なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書 1212)

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784087213126

作品紹介・あらすじ

【人類の永遠の悩みに挑む!】
「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないか。
「仕事と趣味が両立できない」という苦しみは、いかにして生まれたのか。
自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿る。
そこから明らかになる、日本の労働の問題点とは?
すべての本好き・趣味人に向けた渾身の作。

【目次】
まえがき 本が読めなかったから、会社をやめました
序章 労働と読書は両立しない?
第一章 労働を煽る自己啓発書の誕生―明治時代
第二章 「教養」が隔てたサラリーマン階級と労働者階級―大正時代
第三章 戦前サラリーマンはなぜ「円本」を買ったのか?―昭和戦前・戦中
第四章 「ビジネスマン」に読まれたベストセラー―1950~60年代
第五章 司馬遼太郎の文庫本を読むサラリーマン―1970年代
第六章 女たちのカルチャーセンターとミリオンセラー―1980年代
第七章 行動と経済の時代への転換点―1990年代
第八章 仕事がアイデンティティになる社会―2000年代
第九章 読書は人生の「ノイズ」なのか?―2010年代
最終章 「全身全霊」をやめませんか
あとがき 働きながら本を読むコツをお伝えします

【著者略歴】
三宅香帆(みやけかほ)
文芸評論家。
1994年生まれ。
高知県出身。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了(専門は萬葉集)。
著作に『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』、『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない―自分の言葉でつくるオタク文章術―』、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』、『人生を狂わす名著50』など多数。

感想・レビュー・書評

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  • 序章に映画「花束みたいな恋をした」の主人公、麦と絹の会話が出てくる。

    麦「俺ももう感じないのかもしれない」
    絹「……」
    麦「ゴールデンカムイだって7巻で止まったままなんだよ。宝石の国の話も覚えてないし、いまだに読んでる絹ちゃんが羨ましいもん」
    絹「読めばいいんじゃん、息抜きぐらいすればいいんじゃん」
    麦「息抜きにならないんだよ、頭入んないんだよ。(スマホを示し)パズドラしかやる気しないの」
    絹「……」
    麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら)好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」(脚本坂元裕二)

    新書の内容は、明治から現代までのアカデミックな読書史なのだけど、基本的にはこの「台詞」の解題で1本筋が通っているところに、この本の特徴がある。つくづく「花束ー」は名作だった。

    パズドラはする時間はあるのに、どうしてゴールデンカムイは読めないのか。それは麦の中でパズドラは、70年代お父さんの日曜日のごろ寝のような息抜きであり、カムイは「教養」だからだ(私の中のパズドラとカムイの位置付も同じである)。では、何故絹はいまだに読めているのか。それは絹の職場がたまたまゆとりがあったからだけではなく、絹の両親が中産階級で将来失業したときの不安がなく、麦のそれは労働者階級だからだろう(←この視点は本書から教えられた)。

    明治時代から現代まで、読書階級は一部エリートから、どんどん大衆に降りてきて、読書の目的も教養から自己啓発、娯楽、今や情報というふうに変わっていると分析する(あくまでもベストセラー読書層についての分析)。←ちょっとザクッとまとめ過ぎ。もっと丁寧に分析しているので、読んでほしい。

    では、どうやって「働いていても本が読めるようになる」のか。三宅さんは「半身社会を生き」ればいい、と提案する。全身全霊で労働するのではなく、例えば「週3勤務、兼業、持続可能、ジェンダーフリー」の労働に切り替える。勿論、「読書」は「労働に関係しない文化的な時間を楽しむこと、或いは介護や育児」ということでもある。

    バブル崩壊あと、民営化・グローバル化のもと、仕事=自己実現となり、自己啓発に必要な情報以外は「ノイズ」として遠ざけられるようになったと三宅さんはいう。それがファスト教養などの流行にもつながる。それが「良し」とは、三宅さんも考えていない。だから、半身社会の提言などをしているのではあるが、全然深められていない。そこが「本書の限界」である。

    三宅さんは今年30歳。生まれたときは既にバブル崩壊。本書の史実はすべて「歴史=過去」として記述している。その後の展開は総て「仕方ない」ものとして受け止めているのが特徴である。三宅さんには、「何故このような社会になったのか」という視点がない。原因分析ができていないから「具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない」(265p)ということになるのである。

