イスラーム戦争の時代: 暴力の連鎖をどう解くか (NHKブックス 1057)
- NHK出版 (2006年4月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140910573
作品紹介・あらすじ
二〇〇一年アメリカ、九・一一の悲劇-それは始まりでも終わりでもなかった。世界は新しい戦争の時代にはいった。文明間の衝突ではなく、個人対国家の戦いである。ヨーロッパとイスラーム各国でのフィールドワークを通し、ムスリム(イスラーム教徒)が直面する現実と広がる不満の裾野を描出する。テロに傾斜する不満の裾野をいかに崩すか。憎悪と暴力のスパイラルを止める鍵を、世界に向け提起。
感想・レビュー・書評
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ムスリムは1つの共同体。人種、民族、所属する国家を超えて1つの共同体を構成するという意識を持っている。この共同体のことをウンマという、人種や民族が異なっていても信仰のうえではアラーへの絶対的な帰依がムスリムたる条件である。
法制度において西洋とイスラムでは異なる。
オランダはムスリムに寛容的である。
アメリカには文明の衝突を引き起こす軍事力はあっても支配を実現するための経験と論理がない。一方、国家理念への執拗なこだわりや国民国家の原則を堅持する欧州諸国はより深い部分での衝突をイスラムとのあいだにもたらす。
西欧が作り出した人の法とが支配する国家、イスラムが作り出した神の法が支配するムスリムの両者が原理的に整合しないことは明らか。 -
大変勉強になった。とてもわかりやすい。
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ムスリムはなぜテロに走るのか。そこには不公正の現状があり、ジハードという思想があるからだと著者は述べている。そして不公正はイスラームの外部者によって作られ、経済的文化的差別やダブルスタンダード、「テロとの戦い」といったものだ。ところで、イスラーム教を信じるものはすべてテロに訴えるかといえば、著者はそうではなく、信者個人の問題だという。一方、不公正が深まり、さらにイスラーム主義者の訴えに同意するものが増えればテロに走るものも多くなるという。そこで著者は不公正を見つめ、それをなくすことから暴力の連鎖を断ち切ろうとし、そのために寛容あるいは不干渉になるべきだと述べた。
ムスリムも西洋人もみんながみんな著者の言うような寛容さになれれば問題は起こらない。だが現実としてそれができないから文化間のいざこざからテロなどまで至るのだと思う。著者がイスラームの価値観を認め、受け入れがたいものには距離を置くよう述べている。私個人としてはこの考えは非常に有意義だと思うし、それによって多文化共存もできると思う。だが、現実的にはそう簡単にいかないのだ。寛容といっても著書にあるような日本語的感覚から西洋的な不干渉まである。いちばん低いレベルあるいは無慈悲ともいえるのが不干渉レベルだと思う。だが、現実の問題は不干渉してもよい部分(ムスリム個人がハラール食品しか食べないなど)と、イスラームの行為が非ムスリムのアイデンティティ(あるいは利益)までかかわる部分とがあるように思う。後者はフランスで言えば第二の国是ともいえる世俗化(とりわけ公教育と宗教)などである。
だが、そもそもの問題発起は寛容しないことではなく、ある日突然なにかのはずみで琴線にふれ、不干渉してもよかったことがよくなくなるところにあると思う。オランダやフランスの例がそうである。フランスは宗教的コミュニティの形成を認めてないところに、宗教的集団意識の非常に高いムスリムが大量に入り込み、対立の元となった。今のムスリムと西欧との根本的な対立源は、移民が自発的に同化することができず、しかも自分たちの風習に則って生きようとするところとそれを促進させているものが社会構造のなかの差別であり、差別されるから余計自分の所属集団に意識が向くのだと思う。この2つが相互作用することでさらに移民とホスト社会のなかで分裂が深まり、やがてはジハードのもとを作り出すのである。
ところが、差別はどこから生まれるかといえば、この場合は白人優位主義とも大きくかかわるが、それ以外に同化しようとしない(というより郷に入っても郷に従おうとしないこと)移民に対する苛立ちにもある。個人的に後者のほうが大きい気がする。欧米人の肩を持つつもりはまったくないが、移民自体ホスト社会にとって一種の異物であり、その異物がホスト社会に好意的であればホスト社会は積極的になるだろうし、ホスト社会にいながらかれらの価値観を受け入れたがらないとなれば、ホスト社会も嫌がるだろう。ちょうど人体に栄養となる食べ物が入ってくるかそれ以外のものが入ってくるかのようである。
一方、ホスト社会にも問題がある。移民は自分の価値観とはまったく別の価値観の世界に入るのであるから、それなりにストレスも抱えている。そのストレスを一時も解消してくれるのが自文化集団なのである。だからこそ移民はホスト社会において個々のコミュニティを形成するのである。ただ、ムスリムにおいてこのコミュニティの特色がほかのコミュニティよりも宗教色を帯びているから、世俗化したホスト社会には受け入れがたくなっている。しかしながら、宗教と世俗化を問題視することに私は賛成できない。移民ムスリムにとって自分の日ごろのストレスを解消してくれるものがイスラームコミュニティであり、それがたまたまほかのコミュニティよりも宗教色を帯びているだけのことだと思う。
だが、ホスト社会はそのコミュニティを「たまたま」宗教色を帯びていたとみなさないで非難するので、ムスリムはよりいっそうコミュニティに所属することを求め、このことによってホスト社会が「たまたま」宗教色があったところを異物として原始的なものとしての宗教色が「内在的に非常に強い」と読み替えていく。
言い換えれば、イスラームコミュニティの宗教性を強めているのがホスト社会であり、そのホスト社会をムスリムにたいしてより排他的にしているのが皮肉にも同化しようとしないムスリム移民自身である。この相互作用にたとえばムスリムの日ごろ感じている不正やホスト社会の世俗性絶対視が加わることで堪忍袋の緒が切れるように思う。常に寛容を貫こうとしても限界というものがあり、そこに達した瞬間、怒りが爆発するのである。
問題がすでに寛容をさらに求めるべきことでなくなったので、対処方法も寛容になれというより、堪忍袋の緒を切る原因に対処すべきだと思う。それがムスリムの感じる不正を減らすことであるが(減らすといったのは不正を完全になくすことができないし、ムスリムが公平と思っても他者には不正と思えると考えたから)、経済格差や「テロとの戦争」を考えることが有効であるように思う。そのさい、非常に重要なことが、ムスリムは宗教性が強いというのではなく、集団帰属意識が強いと認識することである。宗教はその集団についたおまけにすぎないということである。イスラーム社会と西欧社会との共存を考える上で一番大事なのがそこにあるように思う。
※だが、たとえば「テロ戦争」をとれば、悪いのは一部の人間であって、ムスリム全体が悪いといっているのではないことを強調するべきだが、もっともこの戦争の性質がすでに「ムスリム」=「悪」というイメージを植え付け(というより、それをブッシュが「テロ戦争」の定義にしてしまった)、さらに欧米人の短絡的な思考(ムスリム=みんなテロリスト)や白人優位主義とあいまって事態をさらに悪くしている。
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現代のイスラム社会を見る視点が変ります。難しい内容を分かりやすく説明してあるので、学術的だけど読みやすい。