- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087213126
感想・レビュー・書評
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2024年を迎えてから読書の冊数がガクンと落ちた。厳密に言えば、読んではいるけれども最後まで読みきれない。これまでは隙間時間が10分でもあれば本を開いていたのに、今では片道1時間以上かける通勤電車の中でさえ本を読む気になれない。読まなきゃ読まなきゃと思ううちに、月日は流れ、葉桜が目立つ時期になってしまった。
時間はある。また、読みたい気持ちもある。ただ、読むためのエンジンが駆動しない。現に本を開き読み始めさえすれば、次が気になり読み進めてしまう。だが本を開く行為そのものが億劫で、読み始めるのに膨大な労力を要する。
これはいったい何なのか──
さて、縁は異なもの味なものとは言い得て妙で、本との出会いは不思議なものだ。面白い本を求めているときに限ってめぼしい本が見つからない。逆にふらっと立ち寄ったときに「これは…!」という本に出会ったりする。
本書はまさにその一冊だ。
前置きはこのくらいにして、なぜ私は本を読むことができなくなったのか。分析するに、
1) 時間がない
2) 仕事による疲労
の二つの要因に分けられると考えた。しかし考えても考えても、①読書する時間はあるし、②疲労困憊するほど働いているわけでもない。
では、なぜ本が読めないのか。これにはさまざまなアプローチがあると思うが、本書は歴史的な文脈からこの問題を徐々に紐解き最終的には社会的な側面からアプローチを試みている。その過程が正しいのかは別として、非常に興味深い手法であり一読に値する価値がある。
私たちが読書をする目的を考えてみよう。勉強するため、情報収集、仕事へ役立てるため、単純に趣味として、などなど高邁なものから凡俗なものまで多岐にわたる。それぞれにそれぞれの良さがあり、どれが良いと区別できるものではない。しかし、どのような意識を持って読書するかによって読書の「仕方」が変化するのは事実だ。そして、現代の社会人が読書できなくなったポイントはここにある。
大衆による読書という知的慣習は日本開国に遡る。欧米諸国に追いつき追い越せを果たすために、明治政府は国民へ教育の重要性を説き読書を推奨した。だから昔も読書をする習慣は存在していた。当時の日本国民は資本主義が流入し長時間労働が蔓延する中で本を読んでいたのだ。そしてこの慣習は今もなお続いている。
要するに現代の読書は何かしらの答えを探すための読書であるのだ。出版業界の業績は下がりつつあるが、その中でも「自己啓発系」のジャンルは堅調である。それは自己啓発本が何らかの答えをくれるからだ。
その根底には「コスパ」「タイパ」の考え方が潜んでいる。無駄なく効率よく情報を集めたい、答えを知りたい。そんな下心が見え隠れしている。つまり私たちは無駄が嫌いなのだ。
本書では、小説などの本から得られる芋蔓式の知識をノイズありの知識と定義付けし、反対に、読み手が知りたい情報そのものをノイズのない知識と位置づけをしている。読者は、前者を不要なものと捉え、後者に至上の価値をおく。
しかし、そんな偶発的な知識を切り捨てて良いものだろうか。そうして得た知識が役に立つものであれ役に立たないものであれ、恩恵を与えてくれるのは確かだろうし、そうした厚みが精神的な余裕へとつながる。これを俗に「教養」と言う。
そう、私たちは「教養」が大事なものであるとは頭で理解しつつも、そんなものに労力を費やしている余裕はない。答えは今すぐに知りたいし、教養を培ったところで何の役にも立たない(可能性の方が高い)。
だから私たちは気軽に情報の手に入るSNSにのめり込むのだし、直接的な解が導出されない文学作品を読む気力が起きない。実用的な情報を絶えず求めるウォーキングデッドさながらだ。
しかし、私はこれを書いていて思うのである。即物的な情報は結局はすぐに廃れる。新聞と同じだ。新聞はありとあらゆる情報が記載されているが、一年と経てばただの紙屑でしかない。激動の荒波に耐えうる本質的な知識は長い時間をかけて収集し、知識と知識を掛け合わせて自らが見つけ出していくしかない。つまりそれは「知恵」だ。
皆さんも胸に手を当てて考えてみてほしい。ついこの間仕入れた実用知を現実世界へ上手く使うことができただろうか。おそらく多くの人が失敗に終わったことと思う。
なぜなら、状況に応じて実用知を使い分けていないからだ。のべつまくなしに「チシキ〜」「チシキ〜」とさまよい求めてみても、そっくりそのまま適用できるわけではない。情報や知識は状況に応じて「加工」する必要があるのだ。
にもかかわらず私たちは実用知を「加工」せずそのまま使おうとする。だがその試みは得てして失敗に終わりがちだ。だから私たちは次から次へと情報を求め続ける知的ゾンビへと化してしまう。
言うなれば知識は食材だ。新鮮なうちに適切な調理をすれば美味しい料理になる。しかし、腐った食材を調理しても美味しいものはできない。また、いかに新鮮でも調理法を謝れば美味しくはならない。
