- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784065314050
作品紹介・あらすじ
この社会の居心地の悪さはどこからきたのか?明治維新と敗戦、憲法、天皇、経済停滞、少子化、巨大地震…「考えたくなかった」戦後日本の論点を徹底討論!<本書の内容>右も左も、いまだに外圧頼り。内発的に自分たちの価値を肯定し、守るということができていない(東)天皇が生物学を勉強したのは、正気を保つためにやっていたんでしょう(養老)日本人は戦争による被害も、人災ではなく天災のように捉えてしまう(茂木)「シビリアン・コントロール」なんて、自分の国の言葉にもできないようなものが身につくはずがない(養老)戦後、この国は、人の心を安定させるものを、かなり潰してしまった。新興宗教が強いのも、コミュニティの貧しさと関係している(東)「九条」に限らず、日本は整合性をつけることへの欲望がない(茂木)日本経済が30年も停滞している理由は、もう作らなくていい、壊さなくていい、という暗黙の民意なんじゃないか(養老)被害の記憶を伝えたいなら、震災の日だけでも実際の津波の映像を流したほうがいい(東)
感想・レビュー・書評
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東大卒3人による対談。時々小難しいことを言う笑。
養老さんみたいに、あいつなら何言っても許される。その域に達したいもんです。
だって日本に大地震がきて、復興するには中国の属国になるしかないなんて言ったら「炎上」間違いなし。 -
日本社会での生きづらさや居心地の悪さについて論じていた。言葉と現象が違うものになっているのではという話は面白いと思った。一生懸命になれるものを見つけるというところは一つ救いになっていた。
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巨大地震を契機に国が変動してきたという見方は、地震大国ならではの特徴としてなる程と感じた。次に来るであろう大地震も、日本の(良くも悪くも)新たな歪みを生み出すはずで、本書で語られるように中国の属国化を促すのか、または閉塞感打破のきっかけになるのか、ひとつの観点かと思う。
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独特の視点で論理を組み立てる3者による鼎談。
脳科学者の茂木健一郎が、解剖学者の養老孟司、評論家の東浩紀の意見を引き出しながら、日本がどんよりと浸かっている諸問題に切り込んでいく。3者3様の取組み、話し方に考え方の基盤が垣間見える。共通点を求めることでなく、自由に持論を披瀝し合うことで、お互いの理解を深めていく。読者は、その雰囲気のなかで共鳴するなり、反発するなり、自由な読み方で臨める。諸外国と比べたときの我が国の独自性が感じられてくる。 -
●世間か自分のどちらかが正しいと言う見方を止めて、世間も自分も含めて現状を受け入れることができるようになった。人間は相手を変えられるし、自分自身も変えられるからなかなか割り切れない。現代の社会が、歴史的な必然なのだとしたら、同時に、現在の自分もまた、歴史的な必然だと言うことになる。
●今の上皇は確かにリベラルの方です。美智子さんと言う民間の、しかもカトリックに親しんだ人を后にしたことにも表れている。
●日本で防衛費を増額する時に問題なのは、技術を開発するためのお金ではなく、アメリカの武器を買うだけのお金。
●米軍が京都・奈良・鎌倉を空襲しないで残すと決めていた。古都を残すと決めたのは、後に占領するのか分かっていたからでしょうね。
●今僕たちが直面しているのは、加害と被害の関係をはっきりさせることが戦略的に有利になる世界です。
●自由意志があって、ある選択や行動が生じると言うよりは、脳が無意識を含めた1連のプロセスで選択したものを、後から追認し、理由付けをし、物語化するのが自由意志だと考えられる。
●東條英機の凡庸な悪。=アイヒマン。官僚のトップのような首相が戦争の歯車を回し続けてしまった。他の人なら「もうやめよう」と言っていたでしょう。
●辛味入り汁かけ飯=カレー
●コロナワクチン「副作用」が「副反応」になった。副作用と言うと薬のせいで、副反応と言うと患者のせいみたいになるでしょう。
