シッダールタ (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (164ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102001110

感想・レビュー・書評

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  • 内面へ深く沈んでいく物語だと思ったので、抽象的な文章で綴られているのかと思いきや、端的でどのシーンも鮮やかな印象を残していった。文章から滲み出てくる美しさにこれほど感動したのは初めてかもしれない。
    「ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ」というシッダールタの言葉からは、この小説自体に矛盾を投げかけているようにも思われるが、むしろ言葉以上のものが、思想以上のものが、流れ込んでくるのを感じさせられる点に、この作品の比類なさがあるのだと思う。

  • うつ状態で寝込んでいる時に読了。
    ベッドから抜け出せずに、会社にもいけない。自分って何だ?何で生きてる?と思春期の少年のように悩みこんでいた。その時に前に買って積読状態になっていた本書を手にとった。
    この本に出会って人生観が変わって、うつから開放されました!!
    というわけには行かなかったのであるが、とても印象に残った事は確か。
    このシッダールタというのはいわゆるブッダではないのではあるが、その境地は仏教の悟りそのものだと感じた。もっとも私は悟ったことはないのでどういう状態が悟りなのかはしらないが。
    やっぱ色々経験してからじゃないと分からないことがある。この物語を読むと、何人分もの一生を体験した気にさせられた。
    ヘルマンヘッセというと車輪の下しか知らなかったのだが、これはそれにも劣らない名作であると思う。

  • 少年の頃、「車輪の下」を読んで、よし、ヘッセは取りあえず押さえたと思ったのだ。何にも知らない子供だった訳。だから、「デミアン」も読んでいない。
    英国のバンド、YesのClose to the Edge(邦題 危機)のアイディアはこの本だそうである。Yesのファンではないが、文庫を見付けて手を出してみる。
    ドイツ人の書いた釈迦。どうせ変なところが多いんだろうと思っていたが、そんなことはなかった。勿論、自分の知る釈迦の話とは違う物語であったけれど、そう云ったら手塚治虫のブッダだって違うモノだろう。こういう釈迦も有り得たかもしれない。兎に角、美しく端正な文章に終始魅了された。ヘッセは20年もインド思想を研究していたそうである。まったく僕は無知だった。
    ところで、Yesの歌詞との関連はあるような、ないような。ただ、「危機」という邦題は大誤訳だな。

  • ヘッセというと、中学や高校で『車輪の下』などを読まされることが多いせいか、どうしても中高生向けの作家というイメージが強く、大人になってから手にとる方は少ないかもしれません。

    事実、友人にプレゼントされることがなければ、本書を読まずに過ごしてしまったことでしょう。でも、久しぶりにヘッセを読み始めて驚いたのは、あまりにも今の自分にしっくりくることした。10代で、勝手にヘッセを卒業した意識を持っていた自分の不明を恥じ入りました。友人に感謝、です。

    シッダールタとは、釈迦=ブッダの世俗の名前ですから、本書は釈迦の生涯を描いたものだとばかり思っていましたが、これも誤解でした。本書の主人公シッダールタと釈迦は全くの別人です。釈迦同様に、何不自由ない暮しを捨て、沙門(苦行僧)として悟りを求めて修業の日々を送るところまでは同じですが。

    釈迦その人とシッダールタが邂逅する場面に至って、なんだ別人だったのか、と読者は知ることになるのですが、本書が俄然面白くなるのは、ここからです。釈迦と出会うことで悟りに近い大きな気づきを得たシッダールタは、しかし、釈迦に従うのではなく、世俗に生きる道を選びます。そして、「考えること、待つこと、断食すること」しか知らない超越した姿勢が逆に幸いして、美しい女性と社会的な名声と金銭的な成功を手に入れることができます。

    ところが、シッダールタはやはり世俗の人にはなりきれず、成功すればするほど、倦み疲れ、生きる気力を失っていきます。そして、いよいよ限界だと知った時、内奥の声に衝き動かされ、三たび、それまでの生活を捨てるのです。

    彷徨の末辿り着いたのは川のほとり。その川で、シッダールタは川の渡し守として四度目の人生を生き始めます。そして、この四度目の人生が、シッダールタにとって大きな転機となるのです。