一方で、知恵つまり料理の技術があればどうか。食材が新鮮であればなおのこと、たとえ多少劣ったものであったとしても調理法ではいくらでもよくなる可能性がある。
要するに知恵とは既存の知識に付加価値をつける技法なのだ。
知恵の前段階には「教養」が存在し、教養の前には「ノイズありの知識」が存在する。そして、ノイズありの知識の前には「ノイズなしの知識」が横たわる。私たちはこの「ノイズなしの知識」を仕入れて満足している。本当に重要なのはその先の先だというのに。
これまで私が切り捨てたモノの中にどれだけ高価ものが眠っていたことか。それを思うと、本の隅から隅まで暗記するほど読みたくなる。
まあそれこそ本当に読む気が失せるんだろうけれど。 -
序章が一番面白かった。
働き始めると本が読めなくなる人間はそこらじゅうにいて、自由時間を節約すれば読書自体はこなせるはずなのだが、どうしても気づけばスマホを眺めているというもの。
本編は読書史と労働史として、過去から今に至るまでの、その時代の読書はどんな層に向けて売られていたか、どんな本が売れていたか、どんな売り方をしていたか、その時代はどんなものが流行っていたか、など細々と参考文献を引用しなが解説していく。
円本は今でいうサブスクみたいなものだ〜という話や、修養から教養からコミュ力から自己実現〜という時代によって求めることが変わっていく話は面白かった。
しかし特に引用関係だが、偏りが強いように感じた。その引用は必要か?と思うものもある。序章で引用した“花束みたいな恋をした“や“パズドラ“のことを本編中に何回か再び引っ張ってくるが、くどく感じる。
タイトルから期待する話を読みたいなら本編は飛ばしてあとがきを読んでしまえばいい、というレビューを見かけたが、そのあとがきで提案されている読書手引きは真新しさもなく誰でも考えつくものしかない。 -
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新書の棚に来てほしいー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』刊行によせて|三宅香帆(2024年4月18日)
https://note.co...新書の棚に来てほしいー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』刊行によせて|三宅香帆(2024年4月18日)
https://note.com/nyake/n/n9dc3974ac1152024/04/19
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社会人になってから読書量が著しく減った。そう感じているのは、どうやら自分だけじゃないらしい──端的に言って、これが本書の売れている一番の理由だろう。
必ずしも時間がないわけじゃない。スマホでSNSや動画を見たり、ゲームをすることはできるのだ。なのに、本を読むことはできない。この労働と読書が両立しなくなった背景には何があるのだろうか。それを歴史的に明らかにしたのが本書である。
偶然だが、この本を読んでいるときに、NHKスペシャル「山口一郎〝うつ〟と生きる~サカナクション復活への日々~」を見た。いちばん印象的だったのは、「あんなに好きだった音楽ができなくなった。ギターを触ることさえ嫌だった」と語るところだった。
うつ病というのは、好きなことから順番にできなくなるらしい。たとえば、映画を好きだった人が「2時間も座って見るなんてしんどすぎる」と思うようになる。ドラマを好きだった人が「また今週も見なきゃいけないのがつらい」と言い始める。それなら、読書が好きなのに本が読めないというなら、現代人はみな「プチうつ病」にかかっているのではないか。
本書の内容を簡単にまとめることは難しいが、自分なりに整理するとポイントは2つある。1つ目は「情報化社会」である。情報化社会の到来によって、「教養」は「情報」に負けた。私はそう見ている。
『電車男』という本をご記憶だろうか。主人公のモテない男性が、エルメスという手の届かない女性との恋を、2ちゃんねるの住人たちが伝えてくれる情報によって成就させていく実話である。別な言い方をすれば、これは「情報」によってヒエラルキーを克服する物語である。
教養や知識と、情報の違いは何か。情報とは、「知りたいこと」「必要なこと」以外を削ぎ落とされた、ノイズのない知だという。電車男が掲示板を通して得た、自分に最適化された知。それが情報である。かつて教養は階級差を超克するためのものだったが、現代ではそれが情報に変わる。ひろゆきとは、従来の権威を「情弱」と切り捨てることで、ヒエラルキーを転倒させたトリックスターだったのである。
情報が溢れたネット社会では、読書によって得られる教養なんて、無駄な知識以外の何でもない。ノイズだからうるさい。
2つ目のキーワードは「新自由主義」(ネオリベラリズム)である。最近やたらと耳にする自己責任論。給料が少なくて生活できないと、それはそういう仕事を選んだ自分の責任だと言われる。収入を増やしたいなら資格を取るなり休日に勉強するなりして、もっといい仕事に就けばいい。
