シーシュポスの神話 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (257ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102114025

感想・レビュー・書評

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  • 生きるため信仰や希望が必要なのは、ドストエフスキーの引用にあるように、それが「人類の正常状態」であるとしても、それは不条理な人間には異常にも映るのだろう。
    不可避である死が無いもののようにされている不思議さ。そんな飛躍(哲学上の自殺)も肉体的な自殺もカミュは拒否する。
    無意味な人生、不条理から意識をそらさず死に至る、彼にとって生きるとはそれ以外にあり得ないのだろう。
    訳者あとがきで触れている「入り江の曲線、輝く海、大地の微笑」は私も、おっ…と思ったところ。
    「希望を永久に回避することはできない」も名言じゃないかな。

  • 自殺するかどうかが哲学的問題であるといい、「不条理な論証」でそれを証明することを試みているようなのだが、あまり説明しているようには見えない。明晰であることを目標として掲げるが、なぜ明晰であると良いのか、肝心のその理路が見えない。ただ彼がそう決意したというだけではないか。
    しかしながら、それでいて不思議と自殺を遠ざけるように心を揺さぶってくる。
    宗教や理性への信仰や、その根拠を問うことをやめてしまう態度を「思考の自殺」と名付けるところまでは鮮やかなのかもしれない。私という個による懐疑を徹底することは、裏返しとして、私という個を少なくとも自分は盲信するということでもある。懐疑を勧めるようで、懐疑の裏面であるところの盲信を勧めている、ということだろうか。

  • 通勤の地下鉄でこの本を読んでいると、荒涼とした世界の無機質さや奇怪さが迫ってきて気持ち悪くなってくる。哲学が辿り着いた理性の限界という結論には同意しつつ、だから神を信じるというのは「飛躍」だとして、キルケゴールに代表される実存哲学を退けるカミュ。クリスチャンとしてはカミュの示す生き方を受け入れるのは難しいが、悲惨な戦争を経て生み出されたカミュの思想をクリスチャンも無視はできない(教会がその戦争を止められず、加担すらしたことも考えると尚更)。「飛躍」がないからなのか、より近い時代だからなのか、訳文のためなのか分からないが、キルケゴールよりは難解でない気がする(それでもかなり難解だが)。

  • もはや哲学書

  • 神々がシーシュポスに課した刑罰は、大岩を転がして山頂まで運びあげること。そして岩を山頂に運びあげ、仕事を達成したとたん、この岩は自重で麓に転がり落ちる。こうしてシーシュポスは、山麓から重い岩を押し上げる苦しい労働を永遠のように繰り返す。

    有名なこの寓話を所収している。だが実は、この寓話は、本書におけるごく一部。7頁を占めるのみである。
    他は「不条理」を巡る評論3編を所収。新潮文庫のこの版では、さらに1編「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」という評論が加わる。

    「不条理な論証」では、自殺を例に、手掛かりに、不条理とは何かを論ずる。続く「不条理な人間」は、ドンファンなどを材にした評論。 俳優論も少々あり。そして「不条理な創造」は、哲学と小説の世界での、不条理へのアプローチを論じる。ドストエフスキー、そして「カラマーゾフの兄弟」が論じられる。曰く、
     「これ(カラマーゾフの兄弟)は、不条理な作品ではなく、不条理な問題を提起する作品なのである」

    いずれの評論もなかなか難しく、手ごわい。
    だが、比較的短く言い切るカタチの文も多い。そのため、単独では明快さと簡潔さのある一文、段落もある。そうした一節、一文に下線をひきながら読み進めた。すると、魅力的なアフォリズムのような文がたくさんあるのであった。

    「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」
    「ぼくらは思考の習慣よりまえに生きる習慣を身につけているのだ」
    「精神の第一歩は真であるものを偽りであるものから区別することだ」
     などなど…。

    こうしたアフォリズムのような一文や一節を拾い読みするのも、本書の味わい方のひとつ、と思っている。

     追記:
    「神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、/自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。」

