- Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102057049
作品紹介・あらすじ
名門女子大に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー……ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。――村上春樹による新訳!
感想・レビュー・書評
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大切にしたいと言葉がたくさんありました。
中でもこの言葉が一番好きです。
「世の中には素敵なことがちゃんとあるんだ。紛れもなく素敵なことがね。なのに僕らはみんな愚かにも、どんどん脇道に逸れていく。そしていつもいつも、まわりで起こるすべてのものごとを僕らのくだらないちっぽけなエゴに引き寄せちまうんだ。」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フラニーが持ち歩いていた1冊の本の話が印象的だった。一番面白かったのは、恋人のレーンの発言を無視して、フラニーがひたすらその本がどんな本なのか話している場面。
ズーイの語りが長く、言い回しのせいか、母とのやりとりでは要所要所はわかるものの、大分頭に入ってこなかった。なんとなく言いたいことはわかるものの、太ったおばさんが実は誰なのか?など、ネット上の解説を読んで初めて納得できるところがあった。
『巡礼は旅を続ける』
『巡礼の道』(続編)
p149
「イエスの祈りについて自分がやっていることを、君はどう考えているんだ?」p212
という確信的な質問をフラニーにするズーイ。
そして「あなたが言いたいのは、私はイエスの祈りから何かを得たいと思っているということね。〜そんなことくらいわかってるわよ!やれやれ、私のことをそんな馬鹿だと思っているわけ?」と興奮しだすフラニー。
その後、ズーイの語りが長すぎる笑
最後まで口出ししないで、のようなことを言いながら話が長すぎるし興奮してきたしでフラニーがもうやめて!と言っても、すぐ終わるって。と言いながらまだ続ける笑
フラニーと共に、ズーイの語りにうんざりしながら読み進める。
「この家族は誰もかれもが自分のろくでもない宗教を、それぞれ違うパッケージで身につけている」p221 -
不器用ではあるが、優しいズーイが魅力的。
ユーモアを交えた対話で、何としてもフラニーを救おうとする家族愛が、ひしひしと伝わってきた。
登場人物、とりわけズーイのお洒落な言い回しに憧れる! -
エゴだらけの社会に辟易し宗教本にはまってしまった女子大生のフラニーに対して、兄ゾーイが救いの手を差しのべるという話。『フラニー』と『ゾーイ』というタイトルの2編からなる連作小説となっている。1編『フラニー』ではレストランで彼氏との会話、2編『ゾーイ』では自宅でゾーイとフラニーとの会話、という場面の切り替わりがほぼなく、1対1の会話でほぼ成り立っている一風変わった本である。んー正直、フラニーの厭世的な気持ちはなんとなくわかるが、ゾーイの長ったらしい説教で心を病んだ妹を救えるのだろうかと疑問が残る。
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初めて読んだサリンジャーの作品、そしてアメリカ文学。なんというか洗練されていて理解が難しかったが、なんか心に残る作品でした。村上春樹訳で、村上春樹風味な訳し方もありハルキストとしては、読んでて楽しかったです。アメリカ文学を読むキッカケにもなりましたし、もっと読んでみたいと感じました。
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なんとなくイメージしていたのとは違い、大きな動きのない物語。
簡単に言えば、今で言う「中2病」のような状態に陥ったフラニー。救い上げようとする兄のズーイ。読んでみるとズーイも中々な病み具合ではあると思うし、心配する母親だって若干心配な状態だ。ただ、大人になるまでには必ず通る道で、むしろどのように浮き上がっていくのか?引き上げてもらうのか、自力で上がってこられるのかそこに個性や心の強さ・弱さが出ている気がする。 -
若いころに野崎孝訳で親しんだ世代です。翻訳については、野崎訳派の方による良レビューがすでにあるので、内容に関することをちょっと書き留めておきたいと思います。
はじめてこの小説を読んだときから、多少は宗教のことをあれこれ勉強してきた身として、サリンジャーは東洋の宗教にも強い関心があったわけだけど、キリスト教神学についても、かなりいろいろ勉強して考察していたに違いない、という印象を抱いた。
たとえば、「なあ、ここは神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだよ。そして何がエゴで何がエゴでないかを最終的に決めるのは、神様なんだよ」(240頁)というズーイーの言葉なんかは、正統カルヴィニズムのいわゆる予定説を、現代的にずっとソフトに表現したもののようにも読める。
また、クライマックスで登場する「太ったおばさん」というのは、キリストの受肉の教説を、これまた現代的なイメージを使って語りなおしたものだろう。
こういうことについては、もうアウグスティヌスとかの時代からずうっと、いろんな教父たちや神学者たちや哲学者たちや文学者たちが論じたり語ったりしてきたので、単純に「受肉とはこういうものです」とは言えないものなのだけど、いまのところキリストの受肉についての、もっとも(よい意味で)単純で象徴的意味の豊かな表現だと私が思うのは、神学者のカール・バルトによる表現で、それは、キリストとは私たちが知っているこの世界と、私たちが知らない神の世界とを切断する、切断線上の一点なのである、というもの。
