ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (428ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102081013

作品紹介・あらすじ

舞台はロンドンのサロンと阿片窟。美貌の青年モデル、ドリアンは快楽主義者ヘンリー卿の感化で背徳の生活を享楽するが、彼の重ねる罪悪はすべてその肖像に現われ、いつしか醜い姿に変り果て、慚愧と焦燥に耐えかねた彼は自分の肖像にナイフを突き刺す…。快楽主義を実践し、堕落と悪行の末に破滅する美青年とその画像との二重生活が奏でる耽美と異端の一大交響楽。

感想・レビュー・書評

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  • 誰もが羨望する美青年ドリアンとその肖像画の話。画家が全精力を注いだドリアンの肖像画は、彼が悪行を行うことによって、醜い姿へと変貌してゆく。ストーリーとしては面白いが、主旨から反れていく場面がたびたびあるため、せっかくのところで興醒めしてしまった。

  • 名家で孤独に育った成人間近い美青年のドリアンは、懇意で彼を崇拝する画家バジルに肖像画を描かれている。ドリアンは彼の美貌を写しとった肖像画の出来栄えに、自身の分身だと満足する。バジルを介して知り合った妻帯者ヘンリーは、肖像の出来とドリアンの美しさを讃えながらも、いずれは誰もが醜く老い、そして老いれば何も残らないと厭世的な人生観を語る。ヘンリーの言葉に、ドリアンは自身の美貌が衰えていくことを想像して恐怖し、老いさらばえるのが肖像であってくれればと嘆く。次第にシニカルなヘンリーに感化されるドリアンは、ある日、美しい恋人のシビルをヘンリーとバジルに紹介する。しかしシビルはドリアンの友人たちを幻滅させてドリアンの怒りを買う。帰宅後に激昂したことを後悔するドリアンは、肖像画の異変に気が付く。

    話の筋だけを取り出せば短かい寓話のようにまとめることも可能でしょう。主要人物も上記で触れた四人以外では、シビルの弟ジェイムズが存在する程度とわずかです。大まかな展開は『ファウスト』を思わせます。叶わない願いを抱き願をかけるファウスト役がドリアン、ドリアンを頽廃的な思想に導くヘンリーはメフィストフェレス役、そして、オカルト要素を担うのがタイトルであるドリアンの肖像です。やや怪奇がかった寓話のような物語に、富裕な生活を頽廃的な耽美さをもって描き、そこにヘンリーの饒舌で背徳的な人生観が付加されることで、十九世紀のイギリスを舞台に妖しい世界観が醸造され、ドリアンが闇深い街を彷徨う情景が目に浮かびます。通読して、教訓を考察したくなる方も多いのではないでしょうか。

  • 今日、仕事帰りにTSUTAYAに寄ったんだ。DVDを選んでいたら、近くに20才前後のカップルが来たんだ。男は向井理みたいで、女は武井咲みたいだった。俺は、何となく二人をずっと見てしまった。ニヤニヤしながら。そしたら、「何見てんだ?」みたいに見られたんだ。その時、気付いたんだ。そういうジロジロ見てるジジイやババアはたくさんいて、かなり前までは俺もジロジロ見られてたけど、彼らの気持ちが分かったんだ。確かに、女の子の方はかなりの美人でかわいくてミニスカートに白い肌がエロかったけど、俺は断じて、いかがわしい気持ちで見ていたわけじゃない。俺はその時、こう思っていたんだ。

    「若さって、素晴らしいな」

    は?

  • 「もし『ドリアン』がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいものだろう。そうなるものならなあ!」

    画家がワイルドの前で発した一言がはじまりだった。

    この小説に登場するヘンリー卿の、人を惹きつける様な逆説と快楽主義の言説の数々は、この小説の大筋、すなわちドリアン・グレイの物語とは独立しているように感じられる。おそらくそれらはワイルド自身の言葉であり、彼はかねてからそれを何かしらの形で表現したいと思っていたに違いない。
    彼は画家の言葉に物語を思いつき、主人公に影響を与える人物としてヘンリー卿を設定し、その口を借りただけなのかもしれない。
    彼の言葉を読むだけでも、この小説は価値のあるものだと僕はおもう。

    「誠実な人間は恋愛の些細な面しか知ることができない。きまぐれな浮気者だけが恋愛の悲劇を知ることができるのだ」(p.33)
    「ぼくにとっては、美は驚異中の驚異だ。ものごとを外観によって判断できぬ人間こそ浅薄なのだ。この世の真の神秘は可視的なもののうちに存しているのだ、見えざるもののうちにあるのではない……」(p.50)