    シーシュポスは、この刑罰と運命を意識していることは不条理である。だが同時に、この運命を自覚している点においてシーシュポスは自由である。
     

  • 自分なりにカミュの「不条理の哲学」を要約すると以下のようになる.人間はその理性から,世界の全て,万物の理を知ることを欲する.しかし,世界は自ら何も語らず,そこに存在する.人間の理性では,世界を理解することは到底敵わない.つまり,人間は世界に産み落とされた段階で,わかるはずのないものを知ろうとするという絶望を体験することになる.この二つに引き裂かれた状態を「不条理」と呼ぶ.この不条理な状態に対しては二種類の対応の仕方が思い浮かぶ.一つは,不条理を生きることであり,もう一つは,不条理な世の中から逃避する,即ち,自死である.究極の選択である自死に対して,生きることを選択するということはどういうことか.それこそがこの本の主題である.例えば,実存主義の哲学者キルケゴールは,その不可知であるという性質から,世界に神を見た.つまり,全能の神を用意し,それに跪くことで,不条理を克服した.しかし,カミュはこれを逃避だと断じた.では,シュストフはというと,彼は,世界をわからないものだと諦め,それによって不条理を懐柔する.しかし,カミュは,人間の理性を信頼しているため,この姿勢を受け入れない.カミュにとってこれらの思想は「哲学上の自殺」なのだ.そして,カミュは以下の三つのものを提示する.一つ目としては,意識的であり続け,反抗し続ける姿勢である.不条理を生きるためには,現在その一瞬において醒めており,自分の内面から世界を知り尽くそうという努力が求められる.それは安住とは対極の緊張感を孕む,反抗である.二つ目は,死の意識によってもたらされる自由である.死は絶対不変の帰結点として存在する.それを思えばこそ,人は生きているその瞬間に意識的であると言える.三つ目は,生きている現在時から得られる経験を多量に感じ取ろうとする情熱である.世界は同じ年数生きた人間に同等の経験を授ける.しかし,そこから何を得るかはその瞬間の生き方に依存する,と考える.これら三つがカミュの主張する,不条理から出発した,反抗,自由,そして熱情である.しかし,カミュの不条理の哲学は現在という一時点に重きを置きすぎていると考えられなくもない.この哲学には未来への希望や,過去の反省といったものの介在する余地がないのだ.

  • 小説部のみ読了。そこ以外は難し過ぎる。自分はまだまだ人生を語れるような境地には至っていないな。

  • カミュ
    シーシュポスの神話

    真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えること。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には9つの範疇があるとかはそれ以降の問題。
    ニーチェの望んでいること-哲学者たるもの身を以て範をたれてこそはじめて尊敬に値するというのが真実ならこの根本命題に答えるのがどれほど重要かわかる。(これによって自殺を左右する)

    ある問題の方が別のある問題より差し迫っているということを一体何で判断する? -その問題が引き起こす行動を手掛かりにして(カミュの意見)
    ガリレオの自殺は根本的でない。取るに足らない問題。
    これに反して多くの人々が人生は生きるに値しないと考えて死んでゆく。他方また、生きる理由のためを与えてくれるからといって、様々な観念のために、というか幻想のために殺し合いをするという自己矛盾を犯している多くの人々を僕は知っている。(生きるための理由と称するものが同時に死ぬための見事な理由でもあるわけだ)

    だから僕は人生の意義こそ最も差し迫った問題だと判断する。

    あらゆる本質的な問題(ときに人を死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を10倍にもする問題)について、おそらく思考方法は二つしかない。

    ラ・パリス的思考方法とドンキ・ホーテ的な思考方法。この二つのもの、つまり自明性と抒情的態度との均衡によってのみ、僕らは感動と明晰とに同時に至ることができる。それゆえ実に目立たぬものだが、同時に悲痛きわまるこのような主題においては精緻な学識に基づく教壇的弁証法は良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席を譲らねばならないことがわかる。

    これまで自殺は一つの社会現象としてしか扱われなかった。しかしここで問題にしたいのは個人の思考と自殺の関係。自殺というこの動作は偉大な作品と同じく、心情の沈黙の中で準備される。当人自身もそれを知らない。思考を始める、これは内部に穴が開き始めるというこよ。発端は人の心の内部。

    実存に真っ向から向き合った明察から光の外への脱出へといたり死をもたらすあの動き、それを追跡し、理解せねば。

    ある一人の自殺には多くの原因があるが、一般的に言ってこれが原因だと一番はっきり目につくものが実は一番強力に作用したという試しがない。熟考の末自殺するということはまずほとんどない。

    自殺はある種「生を理解できない」と告白すること。「苦労するまでもない」と告白すること。習慣や日常の馬鹿ばかしさを認めたことを前提にしている。とすれば精神が生きていくのに必要な眠りを精神から奪ってしまうこの計り知れない感覚とは一体どのようなものか。

    とかく説明できる世界は親しみやすい世界だ。だが反対に幻と光を突然奪われた宇宙の中で人間は自分を異邦人と感じる。(離人感) この追放は失った祖国の思い出や約束の地への希望を奪われている以上、そこではすがるべき綱はいっさい絶たれている。

    人間とその生との、俳優とその舞台とのこの断絶を感じ取る、これがまさに不条理の感覚。自殺を想ったことのある健康人なら誰でも、これ以上説明をしなくてもこの感覚と虚無への熱望との間には直接のつながりがあるとは認めることができよう。

