柄谷行人浅田彰全対話 (講談社文芸文庫)

  • 講談社
3.85
  • (3)
  • (6)
  • (3)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 86
感想 : 7
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065175279

作品紹介・あらすじ

1985年になされた最初の対談「オリエンタリズムとアジア」で、柄谷行人は「政治と離れた言説などはありえないということを、もう一度強調すべき時期にきて」いると言う。本書では、思想や芸術など多様な話題を次々繰り出しつつ、かならず世界そして日本はいかにあるべきかという問いかけに戻っていく。二人の知識人は縦横無尽に語り合うことを通して、読む者に思考と発言を続けることの重要性を訴えているのである。日本を代表する知識人二人が、自在に語りあった諸問題ーー解決にはほど遠くさらなる混迷に突き進む世界の現在を予見した、奇跡の対話集。

目次
オリエンタリズムとアジア
昭和の終焉に
冷戦の終焉に
「ホンネ」の共同体を超えて
歴史の終焉の終焉
再びマルクスの可能性の中心を問う
 あとがき 浅田彰と私(柄谷行人)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 批評家の柄谷行人(1941-)と浅田彰(1957-)により各種の媒体にて行われた対談六編。学生時代に別の書籍で読んだ対談もいくつか含まれているが、当時はカントもマルクスも未だあまり読んでいなかったので、そのときの理解は甚だ怪しい(今も決して十分に読めているわけではない)。先日読んだばかりのマルクス『経済学批判』の議論を思い返しながら本書を読むことで、却ってマルクスの議論について理解を深めることができた部分もある。

    □ 《形而上学》批判

    二人とも、一貫して「体系の《外部》を実体的に措定し、それを体系の内部に組み込んでおくことで成立している、当の体系」(例えば、疎外論、オリエンタリズム、「大きな物語」、起源・根源へ遡及する思考、ロマン主義、日本的自然、西田幾多郎の「無の場所」、吉本隆明の「大衆」、クリステヴァの弁証法・・・など。或いはヘーゲル的な客観的観念論と同型の議論)を《形而上学》であるとして批判し続けている。そうした《形而上学》批判の言説が【否定神学】的な機制を通して現れている。柄谷行人『内省と遡行』で所謂「ゲーデル問題」を論じていた頃からの通奏低音か。観念論的に《外部》を措定してそれに依存する《形而上学》を徹底的に断念し、宙吊り状態に耐えること。それが彼らの云う【唯物論】か。

    「柄谷 ・・・。そういうふうに自己完結できないということが、唯物論的ということなんでしょう」。「浅田 観念論はもちろん、弁証法的唯物論も、すべてが内生的に発展していくような一貫した体系になっている。そこには要するに視差がないわけです。唯物論といったって、視差がない唯物論は、その限りにおいて観念論ですよね」。「柄谷 ・・・。それから、『資本論』はヘーゲル的な弁証法にそって展開されるけれども、ところどころに歴史が出てくる。・・・。だから、昔は『資本論』を論理として読むのか歴史として読むのかで大論争になった。経済学者はどちらかというと歴史的な部分を削って論理だけでやりたがる。そうすると、きれいなヘーゲル的循環ができるわけです。・・・。けれどもマルクス自身は、そういう観点からするとじつに不純に書いています。論理そのものの発展を認めていない。横からある種の偶然性を入れてこないとだめなんです。それが歴史なんですね。歴史的に何かが起こってくるとき、それは向こうから来る。それがマルクスの唯物論的認識だと思うんです」(p226-227)。

    「自然」性のうちに「歴史」性を見出すことも【唯物論】という視座が可能にさせる。

    「柄谷 根源にさかのぼる思考は、身近な過去に生じた転倒を忘却させる。もちろん、歴史的にさかのぼって考えることは必要です。例えばユーゴスラヴィアの歴史を知る必要はある。なぜ知る必要があるかというと、そこでの紛争も近代的なもので、古代からあったものではないということを知るためです。世界史を知る必要があるのも、世界史の根源的な理念を知るためではない。そんなのは嘘なんだから。しかし、それがいかに嘘かということを知るために必要なのです」(p117)。

    □ 歴史における理念

    《形而上学》に陥ることなくしかも露悪的シニシズムに居直ることなく、いかにして理念的な語りを救い出すか。そこで彼らはカントの統整的理念を持ち出す。無限遠の理想を指し示すものとして。ここにも理念を実体化させないようにとの【否定神学】的な慎重さが垣間見える。