    その酔いも覚めやらぬうちに、物語はドリアンとその肖像へと主題を移していく。
    肖像画がドリアンの罪や堕落を代りに蓄積し年をとっていく、という(画家の一言に端を発した)どこかSF的な設定が、常人離れした美を持つ主人公の葛藤を描き出す。肖像画の表現も妙にリアル。

    「これはおれにとって良心と同じようなものだったのだ。」という、クライマックスの主人公の気付きで全てが線になった。
    シビルの死以降おもに表される、ドリアンが肖像画に脅えるさまは、まさに人が罪を犯すときに感じる「呵責」であり、
    彼がそれに繍布を被せて向き合わないようにし、挙句の果てには屋根裏に封印するのも、まさにそれが「良心」の象徴だからなのだろう。

    あと気になったのが、美の象徴たるドリアンが「美なるものの創造者」(序文より)である芸術家を殺す場面だ。肖像画にナイフを突き刺す最後の場面より如実に描かれ、『罪と罰』を髣髴とさせる凄惨さで、この小説において奇特に浮いている。
    もしかしたら、これこそ唯美主義、芸術至上主義者としてワイルドが一番描きたかった場面なのかもしれない、と少し思った。人は結局、美そのものにはかなわない。考えすぎかな……

    「芸術が映しだすものは、人生を観る人間であって、人生そのものではない。」
    序文の中でこの言葉が一番すきだ。個人的に。
    肖像画の中に映し出されたあらゆる醜さは、客観的に「罪」とされるドリアンの人生そのものでなくて(彼が犯した堕落や悪行は噂として語られるだけで具体的に描かれない)、それを主観的に見つめるドリアンのこころだったとしたら、彼はほんとうの意味で悲劇の主人公だなと思った。
    ヘッティ・マートンのくだりを読むあたりで、ドリアンの愚かさに誰もが気付くだろう。彼はその愚かさゆえに、自分がその過去を罪だと感じていることにさえ気付かず死んだのだ。

  • この本は展開性を重要視してはいない。
    神を棄て、美に溺れ、快楽の骨頂を得る為に、自身を滅ぼしていく。
    ―芸術家の在るべき姿。

     一言一言が美しいのだ。綴られた言葉の一つ一つが厳選された生花の様に、―それは月の蒼い光を帯び、或いは水滴を纏い陽光の下で煌めく。 全てが無機的でありながら煌びやかな七色の光を持つ、宝石の様な"生命体"だ。

    之がオスカー・ワイルドの、そして訳の福田さんの「協奏曲」への印象だ。

     あらゆる悲劇は美しくあれ―。其れは私が胎内から外界に触れた瞬間に、この二つの眼球を駆使して認識する世界の中で生まれた我が舞台を華やかにする、唯一の意義を齎す、究極の展開だ。
     死した知己に悲嘆し絶望に呑まれ、闇を知る自己の姿が、感情が、―安易に味わえない劇的な展開によって、突如として生み出されたそれらが、最も美しいものであると―。
     死んだ事実によって其の存在が最も映え、煌々と輝きを帯びて"生"を持つ。―それは何ら不思議なことでは無いではないか。

     快楽の逆は倦怠だ。
    あらゆる苦痛も快楽になり得る。倦怠に覆われた退屈のみが、最も忌むべき存在だ。

     この本は私の中で最高傑作の「絵画」だと認識したのである。―少なくとも、私が今まで出会った本の中では逸脱した芸術品、だ。

  • 全編通して逆説を言い続ける友達と、
    気に入った本を9冊買って違う色のカバーをかけ、その日の気分に合った色のを読むというくだりが良かった。

  • 1891年出版。ヘンリー卿の語録だけでも必見。言葉遊びとエッジだけでもう惚れる!

  • 最高の世界観。中身と外見と客観と主観。

  • 最後が怖かった。

  • ゴシック小説第2ブームの代表作(最初のブームの代表作は「フランケンシュタイン」)。もうプロットが大天才なんじゃ...天才であると同時にかなりシンプルなんだけど、しかしその肉付けがモリモリモリ...いやあものすごいものをよんだなあ...!

