- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087711714
感想・レビュー・書評
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『旦那さん以外に抱かれたいと思ったことはないの?』という問いに『ない』と答える『私』。それに対して『私が知ってる人妻は、皆、反対のことを言うよ』という友人の言葉に動揺する『私』。
『夫とは同じ団地のおとなり同士だった』という『私』。三歳年上のそんなお隣のお兄さんと結婚した『私』。『素敵なお兄さんは、いつしか打ち解けた恋人になり、結婚して三年経った今はむしろ気の合う親友のようだった』と感じる『私』。夫との会話を楽しみ、夫との食事を楽しみ、そして夫との人生を楽しむ。そんなごく普通の幸せな生活にそっと忍び寄る影がある。幸せな生活だからこそふいに忍び寄る影がある。
『幸せなはずの女性の心中に潜むモヤモヤしたものを描き出せたら、と考えました』と語る島本さん。この作品はそんな島本さんが『この世の多くの女性がどうして分かっていて深いところに落ちていってしまう』のか、そんな落ちていく女性たちの心の内をリアルに描き出した短編集です。
6つの短編からなるこの作品ですが、3編目から6編目は明確に、そしてよく読むと1編目も実は繋がっているという変則的な連作短編集となっています。そもそも書名が「あなたの愛人の名は」というところからして、不穏な空気が流れるこの作品。”愛人”、”浮気”、”不倫”、そんな不道徳な世界なんて!という感情が強いとこの作品を読むこと自体ただの苦痛かもしれません。もちろん私もそんな不道徳な世界を肯定などしませんが、そういう世界に今この瞬間にも身を置いている人がたくさんいるという現実があり、そして、その世界に身を置くことによって、何らかの心の不安定さを持ち堪えている人がいるのも現実なのだと思います。冷静に考えれば満たされているはずの日常、でもそれを満たされていないと思う感情、そんな感情がふらふらと行き着く先に、そんな足りないと感じる思いの行き着く先がある。この作品では、そんな思いを抱く男と女の感情の微妙な揺れ、心の機微に触れるような繊細な感情が島本さんの絶妙な表現をもって描かれていきます。
前述したように6つのうち5編は連作短編である一方で、唐突に置かれるのが2編目の〈蛇猫奇譚〉という短編です。他から全く独立したこの作品はその不思議なタイトルからしてさらに異端の光を放ちます。『ハルちゃんと暮らすようになったのは、三年前からだ』という主人公。『ボクはまだこの世に生を受けて百日目くらいだった。寒さと空腹で、公園の花壇で行き倒れかけていたら、仕事帰りのハルちゃんに見つかった』と読者の頭の中に浮かぶ主人公は何者?というクエスチョン。『オレンジと黒の毛が交じってチーターっぽいという理由で、チータと名付けられた』という第一人称の主人公は猫だった!という衝撃のオチが読者を襲います。そんな主人公は『結婚してからも、ハルちゃんはボクを一番に可愛がってくれる』という幸せな日々。そして『お昼すぎにハルちゃんと旦那さんは帰ってきた』というある日、『チータ。今年の夏にはうちに赤ちゃんが来るぞ』という旦那さんの言葉に『ボクはびっくりして、ひっくり返りそうになった』というチータ。そして、ハルちゃんのお腹はどんどん大きくなり、そして出産。そんな日々の中で『ハルちゃんはどんどんボクに冷たくなっていった』という一人と一匹の間の感情に変化が生まれていきます。そして…、というこの短編。猫視点というのは、例えば有川浩さんの「旅猫レポート」など他にもたくさんあると思いますが、島本さんがこのような作品を書くんだという意外感がまずは先行します。しかも他の作品は連作短編であり、その中にどうしてこのような猫視点という奇抜な作品がポンと置かれているのかという強烈な異物感が襲います。しかし、この作品の出来の良さもあって何か魅かれるものを感じるのがこの作品です。他の”愛人”、”浮気”、”不倫”というドロドロした物語の中にポツンと存在する、それらとは無縁の物語という異物感が逆に、この作品を愛すべきものとして感じさせるのかもしれません。そして、そんな異端な作品がこの短編集の中で浮くことがないのは『二つ同時には愛せないの』というハルちゃんの叫びに見られるこの短編集のテーマに通ずる感情が共通だからなのだとも思いました。
そして、登場人物が繋がる他の5つの連作短編ですが、特に結びつきが強いのは〈あなたは知らない〉と〈俺だけが知らない〉という二編です。まるで劇の中の対のセリフを思わせるようなタイトルがその結びつきを暗に物語ります。そしてそれぞれの短編での視点は、瞳、そして愛人の浅野へと順に切り替わります。そんな視点の切り替えによって同じ場面におけるそれぞれの感じ方の差異をはっきり見ることができます。
『どうして浅野さんにだけ私が私でなくなってしまうのか、自分でも説明がつかなかった』という瞳。幸せな結婚への道が見えているのに『初めて彼に出会った晩から、私は私じゃなくなった』と浅野のことで気持ちがいっぱいになります。対して『瞳さんとは、恋でもなければ愛でもない。それは自覚があって、そういうものを自分が求めていないことだけはなんとなく分かる』という浅野。『彼氏との付き合いが長すぎて半分くらいは惰性になってる状態なのかもしれない』、『だから、優しさがあっても使いどころがない分をこっちに回してもらっているのかも』となんとも冷静に考え『相手の男から大事なものを借りている気分になった』という二人の決定的な心の内の差異が見えてきます。そしてそんな関係が展開していく後半、そして、その余韻として一種のスピンオフ的に存在する後半の二編の短編を読むと自分を認めて欲しい、愛して欲しいという誰にでもある感情が、人それぞれの形で発露する、普通の人間の心の弱さのようなものを感じることができました。