    「柄谷 偽善には、少なくとも向上心がある。しかし、人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。自由主義や共産主義という理念があれば、これではいかんという否定的契機がいつか出てくる。しかし、こんなものは理念にすぎない、すべての理念は虚偽であると言っていたのでは、否定的契機が出てこないから、いまあることの全面的な肯定しかないわけです」(p149ー150)。

    「柄谷 これを言うと致命的なんだけれど、コミュニズムというのはカントでいえば超越論的仮象だと思うんです。それを実現できるなどと構成的に考えてはいけない。しかし、それが統整的理念としてある限り、批判として必ず働くわけですね。その間の妥協というのは、暫定的なものならやってもいいけれども、それが理念放棄ということになってはならない」(p237)。

    □ その他

    その他、自由主義と民主主義の相克、世界史の六〇年周期説など、興味深い論点が次々と繰り出され、十分に消化し切れてはいない。

    「柄谷 ・・・。自由主義というのは、ある意味では資本主義の本質であって、これは国境も何もない。個人主義だし。一方、民主主義というのは、共同体を確保するためのもので、同質性を保持するということだと思うんです。これは全体主義と矛盾しない」。「浅田 カール。シュミット流にいうと、そうなりますね。どこから来た奴でも自由に競争して、その中で適当な均衡ができればいいというのが、自由主義。それに対して、民主主義の方は、同質な集団の中で合意を形成して、アイデンティティを築かなきゃいけない」(p96)。

    「浅田 ・・・。各々の国や共同体が、内部では民主主義的に社会福祉なり何なりをやるけれども、外部に対しては排外的に動く。・・・」。「柄谷 そうですね。民主主義は確実に勝利しつつある。なぜなら、内に向けての民主主義は外に向けてのナショナリズムだから」。「・・・」。「柄谷 ・・・。この民主主義的ナショナリズムを理念的に統整する原理が、自由主義だと思う」(p135)。

    最後に、浅田彰による昭和天皇死亡時の「土人」発言について。それが本書収録「昭和の終焉」からのものであったということ、かつそれが北一輝『国体論及び純正社会主義』からの引用であったということ、そして北一輝について語り合った部分が編集の過程でカットされたために『国体論』からの引用であるということが分かりにくくなってしまったこと、こうした経緯を本書収録「昭和の終焉」末尾の本人による追記(2019年9月1日付)で初めて知った。

    「とはいえ、私自身の言葉ととられてもまったくかまわないことは改めて確認しておく」(p91)。

    □ 構成

    オリエンタリズムとアジア (1985年『GS』)
    昭和の終焉に (1989年『文學界』)
    冷戦の終焉に (1990年『週刊ポスト』)
    「ホンネ」の共同体を超えて (1993年『SAPIO』) ※1
    歴史の終焉の終焉 (1994年『SAPIO』)
    再びマルクスの可能性の中心を問う (1998年『文學界』) ※2

    浅田彰と私(柄谷行人)

    ※1 浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)にも「柄谷行人との対話」として収録されている。

    ※2 柄谷行人/浅田彰/市田良彦/小倉利丸/崎山正毅『マルクスの現在』(とっても便利出版部)にも「マルクスのトランスクリティーク」として収録されている。『マルクスの現在』によると、1998年5月30日に京都大学にて行われた講演がもとになっており、質疑応答の記録もある(本書では割愛されている)。

  • 私には難しかった(⌒-⌒; )

  • 11
    ポスト・ラディカリズムから脱構築へ@アメリカ
    19
    天皇
    24
    江戸思想史

    43
    構造的な反復
    50
    天皇 三島由紀夫 江藤淳
    59 60
    無知の知
    78
    天皇
    87
    唯物論
    88
    吉本ばなな