    イラストを描いていて生きていきたいと思っていた麦の夢が、何処で捻じ曲げられたのか、何が彼をそうさせたのか。

    まだまだ名作は、何度も観られ続けなれなくてはならない。

  •  
     2024年を迎えてから読書の冊数がガクンと落ちた。厳密に言えば、読んではいるけれども最後まで読みきれない。これまでは隙間時間が10分でもあれば本を開いていたのに、今では片道1時間以上かける通勤電車の中でさえ本を読む気になれない。読まなきゃ読まなきゃと思ううちに、月日は流れ、葉桜が目立つ時期になってしまった。
     時間はある。読みたい気持ちもある。ただ読むためのエンジンが駆動しない。本をなかなか開くことができないのだ。現に本を開き読み始めてしまえば続きが気になり読み進めていける。つまり本を開く行為そのものが億劫で、読み始めるのに膨大な労力が必要となる。
     これはいったい何なのか──
     さて、縁は異なもの味なものとは言い得て妙で、本との出会いは不思議なものだ。面白い本を求めているときに限ってめぼしい本が見つからない。逆にふらっと書店へ立ち寄ったときに「これは…!」という本に出会ったりする。
     本書はまさにその一冊だ。
     前置きはこのくらいにして、なぜ私は本を読むことができなくなったのか。分析するに、

     1) 時間がない
     2) 仕事による疲労

    の二つの要因に分けられると考えた。しかし考えても考えても、①読書する時間はあるし、②疲労困憊するほど働いているわけでもない。
     では、なぜ本が読めないのか。これにはさまざまなアプローチがあると思うが、本書は歴史的な文脈からこの問題を徐々に紐解き最終的には社会的な側面からアプローチを試みている。その過程が正しいのかは別として、非常に興味深い手法であり一読に値する価値がある。

     私たちが読書をする目的を考えてみよう。勉強するため、情報収集、仕事へ役立てるため、単純に趣味として、などなど高邁なものから凡俗なものまで多岐にわたる。それぞれにそれぞれの良さがあり、どれが良いと区別できるものではない。
     しかしどのような意識で読書するのかにより、その「やり方」が変わるのは事実だ。そして、現代の社会人が読書できなくなったポイントはここにある。

     大衆による読書という知的慣習は日本開国に遡る。明治政府は欧米諸国へ追いつき追い越せを果たそうと、国民へ教育の重要性を説き「勉強」のために読書を推奨した。つまり当時の日本国民は資本主義が流入し長時間労働が蔓延する中で本を通じて学んでいたのだ。
     そしてこの慣習は今もなお続いている。長く働くことは少なくなったが、多様なコンテンツが飽和している現代で私たちは日々時間に追われている。そんな中、本を読むことで「何か」を得ようとする。
     要するに私たちがする読書は何かしらの答えを探すための営みなのだ。裏付けもある。出版業界の業績は下がりつつあるが、その中でも「自己啓発系」のジャンルは堅調である。それは自己啓発本が何らかの答えをくれるからだ。

     では、なぜ私たちは何でもかんでも「答え」を求めようとするのか。
     それは私たちに「コスパ」「タイパ」の考え方が潜んでいるからだ。無駄なく効率よく情報を集めたい、答えを知りたい。そんな下心が見え隠れしている。つまりは無駄が嫌いなのだ。
     本書では、小説などの本から得られる芋蔓式の知識をノイズありの知識と定義付けし、反対に、読み手が知りたい情報そのものをノイズのない知識と位置づけをしている。読者は、前者を不要なものと捉え、後者に至上の価値をおく。
     しかし、そんな偶発的な知識を切り捨てて良いものだろうか。そうして得た知識が、役に立つものであれ役に立たないものであれ、恩恵を与えてくれるのは確かだろう。また、そうした知識の厚みが精神的な余裕へとつながっていく。これを俗に「教養」と言う。
     そう、私たちは「教養」が大事なものであるとは頭では理解している。けれどそんなものに労力を費やしている余裕がない。仕事に追われ、家事に追われ、推し活をして、見たい動画を倍速で見る。そんな私たちにとって、答えは今すぐに知りたいし、培った教養なんて何の役にも立たない。
     だから私たちは気軽に情報の手に入るSNSにのめり込むのだし、直接的な解が導出されない文学作品を読む気力が起きない。まさに実用的な情報を絶えず求めるウォーキングデッドさながらだ。
     そして私たちが本を読めなくなった答えはまさしくこれだ。
     しかし、私はこれを書いていて思うのである。即物的な情報は結局はすぐに廃れる。新聞と同じだ。新聞はありとあらゆる情報が記載されているが、一年と経てばただの紙屑でしかない。激動の荒波に耐えうる本質的な知識は長い時間をかけて収集し、知識と知識を掛け合わせて自らが見つけ出していくしかない。つまりそれは「知恵」だ。
     皆さんも胸に手を当てて考えてみてほしい。ついこの間仕入れた実用知を現実世界へ上手く使うことができただろうか。おそらく多くの人が失敗に終わったことと思う。
     なぜなら、状況に応じて実用知を使い分けていないからだ。のべつまくなしに「チシキ〜」「チシキ〜」とさまよい求めてみても、そっくりそのまま適用できるわけではない。情報や知識は状況に応じて「加工」する必要があるのだ。
     にもかかわらず私たちは実用知を「加工」せずそのまま使おうとする。だがその試みは得てして失敗に終わりがちだ。だから私たちは次から次へと情報を求め続ける知的ゾンビへと化してしまう。
     言うなれば知識は食材だ。新鮮なうちに適切な調理をすれば美味しい料理になる。しかし、腐った食材を調理しても美味しいものはできない。また、いかに新鮮でも調理法を誤れば美味しくはならない。
     一方で、知恵つまり料理の技術があればどうか。食材が新鮮であればなおのこと、たとえ多少劣ったものであったとしても調理法ではいくらでもよくなる可能性がある。
     要するに知恵とは既存の知識に付加価値をつける技法なのだ。そしてこの技法を身につけるには、偶発的に得た知識の積み重ねが必要になる。
     知恵の前段階には「教養」が存在し、教養の前には「ノイズありの知識」が存在する。そして、ノイズありの知識の前には「ノイズなしの知識」が横たわる。だが、私たちはこの「ノイズなしの知識」だけを仕入れて満足している。本当に重要なのはその先の先だというのに。

