- Amazon.co.jp ・本 (353ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102035016
感想・レビュー・書評
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確か最寄りの戸田書店にて購入。齋藤孝『就職力』(毎日新聞社)にて、「この本の内容を理解できることが大学卒業の証」とあったのが手に取るきっかけになった。
岡本太郎『自分の中に毒を持て』を思い出した。それもまた、自分という枠、人々の「常識」つまり18歳までに集められた偏見のコレクションでできた枠を打ち破れとあった。ニーチェも岡本太郎も、たった一人で枠を突き破ろうとそれに立ち向かったのだろう。私たちに同じことができるだろうか?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
■徳の講壇
睡眠に関して、1日に10回も克己に努めなければならない
十の真理をあなたは昼間のうちに見つけなければならない.
差もないと,あなたは夜になっても真理を探し求めるということになる.
あなたの魂は空腹のままである.
この部分に関しては,ヒルティ著,幸福論第一部における「働きと休息は対立概念であるか」と通じるところがある.ヒルティにおける,『本当の休息は活動の最中にのみあるのである』という言説と本質的には同一であると思われる.働きと休息はどちらも欠かすことのない両軸をなしているのである.ヒルティは,働くことで,精神的にも肉体的にも,休息が訪れるという言い方をしていたが,自分は,働きは特に精神的休息に作用すると思っていた.働くことによって,肉体的な休息が得られる側面ももちろん,事実としてあると思うが,別に働くことをせずとも,例えばサーフィンに出かけるなど,働く以外の肉体的運動でも肉体的な休息の喜びは感じることができると思う.だが,精神的休息は働く以外の方法で代替することができない.ということで,自分なりにヒルティの言説を再解釈すると,働くことで,本当の意味で肉体的及び精神的な休息が訪れるが,精神的休息においては,特に働くことを通してのみでしか,本当の意味で休息を得ることはできない,このように解釈する.ニーチェの上記引用部分においてでは,このような,克己的に働くことで本当の精神的休息を得ることができると解釈した.
■隣人への愛-
あなたがたの隣人への愛は,あなたがた自身への愛がうまく行かないからだ.あなたがたはあなたがた自身から逃げ出して,隣人のところへ行くのであり,それを美徳にしたいと思うのだ.しかし,私はあなたがたの「無私」を見ぬいている.
わたしはあなたがたに,隣人への愛を勧めるだろうか?むしろ,わたしは隣人から逃げること,遠人への愛,を勧める!
最も遠い未来をあなたの今日の原因としなければならぬ.あなたの友の内部に,あなたはあなたの原因としての超人を愛さなければならぬ.
ニーチェのキリスト教的隣人愛に対する批判である.隣人愛は自分自身における充実感,先ほどの言説を借りるならば,魂の満腹感とは対照的で,自分自身を愛することができず,自分自身の弱さからただ安易に逃避している状態である.性愛,友愛,親の子に対する愛,愛とつく言葉は様々あり,それぞれにそれぞれのイメージがあるが,それぞれに「愛」とついている以上,それらに通底する本質があるのである,と自身の著書『愛』(講談社現代新書)において語るのは,熊本大学教育学部准教授で,哲学者,教育学者の苫野一徳である.以前,苫野氏の『愛』を読んだことがあるが,その中で,
「合一感情」と「分離的尊重」の弁証法が愛の根本的な本質である
と述べられている.これをもとに「愛」を「合一感情と分離的尊重の弁償法」と言い換えて「隣人愛」について考えてみたい.隣人愛において,有名な言説,『隣人を汝の如く愛せよ』(マタイ福音書)があるが,これは,隣人=汝という,合一感情,対象と自分が一体である感情が特に明言された言説であると読み取れる.隣人は隣人でありながら,自分の中で心理的には,さも自分であるかのように扱わなければならないのである.だが,ニーチェはその意味で隣人愛を解釈し,隣人愛を謳う人はどれだけいるのであるか?と問いかけたかったのではないか?と思う.隣人愛という言葉を免罪符に自分の生から,自分の人生から逃げている,自分の生の不充実を転嫁しているだけだというようにニーチェには映ったのではないか?そのように思いを馳せながらこの節を読んだ.
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やはりこれは名訳だと思う。旧版では漢字が読めなくて困ったが、最近の新しい版ではほとんどの難しめの漢字にはルビがふってある。意味があまりよくわからなくても、文章の調子こそが重要(この本について言えば、実際、どんな訳でも意味がわからないところはよくある)なので、新潮文庫はずっとこの訳を変えずに出し続けてほしいと思う。
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「医者よ、なんじみずからを治療せよ。
かくしてはじめて、なんじはなんじの患者を治療しうる。
医者の最上の治療とは、みずからを治療する人間を出現せしむるにある(p181)」 -
ツァラトストラがいろいろなテーマにおいて自論を語ります。
本文、注、本文、注の順に読んでいくと、すこしわかりやすくなります。
はっきり言ってむずかしいです。
正直、内容は現代社会に役に立ちません。
しかし、ニーチェの思考に触れることに意味があると思います。
超訳に不満な人、普通訳にチャレンジしてはいかがでしょう -
人間は、獣と超人との間に張りわたされた一条の綱である。――一つの深淵を越ゆる一条の綱である。
渡りゆくも危く、途上にあるも危く、後(しりえ)を見るも危く、戦慄するも、はた佇立するも危い。
人間が偉大なる所以は、彼が目的にあらずして、橋梁たるにある。人間にして愛されうべき所以は、彼が一つの過渡たり、没落たるにある。
~上巻p24
すべての道徳は他の道徳を嫉妬する。かかる嫉妬はおそるべきものである。道徳と雖(いえども)、嫉妬によって破滅することがありうる。
嫉妬の炎によって囲繞(いによう)された道徳は、ついには蠍のごとくに、毒ある螫(はり)をみずからに向けて突き刺す。
ああ、同胞よ、なんじ、いまだみずからを誹謗せず、みずからを刺し殺さないところの道徳を一つでも見たことがあるか?
人間は克服せらるべき或物である。されば、なんじはなんじの道徳を愛すべきだ。
――なんじはなんじの道徳によって没落するであろうが故に。――
~上巻p80 -
面白いのだけれど、重厚な訳は時としてその魅力を殺してしまうほどの読みづらさを伴う。漢文が苦手の僕には相当しんどくて、途中で辟易としてしまったよ。
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長かったーーー(´Д`)
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ツァラトストラはかく語った。よく語ったねー!
下巻へ続く。 -
(1967.12.27読了)( 1966.12.18購入)
内容紹介
ペルシアの教祖ツァラトストラは、「ついに神は死んだ」と叫んでふたたび人間の中に帰り、宗教的厭世主義を否定し、群集を前にして地上を讃美し生を肯定して「人間は征服するために生れ、かつ生きる」と説く。1881年8月突如おとずれた“永劫回帰"の霊感を、ツァラトストラが超人へと高まりゆく内的過程に表現化した本書は、ニーチェ最後の境地であり、実存主義への端緒となった。