    103
    イデオロギーでごまかしていた現実的矛盾が露呈する

    117
    125
    ヘーゲル的な図式とサブカル
    141
    知識人


  • 主に日本がどうあるべきかという点で、政治、哲学の議論がなされる。引用される著書の要約によって、思想にどのようにアクチュアリティがあるかがよくわかる。特に「探究3」を改題して出版した『トランスクリティーク』についての対談が刺激的で、カントとマルクスをどう読み直せるか、通説との違いやフロイト精神分析を引いて読み解く視点に魅力がある。
    ・オリエンタリズムとアジア
    サイードのオリエンタリズム批判がそのまま日本のオリエンタリズムになる。
    ・昭和の終焉に
    1988年皇居の前で土下座する連中をニュースで見て、なんという土人の国にいるんだろうと思ってゾッとした。
    ヘーゲル的西欧の精神的な個である主語の裏返しとしての京都学派、西田幾多郎の場所論。述語を突き詰めると無の場所になる。大東亜共栄圏は、生態学的家族的な総体を日本が柔らかく調和的に包むという思想だった。天皇は戦争責任を文学的と言った。文化が幻想であれば、生物学だ。日本の言説は、生物学的、システム論的。全体と個は国家と個人、種は対・家族つまり性的生物学的な再生産の場所。述語的「なるようになっただけ」。主語的責任と述語的無責任。
    西田幾多郎、吉本隆明、鶴見俊輔、三木清、マルクス主義「人間の顔」、大衆的共同性の再獲得。大衆文化、限界(周縁)芸術。
    浅田:"「中流大衆」の閉じて弛緩しきったお座敷芸文化みたいなものをいかに肯定したところで、相手を増長させるだけ"
    竹田青嗣、加藤典洋、西部邁、大衆=無知、大衆批判者=無知の知。ニーチェの弱者ルサンチマンの典型。恥の共有による連帯。日本大衆のお座敷文化の核心。
    退屈な反復に耐えるしかないというリアルな認識、それがポストモダン。
    インテリの無力は経済成長に関与しないこと。しかし元々そういうもので、まじめにものを書いていればよい。たかが知識人なんだから、誰ひとり読んでくれるはずがないという前提の上で、またそれだからこそ、できるかぎり気どらず明快に書いていけばいい。無力でいい、それが文化、経済なんか知るか。
    売れてるのが勝ちということになりますから、「文化」ではない。
    そこはかとないチープな共感を売る商売ですね。それは文学とは何の関係もない。
    基本的に文学は無力なんです。それでいいんですけど、そういう状況にいると知った上でやるべき。
    バカにされたものとして生きればいい。
    ・冷戦の終焉に
    壁というのは東ドイツの国有財産なのに、それを西側から勝手に削って商品化し、アメリカからさらには日本のデパートにまで再輸出している。このこと自身、資本主義の貪欲さを遺憾なく示している。
    自由主義というのは、ある意味では資本主義の本質であって、これは国境も何もない。個人主義だし。一方、民主主義というのは、共同体を確保するためのもので、同質性を保持するということだと思うんです。これは全体主義と矛盾しない。
    自由民主党は、名前から矛盾していて、都市部の大資本の利害を代表しつつ、それによって搾取されて貧しくなった農村部に、補助金なんかで利益誘導をして、そちらも取り込む。
    中曾根内閣の時にやろうとしたように、完全に都市の方にシフトして、農村とか流通段階の中小企業は切り捨てると、明確にいってしまえばいい。
    自由主義は絶対に国際化を要求するし、民主主義は内的同質性を要求する。
    ・「ホンネ」の共同体を超えて
    五〇年代後半からの冷戦構造は実はきわめて安定した構造です。「冷戦」とは、文字通り戦争が凍結されていることです。むしろ大事なのは、この二項の外にある、第三項のほうではないかと思う。第三項とは、いわば「第三世界」です。それを代表したのはやはり中国。
    ロシアがたまたま共産主義という世界史的理念を担ってしまったがために世界史的勢力として台頭し、それとの対抗関係でドイツはファシズムを選択した。
    アメリカとソ連が第三世界を援助し対抗していたが、冷戦構造が崩れてしまうと、そんなことをいちいちやる必要もなくなって、落ちこぼれは落ちこぼれで勝手にしろという感じになってきた。
    根源にさかのぼる思考は、身近な過去に生じた転倒を忘却させる。世界史を知る必要があるのも、世界史の根源的な理念を知るためではない。そんなのは噓なんだから。