    「なにはともあれ有害な書物であった。あたかも香の強烈な匂いがこの本の頁にまとわりつき、頭脳を濁らせているかのようだった。」(p.247)この本もそうだと思う(笑)わたしにとっての新しい視点からの考え方をめちゃくちゃ吹き込まれた!でもそれが良いことなのかこの作品に関してはちょっぴりわからないのも事実(笑)

    オスカーワイルドの逆説は奇抜で常識に囚われてなくてほんと「美!」って感じで好きだけど、深くまで共感できなくてよかったってちょっと安心する部分もあるから(笑)まさに、「かれのことばは華麗にして奇抜、そして無責任きわまりないものだった。」(p.88)

    「言葉!ただの言葉!その言葉のおそろしさ!明晰さ、なまなましさ、残酷さ!」(p.45)この本の中の言葉たちに何度か殴られた気がする...そしてゾクゾクもした...言葉ってすごい。本当になまなましい。

    「一生にまたとないロマンスなどとは言わないほうがいい。わが生涯における最初のロマンスとでも言うのだ。」(p.102)オスカーワイルドの言葉って、"まあたしかにそうかも...たしかに当たってる...けど!本気でそれ思ってるの?!ハァ...!?"ってなることが多いんだけど、この警句?は唯一素敵だなって思った。

    これもすき。「部屋のなか、あるいは朝空のなかにふと認められた色合い、昔好きだったために、いまでも嗅ぐたびに妙なる思い出を匂わせる香水、かつて眼にふれたことのある忘れられた詩の一行、弾くことをやめてしまった曲の一節、いいかい、ドリアン、こういったものにこそ、人間の生活は左右されているのだ。」

    「この世に存在する精美なるものの背後には、つねに悲劇的な要素が宿っている。一輪のみすぼらしい花が咲きいでるためにも、世界は陣痛を味わわねばならない。」(p.76)まあこれも真理よなあ...こういうのがゴロゴロある...!!

    総じて、ヘンリー卿ほど美男子アイドルオタクに向いている人いないと心の底から思った(笑)

    2カ月前くらいから、生まれてはじめてアイドルにハマっているけれど、アイドルって偶像崇拝だから、ぐるぐる考えてしまうタイプのわたしには難しいなあって悩んでいるところ。もしわたしがこの作品の世界に生きているなら、ドリアンを偶像崇拝して身を滅ぼすうちの1人だな。しかも本文にすら載れないカットされる。まちがいないな。

  • 2015/9/25


    オスカーワイルドの二作目。

    最初、
    「おお…これは個人的に、私の内面を良くも悪くも抉る作品だな…好きだけど今読むのやめようかな…」
    次第に、
    「描写が…少しクドいな。何というか、これはワイルド節だな」
    最後に、
    「これは面白かった!」

    でした。


    39℃近い熱のなか読んだため(苦笑)
    所々曖昧な箇所はあるかと思うのですが、
    恐らく、表現したい根本的な部分を、
    何度も形や表現を変えて、
    あるいは同じ言葉をもって、繰り返しているため、
    神経質で執拗な表現のわりに、シンプルで分かりやすい気がしました。

    根底に筋が通っているような印象を受けます。


    何はともあれ、ワイルド節。
    基本的に、女性を排除している部分に、
    何となくゲイっぽい雰囲気がありますが、
    それは彼の芸術観なのか歴史的背景なのか指向なのか私の勘違いなのか、
    よく分かりません。

    ただ、登場人物3人の人間模様に、
    ゲイとしての三角関係は、あまり感じなかったかな?


    ラストが美しいくらい、纏まって終わったなぁと。
    個人的には、醜さと美しさのコントラストが、
    純粋に、一つの風景として美しいなぁと。


    彼本来の実力が発揮されているらしい戯曲は、
    私はまだ拝見しておりませんが。
    ラストを中心に、所々にある会話の掛け合いには、
    センスや面白さを感じました。
    また、そこに戯曲で有名な方の力を垣間見た気も致します。


    次は有名なサロメを読みたいなぁと思います。

  • 再読。自分の代わりに年を取り悪徳を背負い醜悪になってゆく肖像画、というのは今読むと一種のドッペルゲンガーのような気もする。

    ワイルド自身を思わせるヘンリー卿が魅力的。彼の言うことはいちいち格言というか警句というか、引用したくなる名言の数々。ドリアンが影響を受けるのもわかる。

    しかしヘンリー卿はシニカルなだけで、犯罪を犯すような愚行はしない。そういう意味ではドリアンはヘンリー卿の影響がなくとも結局は堕ちていったんじゃないかなとも思う。バジルは貧乏くじ。

