- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102035078
感想・レビュー・書評
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これは紛れもないニーチェの遺書だ。
己を見つめた深淵からのぞかれてしまったニーチェがいずれ戻っては来ないことを予期してしたためた、彼の「考え」の軌跡だ。
池田某も言っていたが、こういう深淵に惹かれるのはやはり一種の病と言っていい。哲学という病理。すべてのひとに開かれているわけでは決してない。憑りつかれてしまうのだ。それはある日突然。ダイモンと呼ぶか、ツァラトゥストラと呼ぶか、啓示と呼ぶかはそれぞれ別で。もう戻ることは決してできない魅惑の塊。
ニーチェは自分の生き様を悟って、いつ戻れなくなってしまってもいいように、自らの生きたことば、すなわち自分自身を見ようとしているのだ。序文で言っている。説教ではない、偶像を打ちこわし、それでもなおここにある、ひとりの「わたし」これを見よ。これこそ、人類の革命である。この「わたし」はそれを信じ最後まで実行した、そのことばを聞き入れよ。
ことばがある限り、自分は死なぬ。ことばの尽きるそこへ行くとき、それこそ、この「わたし」が尽きる。そこへ向かう覚悟はもう十分にできている。あとは待つだけだ。
彼のことばはきわめて自然で、やれ定義だとか理由だとかそんなことばを悟性の力でこねくり回すことなく、彼自身がことばとなって語りだしている。病気が蝕めば蝕むほど、とても実直で明朗なことばそのものが紡がれる。存在とはもともと不条理にできている。
彼が紡ぐのは、どこまでも「反抗」だ。おそらく、カミュの反抗は彼の魂を継いでいる。カミュの場合は、神に向けられるはずの刃をわざとちらつかせながら背を向ける、刃を突き刺してしまったニーチェよりもマイルドではあるが。正しさ、善、幸福、そういったものを掲げるたびに、不正、悪、不幸、そういったものが生まれてしまう。清浄を求めるたびに、汚濁が生まれてしまう。ならば、清浄を求めることをやめて、滅ぼしてしまえばいいだろう。ニーチェはそのあらゆる美しいとされる「理想」を殺してゆく。全き肯定は同時にあらゆるものの否定となる。そんな理想は怨恨だ。そして最後は神にその刃を向ける。価値の価値転換とはここにある。価値など求めてはならぬ。価値など壊してしまえ。だが、それは同時に自らに刃を突き刺すことに変わりない。価値などない、とするのも同時に価値だからである。どうあがいても神の愛から逃れられない。それはドリアン=グレイが自らの肖像画に突きたてた刃と同じである。
彼は真に価値の価値転換に辿り着くため、戻ってこなくなった。だがだからといって、ツァラトゥストラの啓示やら何やらをそのままにしておくのは、自分に課された宿命ではない。種さえ蒔いておけば、あとは然るべき時に必ず芽生える。実際カミュがその種をしっかり育てた。彼は自分の仕事に自ら幕を下ろした。その真面目な生き方がことばとなって生きている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
目次からして普通の人間ならば言えないであろう言葉が並びます。
ニーチェが発狂する直前に書かれたものとのことですが、確かに狂気を感じさせる表現が散見されます。
ただその狂気の中にも正気を保っているところがありかえって説得力が際立っています。
偶像(いままで真理とされてきたもの)を鉄槌で破壊して新たな創造に向かう。
価値の価値転換。
色々な視点を教えられました。
これから全集に取り組もうと思います。
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哲学やキリスト教の素養が無いからご機嫌なエッセイとして読んだ。無邪気に自画自賛してるところはいいのだけれど自分の本のキャラクターを実在するビ
哲学やキリスト教の素養が無いからご機嫌なエッセイとして読んだ。無邪気に自己礼賛してるところはいいのだけれど、このレベルまでくるとちょっとオイオイって思う。自分の本のキャラクターを実在するビッグネームと比べても偉大みたいに言ってるところはもはや狂気の沙汰かな。個人的にはアイロニーの質があまり好みではなく、キルケゴールのテンションの方が好きかな。本書は、ニーチェ最後の著書。 -
いやー内容が頭に入ってくるまで、きつかったー。自分の思考力からすると背伸びしすぎたんだろうかな。半分すぎたぐらいからようやく、言わんとすることがおぼろげながら理解できてきた。思考レベルがとんがりすぎて、みーんなお馬鹿さんに感じちゃうんだろうと。特に宗教を基準軸にしている人を糾弾している。ニーチェ理論では
、ほとんどの人が偽善者だ。だがそれが真実なんだろうなと、説得力ある論旨だった。だが、偽善者が悪なのか?ニーチェの思想が善なのかはともかく、俯瞰的視点の質がちょっと向上したきがする。中島義道さんのシリアス版みたいなイメージ。あぁ自分。しょぼい。
ニーチェの定番、ツァラトストラも読みたくなりました。 -
もしかしたら、もうニーチェは読まないかもしれない。ニーチェを読むときに、色々な感想を抱く人がいるはずだ。滑稽だと馬鹿にする他人もいるかもしれないし、憤慨する人もいるかもしれない。あるいは、純粋に評価する人もいれば、惹きつけられる人もいることだろう。俺はと言うと、正直言って苦しい。ニーチェの表現は嫌いではないし、彼は詩人だから表現が美しくすらあるけれど、やはり、その言い回しを選ばずにはいられなかった彼を思うと、あまりに苦しい。それは同情ではなくて、自分と同じだから苦しい。そこが実感を伴ってわかるから、たまらなくなる。特に本著は、半ば自著についてのエッセィのようなものである。ニーチェによるニーチェ論と言ってもいいが、ニーチェ論と言うには頁が少ないし、かなり分断的である。ともかく、本著を読んでの第一の感想は苦しいというこの一点に尽きる。彼はどうしてこういった表現を使わなければならなかったのか?それほどまでに彼は飢えていたのだろう。ニーチェはただの馬鹿ではなくて、大真面目な馬鹿にならずにはいられなかった部類の人間だと思う。彼は滑稽だと嗤われるのを覚悟していたのではないだろうか?さもなければ、ニーチェはここまでニーチェを徹底しきれはしないのではないか?