     これまで私が切り捨てたモノの中にどれだけ高価ものが眠っていたことか。それを思うと、本の隅から隅まで暗記するほど読みたくなる。
     まあそれこそ本当に読む気が失せるんだろうけれど。

    • ねこちさん
      こんな文章を書けるようになりたい...読書頑張ろうって思いました!
      こんな文章を書けるようになりたい...読書頑張ろうって思いました!
      2024/05/29
    • こんちゃんさん
      涙のダムが決壊しそうです…。
      読書、楽しみましょうね!
      涙のダムが決壊しそうです…。
      読書、楽しみましょうね!
      2024/05/30
    • kmkm君さん
      めちゃめちゃスッキリしました。
      言語化上手すぎます!!
      めちゃめちゃスッキリしました。
      言語化上手すぎます!!
      2024/11/08
  •  タイトルが長く問いかけ調にインパクトがあり、惹かれました。話題にもなりましたし…。これだけで自分事として考えるので、効果大ですね。かつて「自分もそうだった」し、仕事と読書の両立への著者の結論に興味があり、読んでみることにしました。

     予想を超えて、明治〜現代の時代ごとの労働と読書に関わる歴史の変遷を、詳細にわたって調査・分析していて、その情報量と緻密さに驚きました。
     ただ、紐解いた膨大な事実と解釈は置くとして、本書表題の問いへの著者の答え、実現のための社会づくりの具体は、やや理想論で薄い気がしました。

     三宅さんは現代社会において、自分に不要な(関係ない)知識(情報)を「ノイズ」とし、コスパやタイパを重視する仕事を突き詰めるが故に、ノイズを排除すべきものにしてしまっているとしています。
     もともと、世界はノイズにあふれています。読書(他者の文脈)をシャットアウトせず、ノイズこそ重要で、あえて受け入れる発想には全面賛成です。

     紙の新聞を俯瞰して眺める、書店の棚をなんとなく眺めるという行為は、新たな気付きや動機付けにつながります。ネット記事や通販のピンポイント情報収集と一線を画しますが、両方のよさが活かされる社会であってほしいと願います。

     改革が叫ばれる働き方は、個人の努力だけではどうにもならないこともあります。それでも、私たちの豊かな思考や想像力の源となるのが読書の意義だと、もっと認知されてもいいですね。

  • 読書論だと思って読み始めたが、文化史論のような、より深みのある内容だった。明治から現在にかけての労働と読書をめぐる日本人の文化的経緯を年代ごとに辿る構成は、さながらNHKのドキュメンタリー番組「世界サブカルチャー史〜欲望の系譜」のようで、興味深く読むことができた。

    各年代のブーム(円本、司馬遼太郎、出版バブル、さくらももこなど)やその背景分析には「そうだったのか」と膝を打つところが多々あった。が、途中から、これは表題の疑問解消に向かっているのかと思い始めた頃、1990年代以降の社会変化、すなわち新自由主義的な思想の影響への洞察のあたりから、ようやく本題に近づいていく。

    作者は、「読書」とは、自分から遠く離れた文脈、すなわち他者や歴史、社会に触れることであるという。労働への全身全霊のコミットメントが内面化された昨今の社会では、これをノイズと感じ、受け入れる余裕が持てないことが表題の真因と看破する。「そういうときは、休もう」「社会の働き方を、全身ではなく、『半身』に変える」という提言も含め、一つのものの見方として納得できた。