    この試論の主題はまさしく不条理と自殺の間の関係、自殺がどこまで不条理の解決となるかというその正確な度合い。

    生に意義を与えることを拒んだ思想家のうち、キリーロフ(文学)、仮説に属するジョージルキエを除いてはこの人生を拒否するに至るほどまでに自己の論理を貫いたものはただ一人もいない。
    ルキエは知識と自由意志の不可分を主張、自殺?
    悲劇性を真面目に取ろうとしない態度が人間としての値打ちが低いということに。。

    いっさいを退けて真の問題へと直進しなければいけない。

    論理的であるというのは常に楽にできる。しかし極限まで論理的であり続けるのはほぼふかのう。「論理的」にも強さというか広さがあるな。
    死に至るまで貫かれた論理が存在するか?(正当で論理的な自殺はあるのか?と)

    ヤスパースは統一的世界像の構成の不可能性を明らかにした「この限界はわたしをわたし自身へと導く、そうやって辿り着いた地点では客観的視点など私がただ表象しているに過ぎない。そこでは私自身も他者の存在も私にとってはもはや客観的対象とはなりえない」ここで多くの人が自殺する。思考の自殺。

    しかし真の努力とはそれとは反対に可能な限りその場に踏みとどまって、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討すること。
    不条理と希望と死とが互いに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を特権的立場から眺めるためには粘り強さと明徹な視力とは必要である。
    その時この基本的でしかも同時に微妙な舞踏について精神はその様々なフィギュアを分析し、続いてそれを明示して、自らそれを再び生きることができる。

  • 原書刊行は1942年(昭和17年)というのだから第二次世界大戦の真っ只中である。アルベール・カミュ(1913-1960)は繰り返される戦争の中で不条理を見つめたのだろうか。彼は立ち木に衝突する交通事故で死んだ。KGBによる暗殺説もある。不条理を説いた男の不条理な死。
    http://sessendo.blogspot.jp/2015/10/blog-post_8.html

  • 無限の神に有限の身体。その間に挟まれてしまった"ぼく"
    届かないからそっぽを向いた。
    「死ぬべきものとしてとことん生き抜いてやろうじゃないの」

    不屈の反抗児カミュ。
    このひとのことばは緻密さにあるのではなく、反抗という飛躍によって突き動かされている。
    だから、どうしたってどうしようもなくへそまがりで頑固。前を見ながら後ろを見るということを平気でやってのける。それは有限と無限の合わせ鏡によってなされる。キルケゴールとヤスパースの比較がそれだ。
    永遠という神にはどうしたってこの有限の者はなりえない。だったら永遠なんて幻からは背を向けてもう一度有限の身体に戻ろうではないか。目覚めた精神によって、存在する者から実存へ飛躍する瞬間。
    これが哲学上の自殺だ。永遠から背き、限界を受け容れる。無限に辿り着くことが叶わない。そんなものならいらないと、再び有限に帰っても、そこに映るのは無限によって映される己の姿だったのだ。
    有限と無限の合わせ鏡の間に立つこの"ぼく"はそれゆえにどこまで行っても異邦人なのだ。
    死にながら生きる。これが不条理でなかったらなんだというのだ。

    ニーチェはこの間に立ってついに発狂した。カミュはそうならないためにも、実存に帰れと反抗を説く。岩を押し上げてはまた戻されるような、くり返される無意味な日常。そこで目覚めてしまった精神はとどまることを知らず、身体からの脱出を試みる。それに抗い精神をつなぎとめて生きよと。
    どうしてこうも力強く反抗できるか。それは「すべては許されている」この一点に尽きる。
    有限と無限に引き裂かれてもなお残る、この"ぼく"はなんなのだ。どんなに反抗しても、不条理は今、ここに在る。無限でもあり、有限でもある。無限でもなければ、有限でもない。
    在るようにしか、在れない。ぐるっと回ってまた戻って来てしまう。そう「すべてよし」だったのだ。「ある」と「ない」から、「存在」が抽きだされる弁証法。

    では実存として、存在として、不条理として立ち返ってしまうことはどういうことをもたらすのか。彼は演劇や小説、芸術に触れて考える。不条理を表現することで、不条理を見つめ続けよ。表現しえないものに反抗して表現をし続けろ。この不毛な行いの中に希望などない。そんなものまやかしに過ぎない。しかも、やめることなどできない。やめたら表現しえた可能性としての不条理が表現されなくなる。それはふたたび有限と無限に引き裂かれる苦しみにさいなまれることを意味する。夭折や死刑が罪だというのはここで初めて言えるのだ。
    ところが、それでも不条理にとっては、表現されてもされなくても、なんら不条理に変わりがないのだ。書くことに慰め以上のことはない。この恐ろしいまでの自由。その自由に則って死に赴く。これが幸運と呼ばれるものだ。

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