- Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101379081
作品紹介・あらすじ
光源氏、西行、世阿弥、南方熊楠。歴史に名を残す天性の芸術家たちが結んだ「男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたち」とは-。薩摩隼人の血を享け、女性でありながら男性性を併せ持ち、小林秀雄、青山二郎ら当代一流の男たちとの交流に生きた白洲正子。その性差を超越したまなざしが、日本文化を遡り、愛と芸術に身を捧げた「魂の先達」と交歓する、白洲エッセイの白眉。
感想・レビュー・書評
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あの白洲正子がなぜ澁澤龍彦的(国書刊行会的でもよい)なタイトルで?と驚いて手に取ったが、内容はまったくもって澁澤龍彦的でなく、「両性具有」よりも男性の同性愛や稚児愛、衆道を古典や伝統芸能をメインに眺めるエッセイだった。
男色のエロティシズムよりも寧ろ古典文化の「女性を立ち入らせないところにおける関係性」のようなものに筆が回っているような印象。だから、やっぱり澁澤龍彦的ではないし、作中何度か名前が出てきたものの、稲垣足穂との親和性も余りない。
主なテーマ
薩摩隼人の血を引くこと、美男子・光源氏、女性への恋物語を多々持ちつつも特別な関係の男が見え隠れする在原業平や西行・稚児への特別視と能、逗留した家の若者とのロマンティックな別離を書いた南方熊楠、そして美少年でもあった世阿弥。
こうして見てみると、最近の本ではよく言及される江戸の戯作における男色の事は意図的に捨象されている(筆者も「真物の衆道は室町時代で終っていたのだと思う」)。西鶴のその手の作品の存在には一応の言及があったが、どこがどう白洲正子のお目に適わなかったのか、それが気になったりもした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
すごいのを読むのかなと思ったが、なかなか示唆に富んだエッセイである。
文芸の世界から見た「両性具有の美」
私の中にも美しい男でもない女でもないひとにあこがれる気持ちがある。
子供時代、手塚治の「リボンの騎士」をこよなく好んだ。
天使の手違いで女の子のかたちなのに男の子のこころを入れられて、女の子として生まれたのに王子として育てられ、隣の国の王子さまを愛してしまう冒険物語。
ちょっと前なら「ベルサイユの薔薇」?現代ではどんなものがあるか知らないが。
いにしえの文芸の世界はもっと色濃く情緒たっぷりであった。
このエッセイ集は「両性具有」を男でありながら女でもない中性でもない煙るような存在として描き出している。
美しいものに目がないひとは、その美しいものがなんであっても感応する。
『男女や主従をこえたところにある美しい愛のかたち』…帯より
女性でありながら男性性を併せ持ったまなざしの白洲正子。
その薀蓄(うんちく)がすごい。っていうと今流行りみたいにになるが、
「能」のたしなみからくる日本的なものへの洞察力すばらしさに目を見開かされる。
知性と美貌を持っていたひとたち光源氏、西行、世阿弥、南方熊楠の人物像にせまり、いにしえの文からたち昇る美しいもの、愛のかたちを解き明かしてくれ、それに惹かれる。
そのあやうさを愛でたくなる。
と、上記の私の感想は一部分、このエッセイは範囲が広く例えば「能」について、男と女の「両性具有」のあり方の違い(というより男のほうに重きおいているが)を語っている。
このエッセイを読みながら、こんなことも思った。
3年前「千年の恋 ひかる源氏物語」を観た際、光源氏を天海祐希が演じたが、似て非なるという思いをした。
天海祐希さんは女性ながらさすが宝塚、凛とした美しさがおありだが、私の頭の中のイメージは違う違うと言う。美男俳優が演じても違うだろうと思い、古文といえどその文脈から想像されるイメージは簡単には現れない。その美しさを白洲正子は「両性具有の美」として語る。
ちなみに若い頃は光源氏はなんて浮気性、好きになれない!と思っていたが、今、なにやらわかるようになった。紫式部というひとは才能が一通りではないのだろう。
ことほどさように興味深い「両性具有の美」ではある。 -
だっーーー。どんなに高尚な文章で、緻密な歴史考察だろうと、ムリッ!男同士の行為は、どんな理由付けしたところで、余分な部分だし。余分とは、必須ではないという意味で。
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両性具有というか、古典作品にみる美少年讃美?のエッセイ集。垣間見える知識量や贅沢そうな知人等経験が羨ましい限り。
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読み終わってからしばらく時間たっちゃったし何なら最後まで読みきれなかった、半分くらいまではめちゃめちゃおもしろかったんだけどなあ...難しかった.....
奥深くて底知れないような印象を文章からうけた
粘菌の話題はなんだか面白くてなんとなく記憶に残っている
人と人との繋がりに体の交わりがどれだけ重要なものなのか、エッセイとかあとがきも含めて考えさせられた -
日本の古典文学の「源氏物語」や万葉集などに収められた和歌、能の大家である世阿弥、圧倒的な知識人であった南方熊楠などを縦横に語りながら、男色、衆道の中に「両性具有の美」を見出す。日本文化が絢爛と開花した時代は和歌や文学において性別が一枚ベールをかけたように曖昧模糊としている。能や歌舞伎などの舞台芸術は男が女を演じるけれども、改めて考えてみると何だか不思議な気がする。両性具有は現実を超越したところに立現れる。そこは幽玄の場所、神の領域なのだ。
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這本書一面倒地在講男性的兩性具有之美,到最後一章才提到龍女的變身男子。白洲說她寫這本書其實就只是因為學習能五十年才發現只有真正的男性才能走到能的巔峰,不管怎麼覺得嘔,女性怎麼努力天生就是無法達到。作者滔滔論及的男色文化史饒富興味,而如此地熟知這樣的情份,作者也是兩性具有的女豪。深掘這段歷史中被長期無視卻美麗的土壤,又敘述地如此自然與優美,就小品而言是部可讀性極高的作品。最後一句結語倒是令人起雞皮疙瘩「そりゃ命賭けじゃないからよ」,當代乍似對所謂的LGBT等等越來越寬容,不過究竟有多少人還能理解書中所描繪的其中肉體交融中,或者甚至就是只有精神的交融,所達到的精神性與高度呢。無論是眾道如此自然地像呼吸一樣的時代,或者是拚了命躲躲藏藏的時代,有高度而深刻的精神性,這些交融才會昇華。當代人透過媒體及網路的發達可以受到越來越多刺激,但是對於悲歡離合的感受力也越來越淺薄,欣見平等與寬容的花朵開滿世界,但也對眾道等被化約成單純的性取向,被去精神性感到惋惜。
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日本の芸術とBLについての根源的な回答がここに。