迷える者の禅修行: ドイツ人住職が見た日本仏教 (新潮新書 404)
- 新潮社 (2011年1月17日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106104046
感想・レビュー・書評
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筆者は1968年生まれのドイツ人。ふとしたことから、仏教・禅の修行のために来日して、そのまま日本に住むこととなる。本書が書かれた時点では、兵庫県の安泰寺というお寺の住職をされている。本書は、筆者の日本での修行体験を語ったもの。
私の妻はタイ人。私はタイで約5年間勤務していた経験があり、その時に知り合って結婚した。タイ人には仏教徒が多く、国民の約95%以上が仏教徒だと聞いたことがある。タイでは、生活に仏教が根付いているな、と思ったことが結構あった。
私が勤務していたのはメーカーで、オフィスがバンコクにあると同時に、工場がバンコクから200km程度離れた海沿いの工業地帯にあった。タイには、宗教的な年間行事がいくつかあるが、工場の周囲のお寺で社員が大勢集まり、行事を就業時間内に行ったりする。また、出家のための休暇制度があったりして、仏教の習慣が比較的身近にあるように感じた。
本書の筆者は、日本では、仏教が生活に根付いており、お寺では修行が出来ると思って来日したわけであるが、日本では、そこまでお寺が人々の生活に入り込んでいるわけではないことに気づかされ、がっかりする経験を持っている。
タイで、妻のアパートに初めて泊まった時のこと。
エアコンもないアパートは非常に寝苦しく、朝方、まだ薄暗い中、眠れないまま、当時はまだ嗜んでいたタバコを吸いに外に出た。すると、黄色っぽい衣装を身につけたお坊さんが何人か托鉢に歩いていた。とある家の前で、その家の方たちが喜捨をされているのを見た時、あぁ、これがタイの習慣なのだなと思ったし、遠くに来たのだな、とあらためて感じたことを思い出した。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ドイツ人にもかかわらず、日本の禅寺で住職を務めている方の、手記になります。
意外にも、欧米では「禅」が文化の一つとして周知されているそうで。
一貫しているのは「人の生きる意味」についての深い思索、でしょうか。
かといって悟りきっているわけでもなく、折々で懊悩されています。
「自分だけがまともな修行をしていると思い込んで壁を作り、皆を見下していた」
また、純粋に宗教として見た場合、その理念と現実の乖離には、、
日本の仏教界もかなりドロドロしているなぁ、とも。
といっても、ビジネスとて捉えればそれもある意味道理の一つでもあり、
これはローマ法王などから見るキリスト教も同質の病巣?はあるかな、と。
「「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っている」
ちょうどこの書と入れ違いに読み始めた『知の逆転』で、
「人生は無意味」なんてフレーズが出ていたのとシンクロしました。
それぞれのスタンスも専門も、全く異なっていながらも、
本質として同じことを言わんとしているのは、非常に興味深く落ちてきました。
こういうことがあるから「読書は刺激的」なのだと、思います。
「人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している」
けだし真理であると、実感してしまいました、、
ん、人は常に問われている、その在り様を、なんて。 -
ドイツ人の禅僧である「ネルケ無方」さんの著書です。
外国人での禅を支持する方は多いですが、出家得度し禅僧となり、しかも禅寺である安泰寺の住職も務めているという突出した経験をお持ちです。
本人が仏道を志し、日本に渡り現在に至るまでの紆余曲折の経緯を時系列に書かれています。
私自身、禅僧の方が書いた本を何冊も読んでいるのですが、禅僧の方は常人離れした達観の域に達していると思っていましたが、この本を読んでイメージが変わりました。
普通に人間関係で揉めたり、悩んで凹んだり、逃げ出したりと、俗人とあまり変わらないですね。
まぁ、考えてみれば同じ人間なので煩悩も同じようにあるのが当たり前ですが。
ただ、それらに正面から向き合うという姿勢と覚悟が違うということでしょうか。それこそ座禅(修行)ということのようです。
著書自信が悩みつつ会得した内容なので、リアリティがあり、読んでいて非常に面白かったです。
この本でも何度か出てきますが、「離してみてこそわかる」という内容が印象に残りました。
私も離すことで変わるものを沢山掴んだままにしています。 -
ひょんなことから体験した禅。
実際に修行する人はどんな生活をしているのかが分かる本。日本社会が求める”お坊さん”の役割とその修業の目的が結びついているから、本当の仏教修行と呼べるのかという問題提起が興味深かった。
日本人はこんな内部事情を赤裸々に書けなさそう。 -
面白かった!頭の中でしか生きていなかった、自分探しの迷子君が坐禅をして身体というものを発見し、禅僧になりたくて来日。修行を積み、いまではお寺の住職として、自給自足しながら世界各国からくる修行者に坐禅を指導しているという内容。生まれ育った文化によって身体感覚や修行に対する意識が異なり、強調しなければならない点が違うということが、今、安泰寺における最大の公案なのだそうだ。人を見て法を説くことは難しい。
地によって倒れた者は、必ず空によって起き、空によって倒れた者は、必ず地によって起きる -
故郷ドイツで禅に出会い、日本に留学して日本の禅の姿に愕然とし、ついには僧侶となりホームレス雲水となり、安泰寺の住職に。
日本の仏教のあり方に疑問を持ちつつも、無我夢中に修行することで咀嚼して吸収していく姿に心を打たれました。
坐禅、いいですなぁ〜 -
釈迦の教えに一番近い実践をしてるのが禅宗だという。禅は部屋の中でも出来るのに、わざわざ寺でしたがる観光客も多い。所詮はまねごとの内省をしたいだけなのだろう。個人的には禅よりもウォーキングの方が内省に向いている。身体の動きにより、心はただ一つに集中できる。アイデアはよく何かをしているときにひらめくことが多い。
日本には真の意味での仏教はない。葬式サービスがあるだけである。 -
自己と向き合う禅寺で修行する著者が思い悩む様が描かれています。
何の為に日本に着たのか、何のために修行するのか、と思い悩む様は仏教の本質とは何か?という事を考えさせられる。 -
震災の後にこんな本を読むと、宗教とはなにか、救いとはなにかを改めて考えてしまう。
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ドイツ人で禅僧ということで、理屈っぽいのかと思ったが、非常に興味深く読めた。実名入りでここまで書いていいのかな?と思うところもあったりして...禅の精神を伝えながら、エッセイとしても読めて、期待以上の内容だった。