●人間関係を学ぶ場所が学校しかない。家も地域コミュニティーも解体されて残っているのは学校だけ。日本の社会運動は、基本的には「先生に言いつけてやる」モデルです。
●戦争経験者がいなくなると、戦争の記憶がバーチャル化してしまって、戦争の話は、生々しい人間の話ではなく、データを組み合わせて作る物語になってしまう。経験への想像力がなくなる。
●人間はあらゆるものをゲーム化するけれど、ルールは必ず変わるし破られるので、それは絶対化すると長期的には負けると言うこと。ルールは、絶えず破られると言う前提で、ルールをどんどん変えていくこと。ハッキングされる前提で。
●理科系の論文も、できるだけ事実に即して表現するように書きます。しかし、法律家はできるだけ多様な解釈を許すように文章を作る。憲法もまさに、いかようにも解釈してみせますと言うこと。
●書く日本語と話す。日本語が違うと言うことを教育課程できちんと教えるべき。
●「だ・である」と「です・ます」が、両立している時点で問題。使い分けに明確なルールがないにもかかわらず、同じ文章でも全く雰囲気が変わる。心情に関係なく事実を記述する文体が2種類あるのは問題ではないでしょうか。
●ドナルド・キーンが生前めちゃくちゃ怒っていた。日本の古典教育は文法ばっかりで「古典」を読んでいない。源氏を、平家を、文学として、あるいは思想として議論をすると言うような態度に欠けている。 -
何でこの本を手に取ったか忘れてしまったが、軽快に読め、たくさんの教養から導き出される会話が興味深く面白かった
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養老孟司、茂木健一郎、東浩紀による鼎談。3人の議論は噛み合っているようで噛み合ってないような。東さんだけが何とか議論を前に進めようとしている感じだけど、養老さんは超然としていて受け流す感じ。自然のように捉える姿勢が徹底していて人為的なものに対する価値が著しく低いのだろう。
このあたり、いまの新自由主義とリベラル的な価値観の狭間での行動の難しさを表現してしまっているような気がした。 -
歪みについての考察。さくさく議論が進むので読みやすかったです。
西郷隆盛が日本の歪みを背負い、最期を迎えたという見方を興味深く読みました。
また、「何歳の時に何を経験したかという心の地層としての世代論」という整理がおもしろく、これからの自分のものの見方に活用していこうと思いました。 -
養老先生は「はじめに」で2人の話が面白くて、老人である自分はついて行くのが精いっぱいであった、と書かれている。しかし、しかし、そんなことはまったくなく、ずいぶんといろいろな場面で養老先生が2人を引っ張って行かれているように思えた。どちらかというと東さんが話に入って行きにくいのではないかと思える場面もある。茂木さんは、タクシーでの移動中なども養老先生に議論を吹っかけているから、もう慣れているわけで、どんどん突っ込んでいくことができる。東さんにはまだ遠慮があるのかもしれない。さて、話の中身は面白かったのにすっかり抜けてしまった。残っているのは地震のことだけ。養老先生はこのところずっと言われていることだけれど(ちょっと無責任な気もするが)、都市直下型の地震とかがないと、大きく日本のシステムを変えることはできないだろうと考えられている。そしてそれは、僕が生きている間に確実に起こると僕自身も思っている(養老先生は思っていない、だから無責任な気がする)。そういうわけで、東京に行くことができない。2泊3日とかの旅行で、大災害にあう確率なんて相当低いわけだけれど、なるべく危険は回避しようと考えてしまう。東京の近くには僕の友人や親戚が何人も暮らしている。心配だけれどどうにもできない。大学受験を控えた子どもたちには、東京方面にはあまり行かない方がいいと思うけどなあ、などと言うことくらいしかできない。まあ、もっとも日本に住んでいればどこで大地震があっても不思議はないわけで、自分の身の上には何も起こらないというのは完全に楽観的な正常性バイアスがかかっているだけなのだ(その割には東京に行くことを避けようとする)。家族が飛行機で旅行をするときは大丈夫かと心配するのに、自分が飛行機に乗るときはあまり気にならない。そうか、これは1人称の死はもはや悲しむことはできず、2人称の死だけが問題になるからなのか。自分は悲しみたくないという利己的なものなのか。