- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101136011
作品紹介・あらすじ
お姥捨てるか裏山へ、裏じゃ蟹でも這って来る。雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく。残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ-因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた『楢山節考』。ほかに『月のアペニン山』『東京のプリンスたち』『白鳥の死』の3編を収める。
感想・レビュー・書評
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1956(昭和31)年に刊行されたというから、ずいぶん昔の小説を読んだ。刊行当時、著者は42歳で本作が処女作である。もともとミュージシャンだったらしい。本作に唄が多用されているのは、その影響であろうか。
三島由紀夫に「それは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。」と言わしめた楢山節考は、「姥捨の伝説」が題材となっているので、三島の評にも首肯せざるを得ない。
解説で日沼倫太郎が述べているように、著者は本作を描くにあたり、登場人物の心理描写などには踏み込まず、淡々と神の視点から見たままを描いている。日沼はさらに「あらゆる事象は『私とは何の関係もない景色』なのである」と言う。たしかに本作を読んでいると、事実の叙述の中、いわば行間から、登場人物の行動をとおして否応なく情念がにじみ出てくるような印象を受ける。同時に、貧しい山村で、人々が生きていくために「そうするしかなかった」慣習が、極限の状況を如実に伝えるのである。
三島の言葉どおり、そこには「人間性」をも否定――否定というより「無効化」かもしれないが――するほどの力を持っている。それほどの極限の状況をただ淡々と描き、極限の状況下において「人間性などという概念は意味を持たなくなる」ということを伝えるのである。喜んで「楢山まいり」(姥捨)に向かうべく着々と準備を進めるおりんと、村の慣習にいやいや従い、手助けする息子・辰平の両者の姿に、私の気持ちもざわついた。所どころに挿入されているわらべ唄も。さりげなくその壮絶さを伝えるのに一役買っている。
三島が言う「『悲劇』が軽蔑され」た後には、絶望しか残らないのかもしれない。それでもなお。おりんが目指した「完全なる死」と、あえて言葉を多用せずともお互いに心の中まで理解しあう親子、そしてその根底にある「愛情」さえも慣習には抗えないという事実を描いたこの物語は、短い話ではあるが、一度は読んでみるべき小説であると思う。 -
表題作は姥捨山の伝説を題材にした短編。映画化されたこともありもっと長編のようなイメージだった。しかし短い中にいろんな人間の感情がものすごく濃縮されて詰まっている。
主人公おりんは、年老いてなお歯が丈夫なことを恥ずかしく思い、毎日、石で叩いて折ろうとしている。食い扶持を少しでも減らしたい貧しい村で、丈夫な歯を持つ=たくさん食べる年寄りなど害悪でしかないと考えるからだ。同様に、曾孫は「ねずみっ子」と呼ばれ、若くして次々子供を作ることは無駄に食い扶持を増やすゆえ悪徳とされ、結婚は遅いほうがよく、子供は少ないほうがいい、つまりそれくらい貧しいのだ。
おりんは、ゆえに、できるだけ早く「楢山まいり」=姥捨山に捨てられることで家族に迷惑をかけず旅立ちたいと考えているが、孝行息子の辰平は複雑だ。妻に先立たれた辰平のために迎えた後妻・玉やんも気立てがよく、おりんを慕ってくれている。
しかし孫で十六になるけさ吉は恩知らずのバカ息子で、松やんという大食いの娘を孕ませて結婚、継母もいらない、婆はとっとと山へ行けみたいな態度。このくそバカ息子ほんと腹が立つ。しかしおりんはこの「ねずみっ子(曾孫)」が産まれる前に(あるいはこの子を間引きさせないために)山へ入ろうと覚悟を固める。
あちこちに白骨がちらばり、まだ新しい死体にカラスが巣食うような山奥に親を捨てて去らねばならない辰平の苦しさ、切なさ、自己犠牲を厭わないおりんの潔さ、反面、けさ吉のような情のない人間、死ぬのを嫌がる老親を崖から突き落とす別の家族の無情さ、いろんな感情につまされて胸がぎゅうっとなる。村人たちがさまざまな場面で歌う素朴な歌もとても切ない。
