- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102114056
感想・レビュー・書評
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・翻訳で読むのがいいのか?フランス語で読めたとしても同じようにニュアンスはつかめないかもしれないが。
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桜庭一樹の「じごくゆきっ」を読んでいたら,本書からの引用が気になったので,再読.
カミュを読むのは学生の頃以来なんだけれども,いやー,やっぱりカミュは難解.
しかし,桜庭先生よく,「いったい,暴君とはなんだ?」「物事が見えなくなった魂です.」とか「罪こそ我が家」なんていうフレーズを引っ張ってきたものだ.「坊やだからさ」みたいな有名なセリフってわけでもないだろうに(有名なのかな?). -
古代ロ-マ帝国の皇帝カリギュラの暴君ぶりは有名ですが、カミュの戯曲第1作は、『カリギュラ』の自暴自棄とも思える横暴に業を煮やした臣下たちの手によって暗殺され悲劇の皇帝を描いています。ナチス・ドイツから解放されたパリで、ジェラ-ル・フィリップ主演で上演され好評を得たようです。『誤解』は、東欧の小さなホテルで起きた実際の事件から着想を得て戯曲化されたようです。宿泊客の金品を奪うために殺人遺棄を繰り返してきた母娘の前に、昔に家を出た兄が妻を伴って戻ってくるのでした・・・。救いのない母娘の悲劇です。
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カリギュラは至高のうちの1つ
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はじめてカミュの演劇を読んだが、小説を読んだ時よりも、彼が目指していたものが息づいているように感じられた。
皇帝カリギュラはある時気付いてしまった。ひとは死ぬ。死ぬとはなんだ。そして今、生きているこの俺はなんだ。
史実のカリギュラの名前を借りただけで、別に発狂したと言われるあのカリギュラではない。このカリギュラは、狂うということさえできなくなってしまった、きわめて目覚めてしまった皇帝なのだ。
存在するというそのことは、ありとあらゆることが許され、可能という不可解な事態が成立してしまっていることだ。ありとあらゆることが可能であるなら、国家というものの成立も、ひとの生き死にもすべてが可能なはずだ。彼はそれを体現したに過ぎない。プラトンの国家の裏にカリギュラの国家が存在する。ところが、ありとあらゆることが可能なはずなのに、どういうわけか、あの月に触れることができない。どんなに願っても、ケレアやシピオンが感じるものを感じることができない。どうあっても、カリギュラはカリギュラであるから。剣を突き刺されるその瞬間までも、彼は死ぬことができない。存在とは不滅だから。ただ、生きているより他ない。彼が月を求めてやまないのは、届かない絶対的な他者だからこそ惹かれるのである。たとえ、愛人が亡くならなくても、遅かれ早かれ、彼はこの渇きに襲われたに違いない。実際にカリギュラを演じる役者は、この途方もない無限な孤独をその所作で演じなければならない。
ケレアは誰よりもこのことに気付いていたから、最期に真っ向から切りつけた。まるで自分自身を殺すかのように。シピオンはいつの日か分かち合えることを信じて旅立った。ところが、そんな愛や希望というものは生きるということに目覚めてしまったカリギュラには、あまりに遠すぎる彼岸であった。理由なくこじれていく悲劇ではない。カリギュラがいてしまうはじめから、悲劇だったのだ。
その点誤解は、人物の交錯が悲劇を編み出していくのかもしれない。しかし、序文でカミュが触れているように、これは悲劇から変貌した反抗の強い力だ。マルタにマリヤは、一見すれば、誰からも認められないというところに沈み込んでいるように見える。ところが、誰からも認められないということは不可能なのだ。認められていないと認めるこの自分がいるからだ。そんなことを忘れ、自らの生の不条理を正当化しているところにマリヤの誤解はある。一方のマルタは、一人というものに突き落とされてようやくそのことに気付いてしまったのだ。悲劇形式の変貌、反抗の力は、この誤解に気付くところにある。悲劇を演じることで、悲劇に反抗する力となる。だから、本質的に誤解は悲劇ではないのだ。 -
「カリギュラ」
ミーハーなので、愛妾兼妹の死という設定や、シピオン・セゾニアとカリギュラの関係性に萌えてすみません。この本でのカリギュラは、暴君でありつつも論理的かつ正直であろうとする魅力的な人間として描かれている。
「誤解」
人は求めても需要と供給が一致しなければ孤独なんだなあ。 -
20130102