こういうふうに言われると、趣味で読書をするのさえ、悪いことをしているような罪悪感を覚えてしまう。歴史上いまよりも長時間労働だった時代は存在したが、ここにおいてわれわれは、生き方の上でも「余暇に好きなことをする」という行為の自粛を迫られたのである。
私はよく冗談で「AIが人間から仕事を奪うというなら、むしろ仕事なんかAIにやらせて、人間はベーシックインカムをもらって週3日だけ働けばいいよ」と言っている。これがブラックユーモアに聞こえるとしたら、それはAIがどれだけ進歩したところで、もうこの先余暇が増えることはないとしか思えないからだろう。
では、文化を享受し、余暇を楽しむものとしての読書を再び取り戻すには、どうすればいいだろうか。世の中を変えるしかない。市場という波にうまく乗ることだけを考える社会から、波そのものに疑問を突きつける社会。ノイズだらけの世界に向かって、もう一度自分を開くこと(ここは若干、筆者の主張)。
もちろん、個人にとっては簡単なことではない。だからかどうかはわからないが、巻末には「あとがき 働きながら本を読むコツをお伝えします」というものが付されている。その中に、書かれてはいるが著者があまり強調していないので、お節介だが私から力説したいことがある。それは、「読めなくなったら休め」ということである。
うつ病にとって、最良の治療法は休むことである。ゆっくり休んで、また「読みたい」という気持ちが湧いてくるのを待つ。絶えず結果を求められる世の中で、「待つ」という態度は決して楽ではない。だが、この「待つ」という忍耐が持てるかどうか、それが現代社会を生き抜く秘訣ではないだろうか。 -
タイトルが気になったので、手に取ってみた。かなり話題の本のようで、同じような思いや悩みを持っている人は、多いのだろう。
ネットの役割を十分に評価した上で、それでもネットにはなくて本にあるものは、自分の知りたい情報以外の何かだと著者はいう。著者はこの何かをノイズと名付ける(関連して、「教養とは、本質的には、自分から離れたところにあるものに触れること」という著者の定義は、カッコいいと思う)。
要は、今は忙しすぎてノイズに触れる余裕がない。しかも厄介なのは、強制ではなく「自発的」に働きすぎてしまう社会になってしまっていること、というのが著者の結論。本を入り口として働き方を考えさせられる1冊になっている。
ほか、高度成長期の司馬遼太郎ブームや、1980年代のカルチャーセンターブームの背景など、興味深い議論が色々と提示されている。 -
読書というより、読書の歴史と、働き方の本。
でも、期待以上にうまくまとめられていて、面白かった。
明治以降、教養と修養から読まれるようになった本。
文庫というものが出来て、持ち歩きが容易になったのも、電車を使った通勤通学スタイルが背景にある。
なるほどと思ったのは、そもそも「全集」とは、家にあると賢く見えるツールであり、なおかつリーズナブルだからだったのか。
確かに自分の家にも、文学全集あったもんなー。
スマホの誕生で、仕事に必要な知識や情報は、よりコンパクトに、そしてスピーディーに手に入れられるようになった。
そして、知識よりも個性を重要視する社会が、教養としての読書を遠ざけていく。
筆者は、だから、働き方を変えましょうという方向に論を進めていく。
いやいや、そうではなく、まだ何かうつ手がないかな、と考えてしまう自分がいる。 -
「なぜ働いていると本を読めなくなるのか」
大学生の身分で、働いてもいないくせに昔より本や漫画を読むのがおっくうになっている自覚があったので本書を手に取った。シンプルに疑問を解消したかった。
たくさんの文献を引用し、終始納得感のある理論が展開されており、想像以上に私にとっては響く部分が多かった。「読書と仕事」を「社会と自分」に展延して論じてくれる本書は人生観にも大きく繋がってくると思う。
本書の文章中には出てこないがこの本を読んで一つ個人的に私がキーワードだと感じるのは「短絡さ」であると思う。その場しのぎの、自己完結してしまうような短絡的な人生観と読書は相容れない。色々なことに興味のアンテナをたて、楽な方に流れない、生きることにもっと希望を持てるような社会が人々の「短絡さ」を解消し、より読書が楽しめる世の中を作るのではないかと感じる。
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時代ごとに売れた本の歴史を紐解くことで、そのときどきの仕事に対する価値観がわかりました。本が読めなくなった理由=その他の娯楽増加 という考えではなく、その娯楽や売れてる本から現代人は何を求めているかという点は、ハッと気付かされるものがありました。
こちらの感想があまりの文才で驚き、
素敵なお人なのだろうと感じました。
フォロー失礼します!
こちらの感想があまりの文才で驚き、
素敵なお人なのだろうと感じました。
フォロー失礼します!
ありがとうございます!!
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