    余談だけどかなり古い文庫本なので表紙カバーの折り返しが映画の写真になっているのだけど(ヘルムート・バーガーがドリアンを演じた1970バージョンの)私の脳内ではドリアンのビジュアルはずっと「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンでした(笑)当時のヘルムート・バーガーはなんかちょっとマッチョなんだもん・・・

  • azuki七さんの影響。
    何も考えずにこれを読んでいたら、青春賛美とかワイルドの同性愛趣味か、などど間違って読んでしまっていただろう。
    年を取るということは、肉体が衰え苦しみが増えるのではない。ヘンリー卿が言いたかった青春賛美は、その時その時しかできないこと、感じられないものを楽しむことなのだと思う。
    そして、世界はいつも自分からしか開けない。どのような美しい姿をしていても、自分のしたことは、自分が一番よく知っている。肖像画は良心と呼ばれるものかもしれないが、紛れもない自分自身に他ならない。彼は良心から自分を殺したのか。いや、彼は考えることをやめ、自分で自分を否定したのだ。

  • まず最初に述べたいのはワイルドの持つ逆説の美しさ。これは幸福な王子収録の短編についても言えるが、逆説を扱わせたら彼以上に巧みな人間はそういないかもしれない。だが逆説と言うのは、単純に言葉を弄するだけのものではないという事にも気付かせてくれる。
    時として真理を外れたかのように見える、ある意味『過剰な逆説』と言えるような違和感も感じないことはない。しかしそこで立ち止まって考えてみると、逆接には真理を言い当てようと言う意図のほかに、重要な役割が潜んでいる事にも気づかされる事になる。それは思考の『枠』を外す行為だ。固定観念からの解放と言うだけでも、鮮やかな逆説は十分に意味のある働きをしたといえるのではないか。
    そもそも人間は常に文脈で生かされている。それはミクロにもマクロにもあって、その一番大きいくくりは歴史に違いない。人間は先人の積み上げた歴史を通してしか世界と向き合う事はできない。それ故に、そこに逆説が生まれる。
    逆説が生まれる。と言うのがどういうことなのかと考えてみると、それは世界のありのままの姿と、我々の持つ、我々の歴史持つ見解とが食い違いを見せているということを証明してることに違いない。そしてそれはあらゆる事物に適応できる考え方である。逆説に至る前の『順説』なるものの存在が、そもそも歪んでいる。
    本来、ある事象に解釈を加えるとき、二通り以上の解釈は両方が排斥関係におかれないことが多い。人間が一般的に思っているほど論理性は択一的でも限定的でもないからである。我々の論理性に一種の必然性を付加するのは、まさに歴史的に積み上げられてきた偏見に過ぎない。
    鮮やかな逆説の応酬には、そのような事を考えさせられた。

    物語の本筋としては、まずワイルドの持つ芸術への感性に大いに共感と憧憬を感じた。審美派、耽美派と言えるその方向性は作品を貫いて華やかで幻想的で、どこか不安定である種陰鬱な印象を醸している。

    作品で表現されていた事の中にも、また逆説が潜んでいるように感じた。自分の実在と、魂を切り離す事に成功し、老いや罪を肖像画に背負わせる事であらゆる呪縛から解放されたはずのドリアンが、その事によってかえって逆に『肖像画』と言う存在に縛られ、不自由な生と数奇な運命を辿る事になるという逆接。肖像画により永遠を得たはずのドリアンは、最後には肖像画により人生に幕を引く事となる。
    『肖像画』というものが一体何の象徴だったのか。それには『良心』と言う言葉もあてられていたが、それは『魂』でもありえて、そして『罪』でも『破滅』でも『恐怖』でもありえるし、そしてそのまま『本人』でもありえる。
    自分の行為によって、世界との関わりによって自分が全く変化せず、影響を受けず、変化するのは常に肖像画だとしたら...一体本当の自分と言うのは身体か、肖像画なのか...
    そこからは物心二元論にも通じる深い問いかけが存在していると感じた。
    何より肖像画という特異な存在を通して、我々が普段見落としがちな沢山の真理を異化し、改めて考察するのには大きな意味があったと思う。