本著においてニーチェはニーチェを徹底しているものの、やはり支離滅裂としている感は否めない。ヘーゲル的な弁証法を見下している割には、自らも自己超克といった際に、弁証法的な手法を用いていたりもする。永井がニーチェの罠は、価値転換を提供してくれると同時に新たな二項対立という狭苦しい枠組みを提供することだと述べてていたが、それは本著でも多々見受けられる。キリスト教が持つ、価値転換と弱者が強者になる構図を見抜いたとしても、そうすると、その構図に対して自らが取る姿勢が新たなる、二項対立に、更に言えばルサンチマンにとらわれかねなくなる。そもそも、ニーチェが自ら「価値転換」という言葉を使っていること自体が罠とも取れる。なぜならば、ニーチェはキリスト者による「価値転換」を暴いたからである。キリスト者による価値転換を暴いたニーチェが、自らが価値転換をしている、これはある種自らを使った痛烈な皮肉とも取れる。実際のところニーチェはどれほど計算していたのかわからない。彼が誇大妄想に取り付かれていたのは間違いない、それくらい彼は自分の著作が評価されていると捉えているし、自分の周りのドイツ人はそれを評価しないものだから、そいつらはどうしようもない馬鹿ものだと見なして、外国に希望をつないだりしているわけである。無論、ニーチェには才能があったのだから、彼にはそうするだけの正当性も少なからずあったものの、それにしたって、彼のそういうさまを見るのは本当に辛い。俺が思うことは、ニーチェは自らを実験器具としたということだろう。そうとしか考えられない。ニーチェという人物が、純粋にあそこまで狂えるとは思えない、どこかで打算があったように思う。ただ、彼の他者評価は基本的にはべた褒めか、徹底批判かどちらかだろうとは思うけれど。ただ、彼にとって困ったのがワグナーだろう。一時は心酔していたものの、ワグナーの方が自分にさして興味をもたくなってしまった、とすると、なかなか扱いに困ってしまうわけで、仕方なしにワグナーは堕落してしまったみたいな書き方をするしかなかったのだろう。ともかく本著はニーチェという人間を知りたい人や、ニーチェ好きな人間にはたまらない一冊だろうが、それ以外の人にとっては微妙な一冊となるかもしれない。まあ、一番最初に読むニーチェとしてはいいかもしれないが、個人的にはもうニーチェは読みたくはない。さようなら、ニーチェ。 -
栄養の問題と密接に関係しているのは、土地と風土の問題である。
抒情詩人というものの最高の概念を与えてくれたのはハインリヒハイネ。幾千年にも及ぶあらゆる国々を探しても彼に匹敵するほどの甘美でそして情熱的な音楽を見つけ出すことには成功すまい。
ドイツ、世界に冠たるドイツ。ゲルマン人こそが歴史における道徳的世界秩序であった。
国家偶像視、ドイツ狂、純血主義、反ユダヤ主義あんどを危険の芽として予知的に喝破する先見の明は1880年代からすれば驚くほど早い。 -
そりゃこんなんじゃ書いた翌年に発狂するわな。
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文体が仰々しくて良い
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真顔で自画自賛されたら逆に説得力ある。
普通はね、自己批判というか、なんというかためらいみたいなもんがあると思うけどね、それがない。
ツァラトゥストラはこの人にとって、自己内自己ということやんな、つまり「リトルホンダ」や「ヤザワ」なもんやねんな…と。
主張が単純明快に説明されてるし、何度も繰り返すので、最後の方は「あんたの言いたいことはよーわーった」と言いたくなる。
ただし、言うてることは迫力満点!
これだけ真剣に否定してくれると痛快でした。