ごく普通の幸せな生活の中にふと訪れる『なにも知らないからこそ、覗いてみたくなったのかもしれない』という感情。それは『私の知らない私を』というちょっとした冒険心がきっかけとなって始まるものなのかもしれません。しかし、その冒険の意味を知った時、その冒険は代償を唐突に求めてくる危険なものでもあります。『6編とも、あまり大きな声で言えないような恋愛や、人には明かせない秘密がテーマになっています』と語る島本さん。そんな島本さんが絶妙な繋がりで描く連作短編は、人の心の機微を感じる、そしてしっとりとした余韻の残る、そんな作品でした。 -
6編の恋愛短編集。
こりゃ読ませた。大人の心の内、機微をよく描いたな。満たされない心とか。許せないとかわからないと思う人もいるかもしれないけれど、物語に共感する人もいるだろうし(いないかもしれない)、物語だったとしても実際でもそういう人はいるであろう、そういう人の心の内、それがうまく描けていたと思う。瞳さんが出てくるものは連作。物語は立体的になって面白く読めました。短編集なのでどうかと思ったけれど、読んでよかったです。 -
「その昔 あなたのことが 大好きで
そして今では 嫌いになった」
「愛人」=「不倫」
だと思ってた私。
違いました。
「愛人」=「愛する人」
この物語に出てくる女性は、
とびきりの美人でも、抜群のスタイルを持ってるわけではありません。
教室の中では、目立たないグループにいる子達です。
恋をするということは、白か黒かだけではない。
そんなグレーゾーンを描かせたら、島本さんは天下一品です。
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稲田豊史氏の書評によって出会った本である。書評が素晴らしく、ここにその一部を引用する。
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全編に共通して描かれるのは、呪縛から解放されようともがくじょせいのすがただ。
呪縛のかたちはさまざま。「足跡」「あなたは知らない」の主人公は、夫や既婚者が善人であるがゆえに、むしろ離別する理由を奪われている。「蛇猫奇譚」と表題作の底にあるのは母娘の血の縛り。「俺だけが知らない」「氷の夜に」では、呪縛から解放される可能性が鮮やかに示される。
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夢と希望に満ちた結末を描くのが男性的なロマンチシズムだとすれば、女性はエンドロールの後も厳しい人生が続いていくことを知っている。手放しのハッピーエンドという概念が存在しない。それ自体が女性特有の呪縛ではないかと投げかける点に、本書の魅力がある。
(稲田豊史・ライター:琉球新報2月10日[読書])
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思わず、ハードカバーを手に取ってしまって、きっとあっという間に読んじゃうんだろうなあ、と思ったら、やっぱりあっという間だった。
この空気。浸っているのが好きだ。
「あなたは知らない」と「俺だけは知らない」のセットが……。
瞳さんと浅野さんの関係が、切なすぎる。
婚約者がいながら、浅野さんへ沈み込んでいく瞳さんと、あ、男がいるなって察しながらも、瞳さんを思い出している浅野さんの感じ。
結局、ベストなルートって何だったんだよーってじたばたする私。こういうのが、一番苦しい。
続く「氷の夜に」が、その延長線上じゃなくて良かった。
断られた時、瞳さんを思い出したもんなー。
「足跡」も島本理生さんらしいお話。
女性として見られる、ということの切実さに、未だ私は遭遇したことがない。
いずれは、恐らく、やってくるんだろうな、と思いながら……そのことを自覚したいような、したくないような葛藤がある。
そんな、誰にも言えないような苦味をすっと掬い上げてくれる人の存在は、たとえ一時的であるにしろ、救いだとも思う。
「蛇猫奇譚」
猫チータ目線で、赤ちゃんが出来た夫婦を追っていく。
あれほど可愛がっていた猫を、蛇のような目で睨みつけるお母さん。
お母さんって、そういう存在なのか。
そんな彼女をも、愛おしもうと振る舞うチータが、ひたすら可愛い。 -
それぞれの目線からの愛や恋みたいなものの短編集。全部ではないけどリンクしている話があって、それぞれの視点が面白かった。「それでも父は最後まで彼女の名前を口にはしなくて、その具体性がなによりも私たちを決定的に傷つけることを、もしかしたら分かっていたのかもしれない。」というところがなるほどなーと思った。
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読後に、名前の秘匿とか出す出さないとか考えるとき、名前が存在に輪郭をつけるという、この本の話を思い出す。
氷の夜の話で、二人の名前を途中まで明かさず途中で明かしたこと、澤井というのは最初の短編の最初から、最後の短編まで名前で出していたことは、敢えてだろう、というのを最後まで読み終えてから思った。
あと、マカオを旅行したときに自分も感じたことを、このように解釈して構成するとは。
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直木賞受賞第一作。
「足跡」「蛇猫奇譚」「あなたは知らない」
「俺だけが知らない」「氷の夜に」「あなたの愛人の名前は」
6話収録の短編集でリンクしている物語もあります。
1行目ですぐに島本さんだと感じる作品集だ。
登場人物達からは孤独や静寂が匂いたち、皆、何かしら後ろ暗さの様な物を潜ませている。
繊細で静謐、けれど熱く、淡々と綴られる美しい文章は島本さん独特の世界感だと感じた。
印象に残ったのは「足跡」と、対になっている「あなたは知らない」「俺だけが知らない」
空疎で満たされない男女の心情がひたひたと胸に迫り心に残った。
またよろしくお願いします。
またよろしくお願いします。