道ありき 青春篇 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101162027

感想・レビュー・書評

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  • 三浦綾子が、キリスト教に入信するまでの話。闘病生活の中でもすごく生きている感じがある。
    とても魅力的な女性だと思った。ちなみにこの本は韓国人の方から頂きました。

  • 死を意識して生きている人の様は
    とても惹かれる
    キリスト教信者
    人に優しくできる影響があるなら、宗教は悪くないと思う

  •  三浦綾子氏の自伝である。

     作品は、3部作の1部目となり、著者が結婚するまでの紆余曲折、キリスト教の受洗し、信徒となるまでの体験などを記している。

     著者は体が悪く、寝たきりの生活を送っていた。そこに、キリスト教信徒であり、彼女の人生を変えることになる前川正が現れる。

     キリスト教とは、御人好しで、きれいごとを言っているように思っていたが、そうではないことを知って、どんどんキリスト教への考えが変わっていく。キリスト教とは、互いに相愛せよ、とか、人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ、とか、そういったものを言っているものとばかり思っていたが、違った。12章に及ぶ伝道の書には、何もかも空なり空なりと書いてある。「われわれが心に言いけらく、汝楽しみを極めよと、ああこれもまた空なりき。われは大いなる事業をなせり。わがために家を建て、園をつくり、もろもろの木をそこに植え、また池をつくりて水を注がしめたり。われはしもべ・しもめを買い得たり。われは金銀を積み、妻妾を多く得たり。かくわれは全ての人よりも大いになりぬ。。。されど、みな空にして風をとらうるがごとくなりき。日の下には益となるものあらざるなり。」。つづいて、自分は知恵があると思っているけれど、愚かな人間の遭うことに自分もまた遭うのなら、知恵などあるとはいえない。利口者も、馬鹿者も、共に世に覚えられることは無い。次の世にはみな忘れられている。みんな同じ様に死んでしまうのだ。知恵などあっても、結局は空の空ではないか、と書いてある。この虚無的なものの見方は、釈迦の話にもある。釈迦はインドの王子に生まれた。健康で高い地位と富に恵まれ、美しいヤシュダラ妃と、かわいい赤子を与えられていた。言ってみれば、この世で望める限りの幸福を一身に集めていたわけだ。しかし、彼は老人を見て、人間の衰えゆく姿を思い、葬式を見て人の命の有限なることを思った。そしてある夜ひそかに、王宮も王子の地位も、美しい妻も子も捨てて、一人山の中に入っていってしまった。つまり釈迦は、今まで自分が幸福だと思っていたものに虚しさだけを感じ取ってしまったのであろう。伝道の書といい、釈迦といい、そのそもそもの初めには虚無があったということに宗教というものの共通する一つのものが見える。ただ、虚無は、この世の全てのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追いつめられた時に、何かが開けるということを伝道の書に感じたものがあった。

     彼女は自分の将来を悲観し、死のうとした時があった。また、それを乗り越えて、生きよう、生きたいという時に死にそうな目にあった。その時こう思うのである。死は何の相談もなく突如襲ってくる。死にたいと願ったときには死ぬことは出来ず、しかし、生きようと思い始めたときに死はいつ自分のもとを訪れるかわからないのだ。この世には、自分の意志よりも更に強固な大きな意志があることを感ぜずにはいれなかった。その大いなる意志に気づいてみると、平凡な日常生活の一日にも確かに自分の意志以外の何かが加わっていることを認めないわけにはいかないのである。例えば、今日は洗濯をし、本を読み、街に買い物に出て行こうと大雑把な計画を立てる。ところが洗濯の途中で雨が降り出し、読書の最中に腹痛が起こり、さて街へ出かけようと思うと客が来る。決して自分の意志どおりに事が運んでいかない。人間の考えが余りにあさはかだから、何者かが私たち人間の立てた計画を修正してくれるのであろうか。そんなことを考えるようになった。むろん、この何者かとは、絶対者神のことを指しているのである。

     罪の意識が無いということほど人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしてもなんら良心の呵責が無い。それと同様に、人の心を傷つける行為をしても気づいていなければ、胸が痛まない。罪の意識が無いのが最大の罪なのだ。罪の無い人間などはこの世にはおらず、それを感じていない人たちの積みも含め、全ての罪を背負ってキリストは十字架にかかったのであったろうか。

     彼女は、療養中、色々な人に励ましの手紙を書いた。その方から、返信が届くようになった。そんな中、彼女は、自分のようなものでも人を喜ばせ、慰め、何かの役に立つことができるのだと。人を慰めることは、自分を慰めることであり、人を励ますことは、自分を励ますことであるという平凡なことにきづくのである。

     そんな中でも、悪いことは起こる。彼女の愛する前川正も病気であったが、遂に帰らぬ人になってしまう。このため、彼女は、神に恨みつらみを述べてしまう。しかし、彼女の前に、前川正とうり二つの、しかも考え方までも似ている三浦が現れる。初めのうちは、その人に心が傾いていく自分を呪い、戒めていたが、前川が遺書で、何者にも縛られず、不自然な綾ちゃんでいてはダメだ、とあったことから、前川の深い愛情を認識し、三浦と結婚することになる。必要なものは必ず神が与えてくれる。与えられないのは不必要だという証拠であると。

  • 私はキリスト教信者でもないし
    これまで宗教的な本はほとんど読んでこず抵抗があったのですが、
    途中からどんどん引き込まれ、一気に読めました。
    人の心はうつろいやすく、ずっとこの人を愛していると一度は思っても他の人に惹かれてしまうことがあったり、そんな自分が不実に思えたり。
    この本からは、そんな人間の心に対する答えのようなものを与えてもらったと感じました。
    人生において最も大切なことは人に何かを与えることではないか、そして、どんな出来事も神によって与えられたものと思い前向きに自然に乗り越えていくことについて考えさせられました。