    本書は、少年が老人になるまでの魂の彷徨を描いています。その過程が教えてくれるのは、人はその気になれば、何歳からでも、何度でもやり直すことができるということ。そして、自らの魂の声に正直に生きている限り、どんな回り道をしても、最後には自分自身と世界とがつながることができる、ということです。

    また、シッダールタが成功を手に入れ、それを放擲するまでの過程には、とても大切なビジネスの極意が書かれていますし、渡し守としての生き方には傾聴することの価値を教えられます。下手なビジネス書や自己啓発書を読むより、そういう実践的なことをずっと多く学べる点も素晴らしい。やはり時代を超える名著には、汲めども尽くせぬ知恵が詰まっているのですね。

    詩と真実に満ちた美しい輝きを持つ言葉の一つ一つが、多くの気づきを与えてくれる一冊です。是非、読んでみて下さい。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    世界をそのままに、求めるところなく、単純に、幼児のように観察すると、世界は美しかった。月と星は美しかった。小川と岸は、森と岩は、ヤギとコガネ虫は、花とチョウは美しかった。そういうふうに幼児のように、そのように目ざめて、そのように近いものに心を開いて、そのように疑心なく世界を歩くのは、美しく愛らしかった。

    時々彼は胸の奥深くに、消え入るようなかすかな声を聞いた。それはほとんど聞えぬくらいにかすかに警告し、かすかに訴えた。それを感じると、彼はしばしのあいだ自覚した。自分は奇妙な生活を送っている、児戯にすぎないようなことばかりしている、自分はいかにも朗らかで、時々喜びを感じるけれど、ほんとの生活は自分に触れることなく、自分のそばを流れ過ぎて行く、と。

    俗世間が、快楽が、欲望が、惰性が、彼をとらえてしまった。ついには、最も愚かしいものとして彼が常に最もけいべつし嘲っていた悪徳、すなわち金銭欲までが彼をとらえた。財産、所有、富もついに彼をとらえた。それは彼にとってもはやくだらないおもちゃではなくなって、鎖となり重荷となった。

    価値もなく、意味もなく、生活を送ってきたように思われた。生命のあるもの、何か値打ちのあるもの、保存に値するものは、何ひとつ彼の掌中に残っていなかった。岸べの難破者のように、ひとり空虚に彼は立っていた。(…)いったいいつ幸福を体験し、真の喜びを感じたことがあったろうか。

    断食することも、待つことも、考えることも、もはや彼のものではなかった。最もあさましいことのために、最もはかないことのために、官能の喜びのために、安逸の生活のために、富のために、あの三つを放棄してしまったのだ!

    自分はあんなに多くの愚かさ、あんなに多くの悪徳、あんなに多くの迷い、あんなに多くの不快さと幻滅と悲嘆とを通り抜けねばならなかった。それもまた子どもにかえり、新しく始めるためにすぎなかった。だが、それはそれで正しかった。

    ヴァスデーヴァは一言も発しなかったけれど、話者は、相手が自分のことばを静かに胸を開いて待ちつつ摂取してくれるのを、一言も聞きもらさず、一言もせっかちに待ち受けることをせず、賛辞も非難もならべず、ただ傾聴するのを感じた。そういう傾聴者に告白するのは、そういう相手の心の中に自分の生涯を、探求を、苦悩を沈めるのは、どんな幸福であるかを、シッダールタは感じた。

    彼は川から絶えず学んだ。何よりも川から傾聴することを学んだ。静かな心で、開かれた待つ魂で、執着を持たず、願いを持たず、判断を持たず、意見を持たず聞き入ることを学んだ。

    シッダールタはヴァスデーヴァのこの傾聴をいつもより強く感じた。自分の苦痛や不安が相手の心に流れこむのを、自分の秘めた希望が流れこみ、向こうからまたこちらに流れて来るのを感じた。この傾聴者に傷を示すのは、傷を川にひたし、冷やし、川と一つにするのと同じことだった。

    すべての声、すべての目標、すべてのあこがれ、すべての悩み、すべての快感、すべての善と悪、すべてがいっしょになったのが世界だった。すべてがいっしょになったのが現象の流れ、生命の音楽であった。