    個人的には、「片づけ本」ブームに対する以下の洞察がなかなか興味深く、社会は変えられないものとした上で、自分から社会を遠ざける、見方によっては病的とも言える側面があると認識できたことも収穫であった。
    -----
    「〈部屋〉=私的空間を「聖化」することが、自分の〈人生〉が好転することに直結する、というロジックが「片づけ本」の趣旨である。しかしそこには、本来〈部屋〉と〈人生〉の間にあるべき〈社会〉が捨て置かれているのだ。〈社会〉は自分を傷つけようとしてくる場所である。だからこそ「片づけ本」という名の自己啓発書は、コントローラブルな〈部屋〉をときめくもので埋め尽くすことによって、〈人生〉を社会から守らせようとさせる。」


  • 流行りに乗り、手に取りました。日本の労働の歴史を振り返りながら、現代人が本を読めない理由を考えていく本。といいつつも、40年前から若者の読書離れは言われていたんですね。いつの世もあまり変わりません。
    現代人が本を読めない理由として、スマホが普及して娯楽が増えたから読書に時間を避けないよね、みたいな凡庸な結論はなく、社会全体の風潮から理由を読み解いているのがとても新鮮で面白かったです。考え方と知識よりも、行動と情報が優先される時代になり、読書特有の幅広い文脈がノイズとみなされている、という話は首がもげるほど頷きました。ただ、そのノイズが欲しくて、私は読書してるんですよね。自分から離れたところにあるなにかしらに触れられることがある種の快感なわけです。そのノイズを許容できる余裕を持てている自分は幸運なのかもしれません

  • フルタイムで働いていた頃、一日の疲れで、本が読めなかった。能動的な活動である読書よりも、受動的にテレビを見ることで疲れを癒していた。

    仕事を辞めたら、仕事につながる情報を得る必要がないのだから読書はさらに遠ざかるのでは?そう思っていた。でも、答えは否だった。仕事に全力投球しながらも、心の底では学生時代のように思う存分本を読んで音楽を聴きたいと願っていたのだ。

    絹と麦の会話からスタートする序章
    「花束みたいな恋をした」は恋愛の視点で観ていた。
    すれ違いのストーリーにがっかりしたのを覚えている。でも、三宅さんは労働と読書が両立しないという視点でこの二人の距離感を捉えている。

    この本のほとんどは読書と労働関係の歴史が論述されている。日本人がどう本を読んできたのかがわかる。特にベストセラーと時代背景の流れが興味深い。

    ほしい情報以外の偶然の知を得ること。これが読書の良さ。偶然性に満ちた知を楽しむこと。
    ノイズに思えることが他者の文脈につながるかもしれない。

    この本の中にも、タイトルに直接つながらない文脈に触れて、興味が生まれた。理路整然という本ではなかったけど、読書の幅を広げたい気持ちが生まれた。

    あとがきより
    働きながら本を読むために
    1 ブクログ、読書メーター、Xなどで読書情報を得る
    2 iPadなどで電子書籍を利用する
    3 カフェ読書の習慣化
    4 書店に行って刺激を得る
    5 今まで読まなかったジャンルに挑戦する
    6 無理をしない

  • 【感想】
    なぜ本は1ページも読めないのに、スマホは何時間もいじってしまうのか?仕事から帰ってきてすることといえば、大した情報も載っていないSNSやYouTubeをブラウジングするばかりだ。ネットよりも数倍楽しくてためになることが本の中に眠っているのに、つい横になって時間を浪費してしまう。

    GfKジャパンによる「読書頻度に関するグローバル調査」(2017年)によると、日本の読書頻度は調査対象の17ヵ国中15位。4割の人々はひと月に1回も本を開いていないという。私自身は働きながらも本をガンガン読めているのだが、仕事が忙しい日には脳が疲れてしまい、簡単な情報しか追えなくなってしまうのも事実である。

    そうした「本を読めない/読む時間が無い」という現代人の悩みに答えるのが、本書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』だ。明治時代からの「読書史」および「労働環境」の関係を振り返りながら、「働いていると本が読めなくなる理由」についての考察を深める一冊となっている。

    「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」について端的に結論を述べてしまうと、「仕事に追われているから」だ。仕事に全力を捧げていると、読書に含まれる「知識」「教養」等の自身を豊かにする「ノイズ」が邪魔に感じられ、頭を使わない「情報」だけを摂取するようになってしまうのだ。