「月のアペニン山」は“精神病”という言葉が何か抽象的な怖れや偏見と共に口にされた時代の残酷さを感じる。まあ確かにこの奥さんの言動は怖いけど。「東京のプリンスたち」は昭和30年代の少年たちの群像劇、これはさすがにちょっと時代が違い過ぎてピンと来なかった。でもそういえば篠原勝之の本を読んだときに「深沢七郎親分」はプレスリーが大好きだと書いてあったっけ。
「白鳥の死」は鳥の話かと思いきや、正宗白鳥の話だった。一見、情がないような言動が記されているのだけれど、実はもう「生きている白鳥」に会えない作者の悲しみがじわじわ沁みてくる。
※収録
月のアペニン山/楢山節考/東京のプリンスたち/白鳥の死 -
車谷長吉が「文士の魂」で紹介していたので読んでみました。
棄老伝説(現代の感覚では)おぞましい風習と「おりん」という美しい心の老女をヒロインにするという、テーマでほとんど興味が惹きつけられて読んでみました。
何かに迷ったとき「死ぬ直前に俺はどう思うやろ?」と思うことにしています。つまり、死ぬとき「納得のいく、満ち足りた人生やったなぁ、あのときあれで良かったなぁ」みたいなことを思って死にたいと常々おもう。
現実は、そんなにきれいではなくて、細々とした諍いや悲しみや不満がある。だけど、大事なとこではブレてはいけない、死ぬときに納得いかんそうやから。
この小説のクライマクスでは、おりんが筵の上にたち、息子を見送るシーンがあるけれども、そうできるのは、おりんが自分の生き方に納得がいったからやろう。
書評を書いていて気づいたけど、おぞましい風習やと思っていたけども、自分の死を納得行く形で迎えることができるという意味では、精神的で人間的な一つの終わり方であるとも言える。
「人生永遠の書」と激賞された意味が少しはわかったかもしれへん。 -
村で生きていく知恵は残酷だが理にかなってる。
村人が村で起きた事件、出来事を言葉にし節をつけて歌っているのが印象的。みなが覚えられるように歌には節の形式があり、受け継がれる歌には村の風習(掟)で揺れ動いた先祖たちの感情が込められている。
理性を熟練させた年功者にのみ、祭る判断が許される村の営みに至高の物語性が宿っています。
生にしがみつく男性は地獄に堕ち、生を生み出してきた女性は穏やかに最期を達観する。と読み取ったら背筋を正しながらも背筋が凍る想いにかられました。 -
楢山節考に衝撃を受けた。他はそんなでもない。柳田國男を想像してたんだけど、違った。
食べ物の少ない村。70歳になると姥捨山に置いていかれる風習。待ち望むおりん。心に深々としみる唄と、家族の愛情。常識を疑わず掟に従って暮らす村人。
人智を超えた「人間らしさ」にあふれている。
関東地方の(著者からすると山梨?)方言の魅力もあり、どことなく身近で、昔話を小説に起こしただけとは言えない、生き生きとした状況、残酷さと清々しさにあふれている。 -
父の本棚から拝借。
短編集で楢山節考だけ読みました。
山に親を捨てるの無理だな〜
背負って逃げるか!?
芋盗んだ雨屋は生き埋めになったって事なのかな?怖っ。
実話ではないだろうけど、今の時代に生まれてよかったな。 -
日本人が耳にした事ぐらいはある姥捨山のリアル。
様々な文学的評価を受けてるが、作者本人は何も考えずおばあちゃん子の気持ちで書いてるだけなのが他著で分かっていて面白い。
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あまりにも日本的、環境も人も全て
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やもめに自動的に後家が嫁ぐ、口減らしに赤ん坊を間引く、何度も食べ物を盗む一族は皆殺し、70歳すぎれば、山に入る。これらすべてが、「言わなくてもわかること」なのである。つまりは、本来の意味で常識である。いっさい感傷を交えず、村の掟は、淡々と守られるべきだが、やはり、人は戸惑う。現在の人権意識では測りきれない合理性で、村の秩序は維持されていた。自然の法則を貫ぬくことは、容赦なく残酷であるが、なぜかユーモアもあふれている。母を山に捨てに行く辰平は未練だらけだが、楢山に雪が降ったことで、ふたり慰められる。