ところで、キリスト教においてイエスという人物が、なぜあれほどの重要性をもつかというのは、イエスその人自身の言行がもつ意味が重要だから、というだけではなくて、キリストと神との関係を神学的に考え抜いて体系化したパウロの教説にも理由があって、そのあたりの話もいろいろ難しいのだけど、でも根本的には、結局人は「神性」というものを、「肉」をもつ者を通してしか予感できない、というのが一番の理由だろうと思う。
サリンジャーが描いている現代の世界は、キリストを通して、あるいは何を通しても、人がバルトの言う「切断線」を見なくなってしまっている世界だ。フラニーにも、この切断線が見えていない。だから、「鼻の先に神聖なるチキンスープを差し出されても気がつかない」(283頁)。言うまでもなく、切断線は「接線」でもある。
「太ったおばさん」は、そういう現代の世界に、ふたたび切断線を浮かび上がらせるものとして導入されている。何のために靴を磨くのか。何のために演技するのか。それはつまり、何のために規律ある生活をするのか、何のために仕事をするのか、ということであり、さらに、何のために生活と人を愛するのか、何のために生きるのか、ということでもある。
それがわかると、この世の「愚劣さ」のせいでヘコんでいる暇はないことがわかるのだ。 -
別に、村上春樹の訳だからいいんじゃなくて、もともと、けっさくなんですよね、きっと。でも、まあ、春樹が訳したから読み直して気付いたわけで、やっぱり、村上春樹さまさまということでしょうかね。
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グラース家七人兄弟の末の妹と弟、学生であるフラニーと俳優であるズーイの話。
フラニーの章では、レストラン(知的にとんがった学生たちに人気)の食事をはさんで、とある一冊の本についての宗教談義に興奮したフラニーと、彼氏のレーンが会話をする場面が大半となる。
熱に浮かされたような状態のフラニーの相手をするレーンは大変だな。
ズーイの章では、そんなフラニーの心身不調を心配した母親が、妹の目を覚まさせるよう兄であるズーイに頼む。
小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニーと、殻に籠るフラニーを助けようとするズーイとの白熱した議論にはとにかく圧倒された。
「君は大学のキャンパスを見渡して、世界を、政治を見渡して、夏期公演を一シーズンだけ見渡して、出来の悪い大学生たちの会話を耳にして、あっさりこう思いこんでしまうんだ。すべてはエゴだ、エゴだ、エゴだ。そしてまともな知性を備えた女の子がやるべきことは、そのへんにごろんと寝ころんで、頭を剃って、イエスの祈りを唱え、自分をほのぼのと幸福な気分にさせてくれるような、お手軽神秘体験を神様に求めることなんだと」
「もしおまえがイエスの祈りを唱えるなら、おまえは少なくともそれをイエスに向かって唱えなくちゃいけないんだよ。聖フランチェスコやシーモアやハイジのおじいさんをひとまとめにしたものに向かってじゃなくてね。イエスを頭に描き、彼だけを思い浮かべて、お祈りは口にされなくちゃならない。そして彼の姿は、おまえがこうあってほしいと思う彼の姿じゃなく、ありのままのものじゃなくちゃならない。おまえは事実ってものにまるで直面していないよ。そういう事実に目を向けないという間違った姿勢がそもそも、今回の心の乱れをおまえにもたらしているものなんだよ。そしてそうしている限り、おまえはそこから抜け出せないんじゃないかね」
ズーイの言葉は厳しい。
もうやめてあげて!と読者である私が止めに入りたくなるほど追い詰められるフラニーが気の毒になってしまった。フラニー、みんなの妹。シーモアに会いたい、という小さな願いがもう決して叶わないことが可哀想だった。
でも最後の最後、ズーイがシーモアから教わったことによってフラニーを救い出すところは真に感動する。
シーモアは、『ワイズ・チャイルド』に出演するズーイに「太ったおばさんのために靴を磨くんだ」と言った。シーモア的な表情を顔を浮かべて。
太ったおばさんというのが実は誰なのか。フラニーとズーイは議論の果てで、その正体にとうとうたどり着いた。
私には気づくことができるだろうか?私は、太ったおばさんのためになにができるだろう。 -
最初、「フラニー」の章を読んでいて、んー、この話どこに行ってしまうんかな、とやや不安に。
しかし、「ズーイ」の章を読むほど、不安がハラハラドキドキ感に変わって、楽しかった読後。
俗物とか、高尚とか、救いとか、そういう崇高な話を引っくるめてポーンと横に置いてみる。
(いや、多分、そういう系の話はきっと誰かが既にしてくれているはずだから)
大学生にもなって厨二病をこじらせちゃったことを自覚もしているフラニーちゃんと、コイツ俺に似てんなーと思ってるからこそ、その醜態をいつまでも身近に晒さんといてくれ!と願う兄ズーイくんのお話。
世界の矮小さを知っている自分が、ストイックに魔法の言葉を唱えたら?
そんなフラニーちゃんに、いやいや、矮小と見下しているシステムから目を逸らしたって、魔法の国なんて行けないから、救いとかないから、なんならイエス様も矮小なとこあるからーっ、と木っ端微塵にしちゃうズーイ。
分かるー。
身内だから、もう見ていられない感じ。
そんなズーイに、私はシーモアお兄ちゃんと話したいの!アンタなんかと話したくないの!と拒絶するフラニーちゃん。
母も妹も、死んでしまった兄、今はここにいない兄をぼんやり見つめている。
それを面白くないと思いながらも、ズーイ自身の言葉ではフラニーに届かないことも知る。
そこで、一つ間をおいて、苦しみながらも彼らに「なりきる」ズーイのくだりが、ここのスピードがすごくゆっくりする所が、すごく好きだ。
こんな風に言いたいんじゃない、こういうことでもない、ああでも、伝えたいソレは確かにあって、ソレはきっと君には伝わるはずなんだよ。
ズーイがどんどんシティーボーイ?から、お兄ちゃんになっていくのに、なんかじーんときた。