    「さぐり求めると」とシッダールタは言った。「その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものもを見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである」

    「知恵は伝えることができない、というのが私の発見した思想の一つだ。賢者が伝えようと試みる知恵はいつも痴愚のように聞こえる。(…)知識は伝えることはできるが、知恵は伝えることができない。知恵を見いだすことはできる。知恵を生きることはできる。」

    「存在するものは、私にはよいと見える。死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。いっさいはそうでなければならない。いっさいはただ私の賛意、私の好意、愛のこもった同意を必要とするだけだ。そうすれば、いっさいは私にとってよくなり、私をそこなうことは決してありえない」

    「世界を透察し、説明しけいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界を軽蔑しないこと、世界を自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうることである」

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    ●[2]編集後記

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    土曜日、娘と一緒に青山の国連大学前の広場に遊びに行ってきました。友人と無印良品さんが主催の椅子づくりのワークショップに参加するのが目的でした。

    国連大学前の広場では、ちょうどファーマーズマーケットが開催されていたので、ひやかしに行きました。農林水産省のマルシェ・ジャポン・プロジェクトで始まったこの青空市場。前々から噂は聞いていましたが、実際に訪れるのは初めてでした。

    規模はそんなに大きくなかったけれど、家族連れや若いカップルで予想以上の盛況。驚いたのは、どの農産物も有機だったことです。産直だからと言って有機とは限らないことが多いのですが、青山のマーケットは、こだわりの農産物ばかり。試食させてもらいながら自慢の農産物についての説明を受けるのは愉しい体験でした。

    道志産の自然藷のむかごが売っていたので、ついつい買ってしまったのですが、軽く塩ゆでにして食べたら、これがびっくりするくらいの美味。自然藷は、山のうなぎとも言われるほど栄養がありますが、そのエネルギーが詰まったむかごです。山盛りにしてもりもり食べるのは初めての経験でしたが、病み付きになりそうです(ちなみに、むかごには精力増進効果があるそうです)。

    マルシェに対する補助金は仕分け対象となってしまったようですが、イギリスやフランスでは街の風景に欠かせないくらいファーマーズマーケットが盛んです。日本でももっと増えるといいですね。

  • ヘッセの「シッダールタ」読了。

    いい本読んだ。最近「アタリ」が続いて嬉しい(´・ω・`) +

    題名からして、ゴータマ・シッダールタ(ブッダ)が悟りを開くまでのお話だろう & ヨーロッパの人から、仏教的な思想がどのように描写されてるんだろう?と思って、本屋で何気なく手にとって購入したわけですが、

    ブッダの話ではないです。

    あらすじ

    父親、母親、友人…全ての人からの寵愛を受けるシッダールタは、それらの物から自分の幸福を満たす事は出来ない事を悟り、沙門の道を選ぶ。沙門の先達とともに行動をともにするが、多くのことを経験したのち、沙門道では自分は救われないと感じる。その頃、涅槃に達した仏陀という人がいるという話を聞き、仏陀のところへ赴く。仏陀が悟りに達していることは認めながら、教えの中に一点の不完全さを指摘し、弟子になる道を選ばず、衆生の中へ入っていく。遊女カマーラを知り、事業に従事して成功するが、満足を得られず、川にたどり着く。川から学んだシッダールタは一切をあるがままに愛する境地に到達する。

    (wikipediaより)

    (´・ω・`)はい、あらすじだけ聞くとまったくおもしろくなさそうですね。笑

    でも本当におもしろい本です。ラスト3分の1ほどが、特に秀逸。

    あくまで小説なので、すらすら読めてしまいます。160ページほどしかないし。

    ***

    上述のように、読む前は、仏教にはなじみがあるはずの日本人であっても理解できない「悟り」について、どのように描写されているのか、疑問だったのだけども。

    読後、その懸念は一掃されたどころか、その描写の深さに唸るしかなかった。ものすごくよく研究されている。

    仏教の悟りの一側面というだけでなく、世界に関するなにか普遍的な理解のようにも思えたよ…!(°Д°)