    ヘンリー卿の述べた忠実さについての言葉は、ここ最近頻繁に考えていた事と合致していたので興味深かった。
    こういう連中が忠実と呼び、まことと名づけているものを、ぼくは習慣の惰性とか想像力の欠如とか呼ぶ。感情生活における忠実さというものは、知性の生活における一貫性と同様に、失敗の告白に過ぎないのだ。
    忠実である。誠実であると言うことに、本当に意味があるのだろうか?と考えると、明確な答えなど得られないことに気付く。所詮は人間が、ある文脈において、ある種の人間に『有益』であると言うことから生み出した概念が、長い時間を経て人間性の中にこびりついた遺産に過ぎないのではないか?時としてその忠実さ、誠実さへの固執は、人間の機会の、価値の喪失を導く害悪ではないだろうか?
    これも逆説が気付かせてくれた事の一つであろう。

    それから
    思想の価値はそれを表現する人物の誠実さとは何のつながりもない、むしろ、人物が誠実さを欠けば欠くほど、思想の知性度は純粋となる。というのも、その場合、思想が、個人の願望、欲求、偏見といった物で彩られる心配がないからだ。
    と言うのも心に残った。
    昔から言っているが、思想家や芸術家に対して、高い人間性を求める民衆の心理と言うのは歪で奇怪である。そしてそれは直接、一般的な人間からの芸術、そして思想への無理解を示していると言える。

    そしてこの本からは、芸術観についても大きな影響を受けたと感じる。
    何よりも人間は感覚を重視するべきであろう。感覚と言うのは人間と世界との境界線であって、芸術もまた人間と世界との境界線に生まれる。
    思考は違う。合理性は違う。それらを内包するような知性は違う。知性とは必ずしも世界のとの境界線で生まれる必要はなく、世界と人間のどちらか一方が欠けたとしたら成り立たなくなってしまう。
    知性の終わるところに芸術が始まる。そしておおよそ芸術とは、価値がないこと自体に価値がある。つまり頭を空にしなければ真の芸術には辿り着けないし、かと言って心まで空にしてしまってもいけない。
    おそらく言葉にするのはそう難しくないことではあるけれど、それを感覚的に感じるのは非常に難しい。多分今この芸術論を言葉にするだけの文章力は持ち合わせていない。
    でも少なくとも、世界との触れ合い方について何か大きな、大事なものを読み取った気がする。時々ここに戻り、そしてそれを基盤にして掘り下げ、磨き上げ、確固たる感覚を成立させたいと思う。

  • 名言のオンパレード。ヘンリー卿に注目。

    デカダン的な香りが強烈に漂うがそこに嫌気がささなければすらすら読めて行く。必読の書。

  • 年末に購入してようやく読了。ワイルドの美意識が炸裂、芸術がある男の一生を崩壊させていくという芸術史上主義のマニフェスト。

  •  オスカー・ワイルドという創作家は、すぐれた芸術家なのかどうなのかよくわからん人間である。その代表作とされるこの小説にかぎって言えば、少なくともわたしにとっては、(おそらく18〜19世紀以来)古今を通じて数限りなく世に生み出されてきたであろう、凡百の怪奇文学・お耽美文学の域を大きく出るものではない。<br>
     ワイルドはこの小説を通じ、美しく、自己崇拝に満ちた、悪魔的で、かつ息の詰まるほど魅惑的な人物を作り上げようとしたのだろう。だが、残念なことにドリアンの美しさも残酷さも、際だった印象を読み手のなかに刻印しない。それはドリアンが底知れない彼岸的存在としてではなく、自愛のなかにも自分が背いた倫理への恐れをかいま見せる、妙に人間くさいキャラとして描かれてしまったせいではないか。それも書き方によってはすぐれた題材になったのであろうが、この小説においては、その葛藤と背徳性についての描写がどちらも中途半端なまま、ドリアンの卑屈さと破滅だけが印象に残ってしまった。結果、小説全体がどこか大衆文学的なエンターテイメントの一作品に墜ちてしまったような気がする。

  • ドリアンが体裁とわがままで舞台女優を傷つけた時に、ドリアンの良心が本当は傷ついて、自分を堕落させることにつながったと思う。ヘンリー卿がけしかけたように見えて、彼はただ小気味のよい言葉を楽しんでいただけであまり深い意味はなく(実際ドリアンの悪行を信じていなかった)、ドリアンが素直で大した信念もなかったために影響を受けすぎたように見えた。若いときには悪いものの方に惹かれて、味方の方をつまらないものに思えたりすることがある。そうして後戻りできなくなって、振り返ると後悔が残るものだ。