    こうした現状に対して筆者が提案する解決策は非常にシンプルで、「全身全霊で働かないことを目指す」というものである。本が読めない状況=仕事以外の文脈を取り入れる余裕がない状況なのだから、仕事に全力でコミットすることを止めればいい。そうすれば仕事に半身を、読書にもう半身を預けられるようになる。人生を仕事の延長線上に置いてシンプルな生活を目指すのではなく、複雑なノイズの中に置くことを心がける。「仕事の手を抜く」と言ってしまえば少し抵抗があるが、他者の文脈に触れ人生を豊かにするための行動と考えれば、お給料以上に意義のある営みに思えてこないだろうか。
    ―――――――――――――――――――――――――
    以上が本書の一部まとめである。
    本書を読んだ感想だが、「読書」と「情報」の分析がだいぶ雑だ。筆者の主張は「読書はノイズが含まれるアンコントローラブルなエンタメであり、それは自己啓発書に代表される『非ノイズ主義=コントロールできる行動に注力する姿勢』と相反しており、現代社会における『労働第一』の価値観のせいで読書体験が邪魔なものだと思われているから、本が読まれない」ということなのだが、そもそもどのような性質のコンテンツが「ノイズ」で、どれが「取るに足らない『情報』」なのかを定義していない。筆者が下等に見ている自己啓発書にしても、大衆小説と比べてノイズ性が低いとは一概に言えず、決して「コントローラブルな情報」とは断定できないだろう。(教養を主体とする人文書に比べて頭を使わないジャンルなのは確かだが。)

    本書は「読書史」を検証するにあたって、本のジャンルを2軸から語っていた。一つはその時代に流行っていた小説、雑誌、エッセイといった「娯楽本」であり、もう一つは修養・教養を重視する「ビジネス本」である。明治時代から1990年代まではこの括りの中から見えてくる国民精神を解説していくのだが、何故か2000年代以降から「ビジネス本」にしかフォーカスを当てず、「読書は情報摂取という目的に追いやられてしまった」と結論づけている。現代のビジネス本が「教養」ではなく「情報」重視になっていることは否定しないが、それはあくまで「ビジネス本」の範疇(=本全体のうちの一部のジャンル)だけで起こった変遷ではないだろうか。
    そもそも、本書は本の「娯楽性」に着目しておらず、小説やエッセイ、ノンフィクションを読む層を検討から除外している。労働環境が転換する以前の1960年代・70年代には、サラリーマン大衆小説や時代小説も一定の売上があった。2010年代以降は、書籍全体の売上は落ちたものの自己啓発書の売上は一定を保っているわけだが、果たして小説、エッセイ、ノンフィクションを読む層はどこに消えてしまったのか?労働に根ざしたものでない純粋な読書をする層の検証をしなければ片手落ちに感じてしまう。

    加えて、本書全体にわたって「読書以外の娯楽」にフォーカスしていないのもだいぶ致命的である。
    筆者は終始『花束みたいな恋をした』のワンシーンを引き合いに出しているが、このシーンから読み取れるのは「仕事が忙しくなり本を読まなくなった」ではなく、「仕事が忙しくなり、読書が簡単な娯楽に置き換わった」だろう。統計調査で、読書量が減った人(35.5%)のうち半数近くが「仕事や家庭が忙しくなったから」だと答えているが、実際には今の20代は1日あたり平均3時間半近くスマホをいじっている。読書に当てる時間が完全に仕事や家事に置き換わっているわけではない。ならば、検証すべきは「なぜ働いていると本を読まずに違う娯楽をしてしまうのか」である。余暇時間がどこに振り分けられているかは「読書離れ」を検証するうえで必須だと思うのだが、それが全くなされていなかった。

    読書以外に娯楽の多様性が増えた、そして「ノイズ」となりえる知識は読書以外の方法で摂取するようにシフトした、という可能性を無視してはならないと感じた。
    ―――――――――――――――――――――――――

    【まとめ】
    1 明治時代
    日本の労働が現代の様式と近くなったのは、労働という言葉が使われ始めた明治時代――日本が江戸幕府から明治政府へその政権を移し、そして欧米から取り入れた思想や制度によって近代化を成し遂げようとした時代だった。このときから日本人の働き方はすでに長時間労働であり、鉄工業労働者は1日13〜16時間も働いていた。
    活版印刷が日本で普及し始め、朗読から黙読の文化に移り変わったのもこのころだった。現代の私たちが想像する「読書」の原型が生まれた時代だったといえる。

    1871年(明治4年)に刊行された『西国立志編』は欧米の成功者の伝記を翻訳した本であるが、明治末までに100万部を超えるベストセラーとなった。『西国立志編』が打ち出した「修養」の思想はまさに「男性たちの仕事における立身出世」のノウハウであり、自己啓発書というジャンルの先駆けであった。