  • 三浦綾子の「塩狩峠」を読んでから、約2年と4ヶ月。三浦綾子の作品に貫かれている文学的主題にもう一度向き合ってみて、2年前の自分がいかに浅はかで、愚かで、薄っぺらい人間だったか思い知らされた。

    「道ありき」には何度も繰り返される言葉があって、それは「真実」という言葉。敗戦によってこれまでの価値観、信じていたものを捨て去ることを余儀なくされ、絶望に染まる筆者が何よりも求めたもの。変わることのない、本当のもの。生きしと生けるものはみな無常なので、彼女は神に「真実」を求めた。もがき、あがく精神世界が信仰を軸に静かに、穏やかに満たされていく過程がよくわかります。

    この世には読み終えたと言うことのできない本がある。「読んだ者の責任として、その後の生き方において、この本に応えなければならないという本もあるはずである。」今、この本を読んで良かった。わたしの精神を養うものに出会えて良かった。

  • 文章が侍(?)のように、きりりっとしていて、真面目。色々と、悩んだり、困難にぶつかったり、悲しみにくれたりもするけど、どこかカラッとしていて、明るい。
     前川正をはじめ、稀有な人格者がたくさんでてくるが、同じ人間なのか、怪しくなると同時に、素直に頭が下がる。

  • 父の勧めで『塩狩峠』を読み感銘を受け、
    「次は彼女の自伝三部作を読むと今後の作品がまた面白く読めるよ」
    というこれまた父のアドバイスを受け、
    『氷点』を読みたい気持ちをグッと堪えて読み始めました。

    三浦綾子さんの自伝三部作の第一作目、『道ありき』。
    本作は青春編となっており、
    教職を辞してから13年にも渡る闘病生活が描かれています。

    壮絶な病気との闘いの中で
    様々な出会い、別れ、愛や信仰について綴られていて、
    『塩狩峠』ほどの名作を生み出した彼女の芯に
    少し触れることができたように感じます。

    確かに自伝を読んでから作品を読むと
    さらに理解が深まり面白さも増します。
    父のアドバイスに感謝!

    続いて自伝二部の『この土の器をも』も読みます。



  • 人のあり方として感銘を受けずにはいられない場面の連続である。正直、現実離れしている。(言動の)意味が分からないと何度も思った。これが自伝、半ノンフィクションというから信じがたい。山あり谷ありならぬ、罪あり救いあり。(しかし、大抵の人には優れた導き手がいない。前川正に導き手はいたのだろうか。)

    ーーー以下引用ーーー
    「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです」と、自らの足を石で打ちつけた彼の姿を思った時、真剣とはあのような姿をいうのだとわたしは気づいたのである。いや、真剣とは、人のために生きる時にのみ使われる言葉でなければならないと、思ったのである。1032

    わたしはパスカルの「パンセ」を読んで、パスカルのいう賭に興味を持った。(なるほど、神があるという方に賭けたなら、わたしは神を信じて、希望ある充実した一生を送ることができるだろう。もし、神がある方に賭けて、神がなかったとしても、わたしは何ものをも失わない。むしろ実りある一生を送れるのだ。もし神がない方にかけて生きたとしたら、わたしのような人間は、おそらく自堕落になり、いい加減に生き、つまらぬ快楽にふけって、一生を浪費することだろう。そして最後に神がおられるということになったとしたら、一度も神を信じなかった自分は、どうやって神の前に出ることができるだろう)1861

    罪の意識がないということほど、人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしても何ら良心の呵責がない。それと同様に、わたしもまた、人の心を傷つける行為をして胸が痛まないのだ。こう思った時わたしは、(罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか)と、思った。そしてその時、イエス・キリストの十字架の意義が、わたしなりにわかったような気がした。2449

    三浦光世はそのわたしに言った。「あなたが正さんのことを忘れないということが大事なのです。あの人のことを忘れてはいけません。あなたはあの人に導かれてクリスチャンになったのです。わたしたちは前川さんによって結ばれたのです。綾子さん、前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょうね」3968

  • 『氷点』『塩狩峠』で知られる三浦綾子氏の自伝小説。本作品を読む前は綾子氏を職業作家と思っていたが、彼女を見舞った幾多の試練に対して誠実にそして前向きに向き合う姿が印象的だ。

    肺結核を患い13年間床に臥すとはどのような思いであっただろうか。しかも敗戦による教師生活の喪失感を抱えながら。しかし綾子氏にはその日常の暗さを感じない。一時的な2重婚を抱えながらやや退廃的に生きる彼女が、前川正そしてキリスト教と出会い聖書と信仰を心の肝に置くことで人間的な成長と深みを増していく姿が印象的だ。

    本作は三部作の第一部で、夫である三浦光世と出会い結婚するまでを描いた作品であるが、困難のうちに生きる人間の輝きと強さを感じられる作品であった。

  • 三浦綾子文学記念館の案内人さんにおすすめされた本。自分の内面をここまでオープンにすることに驚き。自らの経験が三浦文学に入っているということがよくわかった。

著者プロフィール

1922年4月、北海道旭川市生まれ。1959年、三浦光世と結婚。1964年、朝日新聞の1000万円懸賞小説に『氷点』で入選し作家活動に入る。その後も『塩狩峠』『道ありき』『泥流地帯』『母』『銃口』など数多くの小説、エッセイ等を発表した。1998年、旭川市に三浦綾子記念文学館が開館。1999年10月、逝去。

「2023年 『横書き・総ルビ 氷点(下)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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