- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065164716
作品紹介・あらすじ
普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。
普通「仏教入門」と言えば、広汎にして複雑な仏教の思想・実践の体系、そしてその変遷の歴史などを、要領よく整理して大方の便宜に供する、という書物になるだろう。
ということを十分承知の上で、今私が提出しようとしているのは、著しく個人的見解に着色され、偏向極まりない視点から書かれた入門書である。
私はこれまで、仏教の思想や実践について、何冊かの本で自らの解釈を述べてきてはいるが、それを全体的にまとめて読める書物は出していない。そこで、ここらあたりで、自分の仏教に対する考え方を見渡せるものを作っておきたいと思った、というのが本書上梓の正直な理由である。
しかし、これは要するに自己都合である。そこで、あえて読者の益になりそうなことを述べさせてもらえば、仏教を「平たく」解説する本などは、ずっとふさわしい書き手が大勢いるはずで、私に書かせても役にも立たないし、読んで面白くもないだろう。
さらに言うと、およそ「平たい」記述など、私に言わせれば幻想にすぎない。すべては所詮書き手の見解である。
ならば、本書ではその「見解」の部分を極端に拡大して、読者の興味をいくばくか刺激し、仏教をより多角的に考える材料を世に提供できたなら、そのほうが私の仕事としてふさわしいのではないか。こう愚考した次第である。
(「はじめに」より)
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
読みやすく、とても面白かった。思想編の無明の発見を元にすると仏教への理解への手がかりとなるようだ。最後の涅槃が知り得ないため、の者となると信じて仏道に励むことになり、先日読んだ浄土真宗とつながると思った。
-
悟りとは、静的状態ではなく、死の受容に向けた運動であると著者はいう。この結論はとても腑に落ちた。
座禅を身体技法として突き詰めると身体状態として言語から離れられること、ただ、それ自体は「悟り」ではないという。
また、経典に記載あるブッタの悟りとは「無明」(無常、無我)の発見ではないかという主張。ここで、この悟り(無明の認識)は、ゴールではなく、先の悟りへのスタートラインであるという。
禅宗の僧侶として、仏教自体を「手段」として、「実存」を考える著者ならではの見解だと思う。
私自身はとても共感した。 -
西洋哲学の存在論や現象学的な問いと重なる部分があるのが面白い
-
入り口はどこか
第1部 思想篇(ゴータマ・ブッダ;苦、無常、無我;縁起と因果;空と縁起;無記と中道;輪廻と業;悟りと涅槃)
第2部 実践篇(出家と戒律;坐禅と基本的修行;途上にある者)
著者:南直哉(1958-、長野県、禅僧) -
東2法経図・6F開架:B1/2/2532/K
-
p29 「机」として使われるから、〜「机」になる。
#師はしばしばこの例えを用いるが、使う直前に机として使おうとする動機を説明できない。もう一歩踏み込むなら過去の経験に基づいて机としての働きに期待するから机として用いるのである。名は期待された機能に与えられたラベルである。
p38 道具〜それは何らかの目的のために使われて、初めて道具である。
#この目的こそが動機であろう。
p43 〜関係の仕方を命名(言語化)して意識に刷り込み、〜それ自体で存在する〜これが言語の機能であり、無明とはそのこと〜
p193-194 〜ブッダが〜、我々の実存をまるごと「苦」と見ているからである。「自己」の実存構造には、他者から課せられて自己たりえるという、根本的な矛盾がある。〜、「課せられた」構造を「迎え入れる」構造へ転換し、最終的に構造自体を解消〜しなければならない。
なぜなら、我々が言語内存在であり、意識的実存である限り、自己の在り方が他者との関係で決まる実存様式は変わらず、〜その矛盾は完全に解消しないからである。
p195 仏教は「ありのまま」の人間の在り方を肯定しない。〜したがって、結局、我々を安心させない。