    2 大正時代
    大正時代、国力向上のために全国で図書館が増設されると、日本の読書人口は爆発的に増大した。書店の数も急速に増加し、明治末の3000店から昭和初期には1万店を超えるようになる。
    一方で大正時代のベストセラーは、自己の改良よりも自己の苦しみに目を向けたものが多かった。宗教書、社会主義の啓蒙書といった重ためのジャンルの本が売れていた。日露戦争の増税や戦後恐慌による不景気によって、社会不安が増大した時代だったからだ。サラリーマンという雇用形態が生まれ、「安月給による苦しい労働者」というイメージが作られたのもこの時代である。

    大正時代には、労働者階級とエリート階級との間に自己啓発の概念の違いが生まれた。行為を重視する「修養」と、知識を重視する「教養」が分離したのだ。「教養」=エリート=サラリーマン等の新中間層が身につけるもの、「修養」=ノン・エリート=田舎の労働者が実践するもの、といった図式が生まれていった。現代の私たちが持っている「教養を身につけることは自分を向上させる手段である」といううっすらとした感覚は、まさに「修養」から派生した「教養」の概念によるものだった。

    その担い手となったのが「中央公論」を代表とする「総合雑誌」と呼ばれる教養系雑誌であった。


    3 高度経済成長期前後――1950〜70年代
    大正時代から戦前、「教養」はエリートのためのものだった。
    だが戦後、じわじわと労働者階級にも「教養」は広がっていく。それはまさに、労働者階級がエリート階級に近づこうとする、階級上昇の運動そのものだった。
    1950年代、中学生たちはふたつの進路に分かれざるをえなかった。就職組に入るか、進学組に入るか。1955年(昭和30年)には高校進学率が51.5%になっていた。2人に1人が就職する時代だ。結果的に高校進学率が低かった時代と比較して、家計の事情から就職せざるをえなかった人々の鬱屈は増した。
    その鬱屈ゆえに、定時制高校に働きながら通う人々は増えた。50年代半ばまでに50万人を超えた「働きながら高校に通う青年たち」が求めたのは、「教養」だったのだ。教養は、家計の事情で学歴を手にできなかった層による、階級上昇を目指す手段だった。学歴が階級差として存在していた当時、そこを埋めるのは、教養を身につけることだったのである。

    一方で、高度経済成長期は日本史上最もサラリーマンが労働をしていた時代であった。1960年の労働者1人あたりの平均年間総実労働時間が2426時間。2020年が1685時間なのだから、現代の1.5倍近く働いている。
    しかし、過酷な労働のおかげで、サラリーマン向けの大衆小説やビジネスマン向けのハウツー本――英語力や記憶力を向上させる本――がヒットした。日本の読書文化を結果的に大衆に解放したのが高度経済成長期だったのだ。

    高度経済成長期が終わった1970年代になると、日本企業の社員評価の基準が変わる。企業が期待するサラリーマンであってくれるための努力を、社員が勤務時間外に自発的におこなうこと――「自己啓発」という概念が生み出されていった。


    4 バブル前後――1980~90年代
    1980年代はバブル景気であり、出版業界の売上も右肩上がりであった。
    80年代の自己啓発書には、今までの「教養」重視から「コミュニケーション能力」「処世術」を重視するような転換が見られた。
    また、80年代はカルチャーセンターを通じて、それまで男性たちの間で閉じられてきた「教養」が女性たちに開かれた時代でもある。

    1990年代の自己啓発書は、「内面のあり方」ではなく、読んだ後読者が何をすべきなのかという「行動」を明示するようになった。1990年代は終身雇用の神話が崩壊し、バブル経済以前の一億総中流時代が終わりを迎え、新自由主義的な価値観を内面化した社会が生まれつつあった。ここにおいて、「自分のキャリアは自己責任でつくっていくもの」という価値観が広がっていくことになった。


    5 読書は「ノイズ」とみなされた
    1990年代後半以降、とくに2000年代に至ってからの書籍購入額は明らかに落ちている。しかし一方で、自己啓発書の市場は伸びている。
    出版科学研究所の年間ベストセラーランキング(単行本)を見ると、明らかに自己啓発書が平成の間に急増していることが分かる。1989年(平成元年)には1冊もなかったのに対し、90年代前半はベスト30入りした自己啓発書が1~4冊、1995年に5冊がランクイン、1996年には『脳内革命』と『「超」勉強法』がランキングの1、2位を独占した。この後の2000年代もこの勢いは続いた。
    90年代はまさに自己啓発書のはじまりの時代だったといえる。