    資本主義が第三世界の発展にあまり助力をしなくなったという端的な政治経済的条件が、彼らを原理主義に追いやっているだけのことです。
    コジェーヴは、ある意味でそれをポストヒストリカルに変奏しているところがある。つまり、歴史の時代はたしかに西ヨーロッパにおいてクライマックスを迎え、あとはポストヒストリカルな時代だ、世界がアメリカ的物質主義で覆われるであろう、しかし、さらにもっと先までいくと、世界が空虚な記号の遊戯としての日本的スノビスムに覆われる。
    しかし、日本までくると、超越的価値も内面化された価値もなく、ひたすら相対的な子供の遊戯のようなかたちで、ポスト産業資本主義が展開される。
    世界資本主義は、市場の「見えざる手」によってすべての矛盾を解消していくかというと、おそらく逆で、ありとあらゆるところに不均衡と新しい階級分化みたいなものを生んでいくだろう。対抗するのは古い原理主義、という困難がある。
    振り返って大きな物語かのように語っている。歴史の終わりは、物語が意味を失った、理念の不在ということ。
    ヘーゲルは物自体を捨て、理念=現実としたが、カント的に言えば理念は仮象。フクヤマの自由と民主主義の実現も同じ。マルクスは『ドイツイデオロギー』で、共産主義は理想ではなく、現状を乗り越える運動だとした。歴史=物自体で、決してつかめない。共産主義で現実を構成的にしようとするとスターリン主義になる。あくまで統制的。ハイエク、世界の統一的市場の自由競争という理念なしにはやってられない。
    民主主義は内部的に社会福祉をやるが、対外的には排外主義、つまりナショナリズム化する。単なる自由主義が、リベラル。福祉は必然的に国家を必要とする。カント『純粋理性批判』の形而上学の復活のための批判(吟味)のように、共産主義にも必要。
    大衆は中産階級だと思って現状肯定するが実は貧困。
    純文学、私小説家というものはもはやない。
    左翼エリート批判も壊滅してできなくなって、大衆の自己満足の肯定以外の何物でもない。吉本隆明や鶴見俊輔が知識人が大衆につかなければならないと言うが、そもそも遊離した知識人などおらず、大衆の一部にすぎない。大衆から遊離した知識人のふりをした上で、自己否定するのが知識人的なポーズだということになった。ばかばかしいというほかない。ニューアカはそれを完成させ、その責任の一端はあるが、広めたのは全共闘世代とそれに連なる連中。
    アメリカでは頑としたアカデミックが大衆に与える影響はない。サイード、ジジェク、サルトル、フーコー、知識人とは、必然的に何か言わざるを得ない立場にある人。アカデミズムの象牙の塔は悪くない。批判するときだけ象牙の塔で、本質的にはない。徹底的にアカデミックでなければならない。
    象牙の塔は大衆化で解体され、知識階級への批判だけが残り、非常に単純なホンネ主義が社会を覆い尽くした。理念はダサいという気分。
    むしろ偽善が必要。理念が統整的に働く。
    善をやめた情けない姿を共有しあって安心する、露悪趣味な共同体の伝統的な作り方が、マスメディアによって再構築されている。日本は、ヘーゲル主義を逆手にとって、世界の先端がヨーロッパ、アメリカ、日本と来て、戦後憲法で世界史的理念を体現しており、下部構造、民生部門に集中した日本経済が電子情報段階に入って世界をリードしつつある、という理念でやれるはず。
    憲法9条は日本人唯一の理念で、最もポストモダン。自衛隊は矛盾しないと言えばいい。
    アメリカに押し付けられたにせよ、もっとも先端的な世界史的理念だと大見得をきればいい。
    アメリカは日本に世界史的理念性を与えてしまった、ライプニッツカント以来の理念が書き込まれたのは日本だけ、ヨーロッパ精神の具現。
    日本は建前がすぐ捨てられ、本音一重主義。世界は二重構造で偽善的にやってる。
    偽善には少なくとも向上心がある。自由主義、共産主義という理念があれば否定的契機があるが、理念が虚偽だと言えば、全面肯定しかなくなる。大半は最初から構造の中にいる末人で、意識的に構造からずれることもある。
    差異や矛盾をきっかけに構造からずれていく人間はいる。言葉を紡ぐとは、原理的にそういうこと。
    ・歴史の終焉の終焉
    日露戦争はアジアを勇気づけた、イエローぺリル、黄禍論。
    コーポラティズム、日本は組合も取り込む会社主義、経営者資本主義で、ファシズムが実現されている。
    日本は個人主義、自由主義がないのに、関係と言って廣松渉、和辻哲郎、三木清のように間柄や協同主義としてしまうと、前近代的共同体主義や日本型資本主義を肯定してしまう。