  • ヘンリー卿は時空を越えて存在する完璧な存在。
    実在しなくて本当によかった。
    出会った作品の中で最高ではないが、人生で最も影響を受けた物語。いまだに呪縛は取れず何度読んでもワイルドの恥美的な世界にどっぷり浸かってしまう。

  • オスカーワイルド3冊目。また瘴気に当てられた…大筋のストーリーこそベーシックだと思いますが、とにかく会話と思考の逆説に次ぐ逆説。真理のようにも気取っているだけのようにもとられるけど、主要な登場人物3人こそワイルドの分身なのだろうと思います。

  • 英語学習用のリライト版を読んで、ワイルド的な耽美とか退廃とかが感じられずほぼほぼ単なるホラーだったのが訝しく、英語原典は無理だけどちゃんとした邦訳を読もうということで読了。
    筋立てではなく、枝葉とか登場人物の心の動きとか思想を披瀝する会話の中とかに耽美があるのね。限られた語彙で筋を追うリライト版がホラーになったのも宜なるかなであった。
    しかし原典をあたっても、ドリアンの悪徳・悪行はいかがわしい場所に出入りしているとかアヘンを嗜んでいる程度のことは書かれているものの、やはりなんとなくぼかして描かれていて、バジル殺害以前に具体的にどんな非道な行いがあったのかは詳らかではなかったのだが、解説を読んで納得。男色なのですね。そう思って読むと、ドリアンの美を純粋に賛美していたバジルとの関係に割り入ったヘンリー卿に狂わされていく三人の関係性が生々しく迫ってくる。また、「性的マイノリティ」という言葉を聞かない日がないような今日のモラルに照らしてみれば、ホモセクシュアルであるだけでこんなに肩身が狭くなって人様に後ろ指刺されるようになるのなら、そりゃあちょっとくらいはグレちゃうよねとも思い、普通に読んだだけでは感じなかったドリアンへの同情が湧き上がってきた。きっと同時代的にはこういうぼかした書き方で、ああ、男色の話なんだなとわかったのであろう。
    それにしてもヘンリー卿のお題目は長々しく、読むのが大変だったので私にとってはギリギリ星三つでした。

  • 昨年の『禁色』、今年の『標本作家』ときて、ようやく『ドリアン・グレイの肖像』にたどり着きました。本に関しては、読むべき時におのずと手に取ることになるという(?)運命論者なので、来るべき時が来たという感じです。
    学生時代に『サロメ』にはまった時に、なぜこちらを手に取らなかったのか。福田恆存が好きだと話し合える友人がいたのに、なぜこの本を手に取らなかったのか。もう彼と話し合えることがないのに、今更彼にぴったりな本達を読むことになっているなんて、なんと残酷なのだろうと思います。でも私たちにとって、美しいものは悲劇的であるということはあまりに自明なことなので、きっとこれで良かったのだと思う自分もいます。が、一番に語るべき人物が思い浮かぶのに、彼と話し合いたい本だけが溜まっていく。このあまりにも美しい言葉でなるこの本もまさにそんな一冊でした。

    読みだした最初からあまりにも『禁色』であって驚いたのですが、意外と読み終わったときには、「悠一の方が魅力的だったな…?」でした笑。だからといってこの本の満足度が下がることはないのですが。むしろヘンリー卿の方が魅力的に映った。きっと諸々の悪事が明記されているわけでもなく、それに悪魔的に酔いしれるドリアンが見られたわけでもないからだろう。BL的な観点でいうと一瞬だけ出てきた、アラン・キャンベルにもとてつもなく惹かれてしまい、ドリアンとの「18か月」詳しく…ってなりました笑

    さて本編で私を酔わせた場面たち
    「芸術が映しだすものは、人生を観る人間であって、人生そのものではない…有用なものを造ることは、その製作者がそのものを讃美しないかぎりにおいて赦される。無用なものを創ることは、本人がそれを熱烈に讃美するかぎりにおいてのみ赦される。すべて芸術はまったく無用である」p.8, オスカー・ワイルド(序文全てが魅力的で既に★5の気分だった)

    「影響はすべて不道徳なものだー科学的にいって不道徳なものだ…他人に影響を及ぼすというのは、自分の魂をその人間に与えることにほかならないから。いちど影響を蒙った人間は、自分にとって自然な考えかたもしなければ、自分にとって自然な情熱で燃え上がることもない。美徳にしても本物でなく、罪悪だってーもし、罪悪などというものがあるとしての話だがーそれだって借物にすぎない。その人間はだれか自分以外の人間が奏でる音楽のこだまとなり、自分のために書かれたものではなく役割を演じる俳優となる。人生の目的は自己を伸すことにある。自己の本性を完全に実現すること、それこそわれわれがこの世に生きている目的なのだ。…」p.32, ヘンリー卿