    自己啓発書の特徴は「ノイズを除去する」姿勢にある、と社会学者の牧野智和は指摘する。
    自己啓発書は、自己のコントローラブルな行動の変革を促そうとする。つまり他人や社会といったアンコントローラブルなものは捨て置き、自分の行動というコントローラブルなものの変革に注力することによって、自分の人生を変革する。それが自己啓発書のロジックである。
    そのとき、アンコントローラブルな外部の社会は、ノイズとして除去される。自分にとって、コントローラブルな私的空間や行動こそが、変革の対象となる。

    コントロールできないものをノイズとして除去し、コントロールできる行動に注力する。それは労働市場に適合しようと思えば、当然の帰結だろう。
    だとすれば、ノイズの除去を促す自己啓発書に対し、文芸書や人文書といった社会や感情について語る書籍はむしろ、人々にノイズを提示する作用を持っている。
    本を読むことは、働くことのノイズになる。読書のノイズ性――それこそが90年代以降の労働と読書の関係ではないだろうか。

    スマホゲームをはじめとするコントローラブルな娯楽、既知の体験の踏襲は、知らないノイズは入ってこない。対して読書は、何が向こうからやってくるのか分からない、知らないものを取り入れる、アンコントローラブルなエンターテインメントである。
    1990年代以前の〈政治の時代〉あるいは〈内面の時代〉においては、読書はむしろ「知らなかったことを知ることができる」ツールであった。そこにあるのは、コントロールの欲望ではなく、社会参加あるいは自己探索の欲望であった。社会のことを知ることで、社会を変えることができる。自分のことを知ることで、自分を変えることができる。
    しかし90年代以降の〈経済の時代〉あるいは〈行動の時代〉においては、社会のことを知っても、自分には関係がない。それよりも自分自身でコントロールできるものに注力したほうがいい。そこにあるのは、市場適合あるいは自己管理の欲望なのだ。


    6 情報の増加と読書の減少――2000年代
    2000年代の労働者の実存は、教養ではなく労働で埋め合わせるようになっていた。好きを活かした仕事、やりたいことに沿った進路決定など、自分の人生全体を労働と直結する動きが見られるようになる。
    2000年代、インターネットというテクノロジーによって生まれた「情報」の台頭と入れ替わるようにして、「読書」時間は減少していた。「情報」と「読書」のトレードオフがはじまっていたのだ。

    読書で得られる知識と、インターネットで得られる情報に、違いはあるのか?

    「読書」の最も大きな差異は、前章で指摘したような、知識のノイズ性である。
    つまり読書して得る知識にはノイズ――偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。
    しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである。コミュニケーション能力を上げたいからコミュニケーションに役立つライフハックを得る、お金が欲しいから投資のコツを知る。ノイズの除去された知識、それが「情報」なのだ。


    7 働いていると、読書が邪魔になる――現在
    現在では、速読本や読書術本の流行によって、読書を「娯楽」ではなく処理すべき「情報」として捉えている人の存在感が増している。労働のためには、読書に含まれる「ノイズ」は邪魔であるのだ。

    しかし、現実の世界には、今の自分にはノイズになってしまうような「他者の文脈」が溢れている。入口が何であれ、他者の文脈に触れることは生きていればいくらでもある。
    大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。
    仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。
    仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。
    それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。

    自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。
    そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕の無さゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
    仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。

    働きながら、働くこと以外の文脈を取り入れる余裕がある社会。半身で働くことが当たり前の社会。それこそが「働いていても本が読める」社会なのである。わたしたちは全身全霊をやめ、様々な文脈の中に身を置いて生きる「半身社会」を目指すべきなのだ。

  • はい、今ワタクシが最も読みたかった(まぁ、結局その時その時で最も読みたい本を手にしているんだがw)乗りに乗ってる書評家三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』です

    いやもう売れに売れています
    爆売れ中ですね
    ちょっと前までまだマイナー感あったのにな〜
    知る人ぞ知る存在だったのがもうここに来て一気に売れちゃいましたね〜
    なんか寂しいw

    そして、真面目な三宅香帆さんも良いねというなんか二段くらい上からの目線で言ってみたりする

    いやでもほんと売れてるのよ
    ブクログでも登録数、レビュー数ともにエライことになってまして、すでに良質なレビューがふんだんにありますので、わいはまたぜんぜん関係ないこと書いていいですか?ダメって言われても書きますけど

    今日ちょっと帰りにコンビニ寄ったのよ
    あ、コンビニってコンビニエンスストアの略ね(知っとるわ!)
    そしたらさ、な、なんと、なんと本のコーナーに寺山修司さんの『旅路の果て』が置いてあるのよ!しかも5冊くらい!

