- Amazon.co.jp ・本 (473ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101126067
感想・レビュー・書評
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再読なのにまるで初読のように高鳴り貪り読んだ。こんな破滅的に哀しく滑稽で感動的な青春小説ほかに誰が書けよう。突き抜けている。誰もが胸の内に抱えている〈出発〉への欲求。斎木犀吉の傍若無人な短い人生に、その破滅の結末に、憧れと諦念を物語る青年小説家も犀吉同様不恰好で哀れだ。それでも〈出発〉に向けてのトランクをいつも傍らに準備している、その諦めの悪さと自信過剰に共感する。愛おしい。マヤコフスキーの《ズボンをはいた雲》の引用が効いてくる。こうした引用一つで色合いを際立ててしまうのは大江ならでは。素晴らしかった。
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「主人公」が自殺をした趣旨を手紙で知り、主人公との出会いから現在までの思いでを物語として「私」こと語り手が綴る、といった物語。
正直、主人公である斎木犀吉は、モラリストだの哲学者だのと書いておいて、身勝手で奔放な男だと思っていたのですが、最後の章でのやり取りや、海外へと出ていくさいの葛藤など、書き手目線で捉えると「嫌なやつ」としか思えませんでしたが、主人公である斎木目線で見てみると、それとはまた別の思いが浮かぶなど、大江が得意とする本人の体験に基づいた書き方もあり、著者の傾向がわかるような作品です。 -
大学の卒論で大江健三郎氏をとりあげ、当時の新作『同時代ゲーム』までのすべての作品を読んだ(「政治少年死す」は国会図書館でコピーした)。
そしてそれ以来、飽きてしまったのでだいぶ読んでいなかったが(氏の左傾の言動のせいもある)、30年ぶりに再読。
『同時代ゲーム』までのなかで印象に残った作品の1つがこの作品だった。
相変わらずくよくよした(女々しいというと今は差別になる)文体でたいへん好ましい(笑
日本で一番好きな作家は安部公房なのだが、ほぼ同時代に活躍した安部公房の代表的な作品は今読んでもふるさを感じないが、大江氏の作品にはふるさを感じるのはなんでだろう?
が、この作品には魅力的な登場人物が多い。なかでも
「おれはここにいても、どこか向こうへ行ってもおなじなんだよ。だから、おれは、どここか遠方へ行ってみようと思うんだよ。おれをどこかへつれて行ってくれる人間がいるんだから、ついて行ってみようと思うんだよ。おれはどこにいてもおなじなんだから、なんとかやってみるんだよ!」
という暁のセリフが好きだが、これはまさに主人公の青年小説家の心情だ。
というわけで久々にほかの作品も読み返してみようと思うが、手元にあるのは昭和59年前後の文庫本が多く、字が小さいのと経年劣化で紙がしょうゆに浸したような色になっててたいそう読みにくい。でもまあそれも味わいということで。 -
マヤコーフスキーの詩になぞらえ自分が《ズボンをはいた雲》であると信じ時をまつ青年、斎木犀吉。ヒポコンデリアにかかった作家のぼく。
日常生活の冒険旅行を夢見る人たちのお話。
面白かった。
羨ましいような、そわそわした気持ちになった。
ぼくが犀吉に傾倒し、でも次第に変化していく関係。
犀吉の魅力は幼さでもあるのかもしれないけど、憧れてしまうのも解る。
反・冒険者であっても、ひそかに旅行鞄を買い求めそれを隠してきた――実は多くの人がそうなのではないかな。自分も。
だからグッときました。 -
大江版オンザロード。奔放で破滅的で魅力的な友人。モラリストに憧れます。
自分を知るためにはモラリストである必要があるのかと思ったり、文学的であることとはモラリストであることなのかと思ったりしました。 -
ちょっと難しかった。
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大江健三郎の作品の中で一番好き。
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われわれが日常生活で想像力を働かせるというのは、過去の観察のこまかなな要素を再構築してひとつの現実をくみたてることにほかならない。p417
「この長編の題名には、その冒険の可能性なき世界を冒険的いきなければならないというひとつのモラルが、すでに含まれている」(渡辺広士の解説より) -
日常生活の冒険しすぎでしょ、おじさんw