    以下、私の印象に残った部分の抜粋を。

    ひとつめは、シッダールタが本当に悟りを得た瞬間の描写。

    シッダールタはもっとよく聞こうと努めた。父の姿、むすこの姿が流れ合った。カマーラの姿も現われて、溶けた。ゴーウィンダの姿やほかのさまざまな姿も現われ、溶け合い、みんな川になった。みんな川として目標に進んだ。慕いこがれつつ、願い求めつつ悩みつつ。川の声はあこがれにみちてひびき、燃える苦しみに、しずめがたい願いに満ちてひびいた。目標に向って川はひたむきに進んだ。川が急ぐのをシッダールタは見た。川は彼や彼の肉親や彼が会ったことのあるすべての人から成り立っていた。すべての波と水は急いだ。悩みながら、目標に向って、多くの目標に向って、滝に、湖に、早瀬に、海に向って。そしてすべての目標に到達した。どの目標にも新しい目標が続いて生じた。水は蒸気となって、空にあがり、雨となって、空から落ちた。泉となり、小川となり、川となり、新たに目標をめざし、新たに流れた。しかし、あこがれる声は変った。その声はなおも悩みに満ち、さぐりつつひびいたが、ほかの声が加わった。喜びの声と悩みの声、良い声と悪い声、笑う声と悲しむ声、百の声、千の声がひびいた。

    (ヘッセ/高橋健二訳「シッダールタ」p142, 新潮文庫)

    シッダールタは、川からいろいろなことを学んだのだけど、そのひとつが、「時間というものは存在しない」ということ。

    川は上流から下流へと、滔々と流れているけれど、そのどの部分にも過去・現在・未来などは存在しない。

    ただ流れる。

    人間も同じ、ということだね(´・ω・`)

    何か目標に向かって、ただ流れる。

    プロテスタントの運命論(予定説?)にも似てないことはないけど、何者かの意思が働いているか否かの点で違うよね。

    **

    ふたつめ、シッダールタが旧友でありブッダの弟子であるゴーウィンダに対し、自らの悟りから得た思想につき語った際の言葉。

    これもまた、ひどく納得させられた一文。

    だが、これ以上それについてことばを費やすのはやめよう。ことばは、内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすりかえられ、いくらか愚かしくなる。

    (ヘッセ/高橋健二訳「シッダールタ」p152, 新潮文庫)

    そのとおり笑

    以上の私の言葉では、悟りどころかヘッセの描いたことですら、まったくいいところが伝わっていないものねー(´ー`)

    (私の筆致力が極度に拙いからだという反論は受け付けない方向で…w)

    悔しい。クヤシス(´・ω・`)

    とにかく、読む価値のある本です。

    中途半端に「自分探し」とかやるんなら、これ読んでくださいw

    ぜひ。

  • 内容はそれなりに難しいですが、おもしろい作品でした。何よりも文体が詩のように美しく、読んでいて心地良かったです。
    「言葉」は物事の一面を表したものでしかない、という部分にとても共感しました。

  • 気持ちが楽になる。

  • 隅から隅までヘッセ。それもかなり宗教寄りのヘッセ。訳の影響もある気がするけど、最初は読み辛い。慣れるとそうでもない。宗教っぽくて一段上から物を言ってる感じなんだけど、結局のところ人間は人間らしくいるのが一番、そう言ってるように思える。人間界、ふるさとの心地良さ的な。川の声なんて川のすぐそばじゃないと聞こえない。人の声、人の心もまた同じ。感じる力を研ぎ澄ませ。

  • ヘルマン・ヘッセの著書を読むのは初めてでしたが、非常に美しく著者の思想が表現されていました。
    本書の最後でシッダールタが親友ゴーウィンダに説教するときに、一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、ことばに包まれるのだと説いています。つまり、善悪、優劣、喜怒哀楽などのことばは全てある側面から見ているだけに過ぎないということです。
    じゃあどうすれば真理を理解できるのか、それは自分で様々なことを経験することだと著者の分身であるシッダールタは説いています。
    何者から与えられたものよりも自分の経験に勝るものはない、百聞は一見にしかずというやつです。
    このことばを忘れず私も動くということを忘れずに生きていきたいです。

  • 作者のシッダールタへの愛がひしひしと伝わってくる。

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