    女性の就職差別に対し、吉本隆明のフェミニズム批判のイデオローグ。アメリカはポリコレが行き過ぎだが、市民レベルでも反差別や平等意識がある。日本ではそれがなく、偽善を嫌うあまり露悪的なのがますますひどくなっている。
    ホンネ主義が広まっている。フェミニズムが抑圧で女性の幸せな家庭というホンネを肯定すべきとか、差別語狩りがファシズムで文学はタブーなき聖域だとか、大衆が経済的社会的危機感からホンネを肯定してもらいたい。
    大衆からの孤立とは、物書きにとって売れないということ。普遍性をもつ知識から孤立してはいけない。自己否定を振り翳すのは、自意識過剰のナルシシズム。
    疎外論では、最底辺は決められないという現実を拾いきれない。誰もが互いに差別しながら差別されているというのが現実。
    日本で犯罪が少ないのは、個人の罪が親類まで及ぶから。封建的な恥の文化と相互監視システムの効果。
    マルクスは、イギリス自由主義を前提としていて、ブルジョワ革命は不徹底だと思っていた。『経済学・哲学草稿』の類的存在の疎外克服の物語である疎外論を放棄した。『フォイエルバッハに関するテーゼ』人間は社会的諸関係のアンサンブル、『唯一者とその所有』シュティルナー個人主義、『ドイツイデオロギー』個人からの出発、『経済学批判要綱』個人的所有。批判の読み直し、ネグリガタリのシンギュラー単独的特異的な横断的結合のコミュニズム。柄谷自由主義の極限。
    頭がよい人なら、今からマルクスを読むはずです。普遍性とはそういうことです。
    革新官僚、エリート主義で恥ずかしい、1930年代の反復にすぎない。
    サルトル『存在と無』対自存在は、主体の無=自由=不安を埋めるように成立する。アイデンティティにすがりつくナショナリズム、レイシズム、セクシズムは自由=不安からの逃亡。しかし逃れることはできない、自由という刑に処せられている。行動は全て挫折に終わる。レジスタンスは将来の自由を目指すのではなく、自由であるから抵抗する。アイデンティティの主体主義、すなわち即時存在があるが、関係の効果にすぎない。日本では、個人や個性は実体を指しているが、そういう多様性や差異性ではなく、どの人間も対自存在だからこそ特異的になるということ。最大の障害は家族的な関係のしがらみ。そんなものが優位に立つことはない。
    ソフトウェアならアメリカ個人主義の方が強い。家電やゲームのチームワークや人海戦術で擬似家族主義の強みが発揮される。21世紀はアメリカが世界のヘゲモニーを握り、アジアが下請けとして安価なハードウェアを供給し続ける憂鬱な構図になるのでは。日本やアジアが世界史の先端に立てるかというと懐疑的。
    ・再びマルクスの可能性の中心を問う
    トランスクリティークは、トランセンデンタル超越論的、垂直的なもの。トランスヴァーサル横断的、水平的なもの。クリティーク批判、批評。
    経験的に対立する、カント超越論的=ハイデガー存在論的。無の働きを捉える態度。構造とは、形を変換する規則。変換されないものは、ゼロ記号。それ自体は存在しないが構造全体を支えている。カント超越論的統覚。フロイトのエス、自我、超自我がカントの感性、悟性、理性に対応する。ラカンの現実界、象徴界、想像界がカントの物自体、現象、超越論的仮象に対応する。カントの反省、内省は、現象学的ではなく、むしろ精神分析的。超越論的は、フッサール的ではなく、トランスヴァーサルに考えないと無意識の構造を見つけるような批判はできない。
    超越的な神に従えば正しく認識・行動できるが、カントの啓蒙はそのような幼児的依存を脱し、自分で責任を取る大人として自立すること。経験的認識はどこまで可能なのかという超越論的反省、経験的かつメタ的な、フーコー的に言えば経験的=超越論的二重体。トランスヴァーサルは、精神分析者と被分析者の横の関係。
    ヒューム懐疑論よりも、じつはヘンリーホーム『批評の原理』にカントは震撼した。カント『視霊者の夢』視霊者は脳病であるが、霊能者を認めざるを得ない、自分と他人の視点の視差から欺瞞を批判する。『純粋理性批判』テーゼ、アンチテーゼのアンチノミー論。
    反省、内省とはリフレクション、鏡であるが、鏡で他者の立場になろうとしても自分はわからない。写真、録音した声のおぞましさ。デリダ意識=自分が話すのを聞くこと。ヘーゲル声を客体化すること=意識の客観化。想定との違い、カント視差、フロイト抵抗。経験的なものとして閉じられるが、そのズレが超越論的と経験的の差、それが物自体。