    「薔薇のように紅い若さと、薔薇のように白い幼さをもったあなた」p.34, ヘンリー卿

    「音楽なら、いまと同じように心をゆすぶられたことがあった。一度ならず、音楽はかれを悩ました。しかし、音楽は、明晰な思想の表現ではない。音楽が人間の心のなかに創りだすものは新たな世界ではなく、むしろ、もうひとつの混沌にすぎない。言葉!ただの言葉!…言葉は無形の事物に形態を附与し、ヴィオラやリュートの音にも劣らぬ甘美なしらべを奏でることができる。ただの言葉!いったい、言葉ほどなまなましいものがほかにあるだろうか」p.34~35, ドリアン

    「美というものは天才の一つの型なのだーいや、それは説明を必要とせぬゆえに、天才よりも高次のものにちがいない。美は、陽光や春、あるいはひとが月と呼ぶあの銀色に輝く貝が、暗い水面に落す影のごとき、この世のすばらしき現実に属しているのだ。美にたいして問いを発することはできない。美には天与の主権があるのだ…」p.38, ヘンリー卿

    「…きみは、ずっしりとした重たげな蓮の花を頭にかざし、アドリアンの屋形船の舳に座して、緑色に濁ったナイル河を見渡し、あるいは、ギリシアの森林の静かな池に身をのりだして、その静まりかえった銀色の水面に映る自分の顔のすばらしさに見惚れたのだ。そして、こういったものこそ、芸術の真にあるべき姿なのだ、それは無意識的で理想的、かつ超絶的でなければならない。」p.172, バジル

    「ドリアンは、いったい自分とバジル・ホールウォードはほんとうに会ったことがあるのだろうか、会ったとすれば、ふたりはたがいに相手のことをどう思っていたのだろうかと考え始めるのだった」p.250 おやおや…夏の日のあの庭が思い浮かぶ…

    「文明というものは、容易なことで出来あがるのではない。それを達成する道はただふたつだ。ひとつは教養を高めることであり、もうひとつは頽廃することだ」p.299, ヘンリー卿

    「きみは像を彫るでもなし、絵を描くでもなし、きみという人物以外のなにものをも造りだなかったのだ!人生こそきみの芸術だった。きみはきみ自身を音楽に編曲したのだ。きみの一日一日がソネットなのだ」p.310, ヘンリー卿

    番外編
    「自然のみならず、芸術にもまた獣的な形状と醜怪な声音をもった怪物があるのだという考えに、一種異様な喜びを感じるのだった。ところが、暫くするうちに、かれはそれにも飽き、ときにはひとりで、場合によってはハリーと連れ立ってオペラ座の自分専用の桟敷に坐り、「タンホイザー」の楽曲に恍惚とした耳を傾けては、この大芸術作品の序曲のうちに、自分自身の魂の悲劇が表現されているのだと感じるのだった」p.199, ドリアン

    割と最初の方から、ワーグナーの音楽が頭に流れていたのですが、『ローエングリン』という言葉からおやっと思い、『タンホイザー』が出て、ワイルドってワーグナー好きだったんだ!と調べて知りました。だよね、わかるよ笑。同じ方向性の世界だもの

  • 唯美主義に浸りたいだけの気持ちで読むには人生動かされすぎる問題作でした((汗

    ここから得るものはかなり大きいので、人生で読んでおいた方がいい作品だと思うのですが、あらすじとか教養として知っていただけの大雑把な内容などから受けるイメージは軽すぎたかもしれません。
    実際に読んでみたら無秩序が予想の遥か上をいっていて、とにかく怖い怖い!
    怖がらせるためのホラー小説よりもずっと怖いです……。

    凄く重く心にのしかかるものがあり、考えようによっては財産にもなり得ると思うので、読んでよかったというのは素直な感想ですが、ただ私は実際に読破する前の、大まかな知識だけの時の方がこの作品が好きでした。
    全て含めて最終的に星4です。

  • 読んでいて映像が目に浮かぶような筆致。
    しかし、ぐいぐい引き込まれていく展開ではなかった。
    発表当時はセンセーショナルだったと思われるが、21世紀の今だと特に印象に残らない。
    ワイルドの他の作品も読んでみて、ワイルドの自分なりの評価を決めたい。

