である。しかし小説には一つ見落とせない空白がある。キューピッドの矢にハートを射られ駆け落ちしてしまったと噂される元尼僧院長である。
第一部は主人公が小説を書けるようになる小説である。最後の方で主人公は、まだ自身が想像もしていない、後に書かれるであろう未来の作品(虚構)を先取りしているかのような(?)老女のおかげで、目の前の壁が幕に変わり舞台(虚構)が現れる体験をする。作品を書けるようになったということだ。
第二部は、第一部で不在の中心としてあった尼僧院長が、主人公が書いた第一部の英訳を読み、誤解を解くために自伝を執筆する話である。ただの噂話としてぽっかりと空いていた穴が一人の人間の強靭な意志によってしだいに肥大化し、やがて主人公によって書かれたテクストを飲み込むまでに豊かな物語となって行く様はまともな人間なら目が離せない。 -
近年の多和田葉子は随分と読みやすくなってきている。今作も老齢の尼僧たち各々がチャーミングに描かれていてとても楽しめた。同じ宗派に属していながらもそれぞれの思惑があり政治的な軋轢もありで不調和(ディスハーモニー)がこの共同体を成している。民主主義を謳う者もいれば封建主義的な観念を通そうとする者もおり、そうした不調和があるゆえに画一でない調和を来している様相が面白い。そりゃそうだ、尼僧といえど元は情念に生きてきた人間だもの。読みやすいといってもそれは表層で深読みすれば多くの問いかけが潜まれている。結末はない。
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なんか読んでて疲れるので、半分くらいで断念。
背景描写を想像したり、話の筋をつかむのが(僕には)非常に困難。 -
ドイツのとある修道院の尼僧たちの生活を描いた小説です。ここに登場する修道女たちは一般的なイメージと異なり、あまりに世俗的でした。プロテスタントの修道院ということが、理由のひとつなのかもしれません。カトリックだと、その暮らしぶりはもっと厳格なのでしょうネ。この小説は二部構成になっていますが、本来その構想はなかったようです。でも、この物語は二部があってこそ、登場人物ひとりひとりの個性が際立ってくるような気がしました。二部では駆け落ちして修道院を去った、元尼僧院長の過去が語られます。しかしながらそれは、タイトルから連想されるようなロマンチックなものではありません。ここにはひとりの女性の半生が、切々と綴られているのです。ひとは自分の居場所を求めながら生きているのかもしれません。でも、ほんとうに落ち着ける場所って、土の下なのかもしれませんネッ。
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ボラーニョの『2666』をこじんまりとさせたような構図の小説だと感じた。
面白さでは『2666』が圧倒的に勝っているけれども、こっちは短いので気軽に読めます。 -
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