    なんですとー!って思うじゃないの
    なぜ今寺山修司?ホワーイ?ってなるじゃないそれわ

    で良く見たらさ、帯がウマ娘なのよ

    「むー」

    出版社の商魂の逞しさね
    ま、わかるんだけどさ

    いや、わいもね
    建前としては「ウマ娘を入口に寺山修司の世界に触れてもらうことで、ひとりでもファンが増えることは歓迎したいです」とか言いたいよ
    物わかりの良いおじさん演じたいのよ

    でもやっぱ「むー」なのよ
    本音は「むー」なのよ

    顔文字でいったら( ・ั﹏・ั)なのよ

    ウマ娘から寺山修司は邪道だろーが!
    (ノ`Д´)ノ彡┻━┻

    あれ?でもこれって三宅香帆さんの定義する

    (インターネットなどで得られる)情報=知りたいこと

    (読書によって得られる)知識=ノイズ+知りたいこと

    (*ノイズ…他者や歴史や社会の文脈)

    情報と知識の間を取り持つ存在になりうるんちゃうか?
    ウマ娘こそ「働きながら本を読める社会」を作るきっかけになるんじゃなかろうか!
    答えはコンビニにあったのよ!!


    うん、絶対違う

    • ひまわりめろんさん
      だからしてるっつの!
      家事も立派な仕事です!
      だからしてるっつの!
      家事も立派な仕事です!
      2024/07/05
    • kuma0504さん
      あの‥‥
      私のレビューを無断で載せているはずなのに、何故名前すらないんでしょうか?

      で、ウマ娘と寺山修司が何処で繋がるんか、知りたくもない...
      あの‥‥
      私のレビューを無断で載せているはずなのに、何故名前すらないんでしょうか?

      で、ウマ娘と寺山修司が何処で繋がるんか、知りたくもないけど、寺山修司を読むキッカケになるちゃんは合ってると思う。
      2024/07/08
    • ひまわりめろんさん
      クマさん

      無断なので報酬はありません!(堂々と)

      もういっそ寺山修司さん爆売れ希望ですw
      クマさん

      無断なので報酬はありません!(堂々と)

      もういっそ寺山修司さん爆売れ希望ですw
      2024/07/08
  • ブクログでも注目が高く、著者もYouTubeで話題になっていたのでずーと気になっていました。

    結論として、全身全霊で働くのを辞めて、半身で働くという社会構造の問題に一石を投じる内容でした。

    読書をノイズと考え、ファウスト教養がもてはやされ、無駄な物が排除される現在ですが、個人的には無駄で不効率なものも人間味があって、とても大事だなぁと思います。

  • 自分は幸い通勤時間を利用して本は読めている。
    ただ、読んでいる本は本書にもある通り、夾雑物のない、インスタントな「情報」を求めていないだろうかと少し身につまされた。(無論それはそれで良いのだけど)

    昔「読書量と収入は比例する」なる言説が流布した時期があった。自分が違和感を感じたのは、それを読書家が云っていることだった。「(私たち優れた)読書家は、統計的に収入が多いのだ」と云っているように感じた。
    いつの間にか本を読むという行為が、資本主義下で成功するための方便になったということなのだろうか。

    この本は、最後の方まではっきりとは書かれていないが、資本主義と読書との関わりの歴史が描かれている。
    労働者やサラリーマン(サラリーマンが労働者と区別されていたのは自分には意外だったが)その先には女性を巻き込んで、大衆化と階級的な差別化を繰り返す運動の中で、自ら資本主義の論理に包摂されていく様は我が身を振り返っても説得力があるように感じられた。

    かつての全身全霊を込めて仕事に打ち込むという終身雇用的な慣行が行き詰まってくる中で、三宅香帆さんは、働きながらでも本が読める社会=半身社会を推奨する。
    子供が居る人に対して「子持ち様」という呼称が侮蔑的に投げつけられる世の中は(気持ちは分かるという面もあるにはあるが)あまりにも余裕がない。
    多くのバックグランドがある働き手が関わるワークシェアリング的な半身社会は、調整や異なる価値観への理解が必要になるから、面倒ではあるけれど、バーンアウトからの鬱といったリスクを減らし、より豊かになるという提言は、「他人の靴を履く」という理念とも通底する部分があるのかなと感じた。

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著者プロフィール

文芸評論家。京都市立芸術大学非常勤講師。
1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院博士前期課程修了(専門は萬葉集)。京都天狼院書店元店長。IT企業勤務を経て独立。著作に『人生を狂わす名著50』、『妄想とツッコミでよむ万葉集』、『妄想古文』、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』、『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない——自分の言葉でつくるオタク文章術』、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』など多数。
X(旧Twitter): @m3_myk
Youtube:@KahoMiyake

「2024年 『30日de源氏物語』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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