- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102031032
作品紹介・あらすじ
マリブの海辺にある父の家で、僕と父の新しい生活が始まった。父は僕に、僕自身について小説を書くように言った。僕は海を、月を、太陽を、船を知ってはいるけれど、僕自身や世界をほんとうに理解するにはどうすればいいんだろう。-10歳の少年ピートは父親との時に厳しく、時にさわやかな会話を通じて、生きることの意味を学んでゆく。名匠が息子に捧げた心あたたまる詩的小説。
感想・レビュー・書評
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訳者の伊丹十三さんは「西欧人における自我の確立と、省略されぬ人称代名詞とが、どこかで深く結びついていることだけは確か」として、敢えて原文の人称代名詞を可能な限り省略しない方針で訳した、とあとがきに書かれています。
その試みが最大限、活きている!
父と息子、2人の言葉のキャッチボールが延々と続いていきます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
家に一冊は買って置いておきたい本。なんていうのかな、おもしろいからと言うよりは、読んでいると安心するからって表現が近いかな。
父と息子の二人暮らし.父は小説家をやめ,料理の本を書いて生活しようとする.そして小説家という職業を10歳の息子に譲る.その約束を通じて,父親から息子へ,大切ないろいろなことが伝えられる.
あとがきで,伊丹十三も書いているけれども,「ものわかりのいい父親がいろいろな人生の教訓をものわかりのいい息子に伝える」という物語ではない. -
売れない作家のパパと、誕生日にその職業ごとプレゼントされた僕の一風変わったひと夏の物語。
というとよくある話のように見えますが、すべてが「最高」です。父親が「僕」に繰り返し語りかけるのは「お前は世界をどう認識するか」ということです。そしてすべてが詩情豊かに、しかし決してセンチメンタルにならずに語られていきます。小説というよりは詩に近いかも。各章題が並べられた目次を見るだけで、その美しさにため息が出ます。
伊丹十三の訳も、日本語としてはおかしいかもしれませんが、「僕」と「世界」の関係をくっきりと描き出していて、この小説にはぴったりだと思います。
しっとりとした雨に包まれる浜辺でのラストシーンも胸にしみ入ります。薄い文庫本できっとすぐに読み終わってしまうと思いますが、その中には何度読んでも味わい尽くせないような素晴らしい「世界」があります。
たぶん僕の中ではこれから先もずっと満点であり続ける作品だと思います。 20050907
再読 19951119 20040624 -
伊丹十三の訳も素晴らしい。
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全編にわたり、父が息子に誠実に何かを伝えようとするところにぐっとくる。
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「読書力」文庫百選
2.この関係性は、ほれぼれする
→父子のコミュニケーション -
高橋源一郎「小説教室」に引用されていた文に一目惚れして買った小説。
10歳の少年は父親との生活、会話を通して生きることの意味を学んでいくという話。
この親子の会話がたまらなく好きだ。
「世界を理解するってどんなことなの?」
「世の中の人ってどうしてあんなふうなんだろう?」
生きることの意味を知りたい息子(10歳とは思えないが)の質問に対する父親の答えがあたたかい。時々理解不能だけど(笑)。
とにかく受け答えのセンスが半端ない。
生きることの意味はひとそれぞれ異なっているし、答えることなんてできないけれど、著者は自分の息子にこの小説を捧げた。
著者の息子への愛、人々への愛が詰まった小説です。 -
すごい好き!というわけではないけれど、なぜか時々手にしたくなる本。
10歳の少年と、45歳の作家である父親、二人の海辺での生活を淡々と描いた、W.サローヤンのエッセイ的小説。
波乱万丈とは程遠いけれど、透明感にあふれ、じんわりとしみこんでくるような文章です。
少年の一人称で書かれていて、ほとんどが父子の会話。
ちなみに、私が持っているのは伊丹十三訳。
こんな風に自分の子どもと会話できたらいいな、という憧憬と、子どもの頃親とこんな会話ができていたらよかったな、という悔しいような思いにとらわれます。
きっと世の父親母親に言わせれば、子どもの質問攻めにこんなふうに答えられるなんてありえない!ということになるのでしょうが、父親はとても丁寧に息子の質問に答えています。
ごまかしとか適当とか、そんなんじゃなくて、きちんと答える。
わかりやすいように話すよう気をつけながら、でも、決して「子どもみくびり」になっていない。
一個の人格として尊重している。
(父親の家の近くの学校に転校し、初日を終えた息子に対して父親が尋ねる。)
「どうかね――」僕の父が言った。「学校は思ってた半分も悪くなかったろう?」
「父さん、僕一つあなたに聞きたいんだけどね、あなたはそういう質問を僕にする時、どういう答えを期待しているの?」
「本当の答えさ、もちろん」
「フーン。あなたがそういうふうに質問するでしょ、僕はそのたびに、まず最初、本当のことを答えたいな、と思うところから出発するのね。ところが突然僕は、あなたが本当に僕にいわせたがっているのはいったいどんな答えなんだろうと考え始めて、結局、僕はあなたが望む答えをいおうとしてしまうんだよ、本当の答えの代りにさ」
「それは一体どのくらいの間続いていることなのかね?」
「僕が生まれてからずっとさ」
「そりゃ悪かったな――私の質問には本当の答えを答えるんだ、どんな質問であってもね」
「学校は僕の予想より悪かった」
「そうかね?」
「うんと悪かった」
「なるほど――とにかくわれわれ、今の質問の本当の答えは得られたわけだ」
ありえないのかなあ、こんなやりとりは。
ほかにも、はっとするような言葉や表現が時々現れる。
父親の言葉にも、息子の言葉にも。
曇り(にごり)がちな心の洗濯におすすめです。 -
「僕」はマリブの海辺の家で、物書きのパパと暮らすことになった。パパは小説を書くように息子にいい、会話の中で世界や彼自身について知ることを教えていく。十歳の少年と父のさわやかで普遍的な詩的小説。二人の生活が小気味良く続くのは細かに章を分けて、月、とか船、とかタイトルがついている。そのどれにも二人のおかしくも深い会話があり、大事なことが潜んでいる。メリーゴーランドに乗りたいけどお金の心配をしている息子に「お前が乗りたいかどうか判らんが、私はどうしてもメリー・ゴーラウンドに乗るぞ」と宣言する茶目っ気がとっても魅力的なお父さん。アートについて、食べ物が世界の全てにつながることについて、学校について、生きる楽しみについてなどなど、この小説は全編大切なことしか詰まっていない。うーん全部全部好きすぎて感想が浮かばない。とにかく何度でも読み返していい小説。