  • その若さと美貌と富ゆえに、純粋であった主人公ドリアン・グレイが、彼の信奉者たる画家のバジル・ホールウォードにその肖像画のモデルとされる。生き写しとされたその作品が保ち続ける若さと、重ねられていくグレイの悪徳の相反性に彼は苦しめられていく。ラストのモダンホラー的展開にしても何か彼の暗喩である肖像画に込められた芸術への皮肉が意味されているのだろうな、と浅はかな読者である僕は解釈した。作者であるオスカー・ワイルドの純粋な美と芸術の素晴らしさと恐ろしさの観念に当てられたのでした。

  • 「魂は恐るべき実体なのだ買うことも売ることも交換することもできる。毒することもあるいは完璧にすることもできる。われわれひとりひとりのなかに魂があるのだ。ぼくにはそれがわかっている」

    魂はそもそも、物質に還元されない人間の認識様式をさすものだと私は思うが、自らの放蕩によって穢れてゆく絵姿をみたドリアングレイにとっては、魂が実体となって現れたように感じられたのだろう。

    また、買うことも売ることもできるというのは、自分の魂は他者から借りる人生観により、そのありようを誘導されることも、あるいは、自身が他者を拐かし、その魂の在り方を変容させてしまうことも自身の経験から見出した言葉だと思う。

    ヘンリー卿の言葉に陶酔し、快楽に身を落とし続けたドリアンも物語終盤には、善良に生きたいと願うようになり、そのようになるためには過去の自分を精算する必要を何処かで感じていた。
    しかし、物語の結末では、それが叶わなかった。
    このことは、穢れはたとえ借り物のであったとしても、生きかたに反映された途端に自身の血肉なるということを暗示していると思う。
    純真無垢な自分を取り戻すには、穢れの染み付いた魂を浄化する必要があったが、それは自分自身だったのであろう。

  • 3.73/1883
    『舞台はロンドンのサロンと阿片窟。美貌の青年モデル、ドリアンは快楽主義者ヘンリー卿の感化で背徳の生活を享楽するが、彼の重ねる罪悪はすべてその肖像に現われ、いつしか醜い姿に変り果て、慚愧と焦燥に耐えかねた彼は自分の肖像にナイフを突き刺す……。快楽主義を実践し、堕落と悪行の末に破滅する美青年とその画像との二重生活が奏でる耽美と異端の一大交響楽。』(「新潮社」サイトより▽)
    https://www.shinchosha.co.jp/book/208101/

    冒頭
    『 第一章
    アトリエの中には薔薇のゆたかな香りが満ち溢れ、かすかな夏の風が庭の木立ちを吹きぬけて、開けはなしの戸口から、ライラックの淀んだ匂いや、ピンク色に咲き誇るさんざしのひとしお細やかな香りを運んでくる。』


    原書名:『The Picture of Dorian Gray』
    著者:オスカー・ワイルド (Oscar Wilde)
    訳者:福田 恒存
    出版社 ‏: ‎新潮社
    文庫 ‏: ‎428ページ


    メモ:
    ・松岡正剛の千夜千冊 40 夜
    ・英語で書かれた小説ベスト100(The Guardian)「the 100 best novels written in english」
    ・死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」

  • 2019.11.28


    若くありたい歳をとりたくないと思うドリアンと今後社会人になって歳を取るだけの自分を読み始めの時は重ねてたけど、今はそんなことないかな。

    名言がたくさん出てきて、ほぉ〜となる表現がたくさん。哲学的な気もする。面白い。面白い。
    イギリス文学をちゃんと読むのはたぶん3冊目とかかな、とても面白かった。古典文学だとやっぱり読むのに気力がいるし、時間がかかってしまうけど、この作品をまた再び読む時が来るのを期待している。

  • 蔵書整理で手放すので、再び出会い読む日もあるか

  • 記録

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著者プロフィール

1854年アイルランド・ダブリンに生まれる。19世記末の耽美主義文学の代表的存在。詩人・小説家・劇作家として多彩な文筆活動で名声を得る。講演の名手としても知られ、社交界の花形であった。小説に『ドリアン=グレーの肖像』戯曲に『サロメ』『ウィンダミア卿夫人の扇』回想記に『獄中記』などがある。1900年没。

「2022年 『オスカー・ワイルド ショートセレクション 幸せな王子』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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