    どこでもない視差から批評を行う。マルクスは、ドイツ哲学批判、イギリス経済学批判、フランス社会主義批判、つまり総合ではなく空間的にも移動しながら批判した。
    ベルギーで『ドイツイデオロギー』、イギリスで『ルイボナパルトのブリュメール18日』。一つの現実の中に属する限り、批判的になろうとしてもその中に属してしまう。
    カントはケーニヒスベルクからほとんど動いたことがない。大学では地理学と人間学でかなりインチキだった。しかし、ベルリンで国家の人になることを断ることで、移動しないことが移動になっている。
    マルクスもヘーゲル左派フォイエルバッハの類的存在の疎外論から、シュティルナー『唯一者とその所有』類に属さない私、2つの乗り越えとしてテーゼ「人間の本質はその現実性においては社会的諸関係の総体である」を経て、生産関係の理論を展開する。
    キルケゴールのように、ヘーゲルを批判した人はカントに戻っている。感性と悟性の総合判断の飛躍、商品交換における使用価値と交換価値の飛躍。
    シュティルナーの個別性と同じ問題、カントの趣味判断の主観的な判断における普遍性をもたなければならない性質、共通感覚。歴史的形成であり、普遍性はもたないが判断を支えるもの。共通感覚を壊すのが天才で、共通感覚そのものが変わる。トマスクーンの科学的命題の真偽が決まるパラダイムも、共通感覚である。ポパー反証可能性がない場合の暫定的真理、時間的にずらした普遍性。カントは、経験的な一般性と、科学的真理としての普遍性を区別した。普遍性とは、反証する他者を設定しておくこと。マルクスは類や一般性ではない社会性として普遍性を提示した。
    マルクス『ブリュメール18日』階級構造と代表制のズレを分析している。ヘーゲル、リカード、プルードン的な労働価値説を、ベイリー相対価値説で変われない限り商品としては死に至るとした。労働者=消費者で、日経連(のちの経団連)がお互いに賃金を上げて買わせようというケインズ主義。労働価値説は、個の中の類、ライプニッツのモナドの精神と同じ。カントにとってのヒュームの因果法則の習慣性は、マルクスにとってのベイリーの相対価値説。
    エンゲルスが弁証法的唯物論、自然弁証法、史的唯物論を捏造した。それはヘーゲルの移し替え、論理学、自然哲学、歴史哲学。「マルクス主義」を作ったのはエンゲルス。それをさらに『唯物論と経験批判論』で物自体はあると単純化したのがレーニン。スターリンで教条的唯物論が形成されてしまった。アルチュセールは相対的自律性を前提としながらスピノザ を引いて唯物論を貫こうとするが難解。
    物自体というのは常に他者の感性が入る。自己完結できないということが、唯物論的ということ。視差がない唯物論はむしろ観念論。
    『資本論』が対象としたイギリスだけでなく、資本主義は世界性が前提となっている。ウォーラーステイン世界システム論。一国単位のケインズ主義に限界がきている。
    ファシズムは、社会主義に対抗して労働・農業問題を解決しようとしたが、ムッソリーニもヒトラーも『ブリュメール18日』のルイボナパルト的なポピュリズム。ルーズヴェルトもボナパルティズム。
    重工業であぶれた人手が農村に行き、地主がいばれる封建制となり、ファシズムにつながる。その不況は1930年代で終わり、車、家電の大量生産・大量消費となる。それが情報商品に変わり、アメリカでは少数の情報エリートが世界市場支配する一方、中産階級でも保険もなく家を売る。どの国でも第三世界、貧困が内部化する。
    カント『啓蒙とは何か』世界市民として考えなければならない、普遍性。ハーバマス公共空間は単に一般性。コミュニズムも外に出なかったら意味がない。
    コミュニズムは超越論的仮象。統制的理念が批判として働く。
    ・浅田彰と私 柄谷行人
    柄谷行人は、「探究3」は体系化して『トランスクリティーク』として出版した。批評空間も廃刊し、文学賞選考委員も辞任し、大学も辞めた。京都大学経済学部集中講義の手配をしたのが浅田彰。音楽、美術、建築にも精通していた。あやふやな考えを整理してくれたり、米仏で言語能力と判断力で助けられた。

  • 最後の対談は『トラクリ』の解説みたいな話をしてて、懐かしみがあった。まあ当然かもしれんが勉強目的で読んでいいものではないんだなというのがわかった。

全7件中 1 - 7件を表示

著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

柄谷行人の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×