イスラーム戦争の時代: 暴力の連鎖をどう解くか (NHKブックス 1057)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140910573

作品紹介・あらすじ

二〇〇一年アメリカ、九・一一の悲劇-それは始まりでも終わりでもなかった。世界は新しい戦争の時代にはいった。文明間の衝突ではなく、個人対国家の戦いである。ヨーロッパとイスラーム各国でのフィールドワークを通し、ムスリム(イスラーム教徒)が直面する現実と広がる不満の裾野を描出する。テロに傾斜する不満の裾野をいかに崩すか。憎悪と暴力のスパイラルを止める鍵を、世界に向け提起。

感想・レビュー・書評

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  • 【内容/まとめ】
     筆者は欧米における近年(出版は2006年)の現状—イスラーム•フォビアが、もはやテロだけでなくイスラームそのものを敵視している、一段階対立の深刻度の増した状況と解している。筆者の認識では、過去二十年(とくに9・11以後)の不満や憤慨から、西欧近代文明の果実をとり、その制度を受け入れるふつうのムスリムにまで、イスラームが個人の心を超えて政治社会へ反映されるべきだとするイスラーム主義者の考えが広がっているとする。その内容として欧州各国におけるイスラームを巡る諍いやトルコの立ち位置などを通して、欧米(とくにヨーロッパ)の一貫性のなさ、移民政策の問題、植民地支配への反省のなさ、中東への軍事力の行使が問題を悪化させている現況と解している。
     筆者の認識で特有なのはイスラーム個人の意志に焦点を当てる点である。現在生じているのは文明(間)の衝突—イスラームとキリスト教の対立ではなく、「…西欧文明がもつ規範の体系と、イスラームの規範の体系とに大きな隔たりがあるために、双方の文明に属する人間どうしが対立」していると解した上で、ムスリム個人のの戦時意識の高まりからジハードの動きを説明する。イスラームはヒエラルキーを認めないために、本質的に法学者が出したフォトワーに絶対的に従う必要はなく、最終的には個人の判断で自らの義務を認識する。逆に言うと、それゆえ、もし彼らがイスラーム社会の不公正な現状どから、理念としてのイスラーム共同体が攻撃に晒されているとの認識を確かにしたのならば、ジハードによって共同体を守る事は、神に課された義務として絶対化される。理由無き殺人を禁じている個所とジハードを肯定する記述の比較考慮になり、個人としてジハードを優先すると、暴力の他に公正を回復する手段を認めない。そこでの犠牲はコラテラルダメージとして扱わる。そこから、筆者は、ムスリムを穏健派と過激派に分ける意味は無いと言い(p73)、今はジハードを認めない人が多いだけであるとする。さらに、「イスラームの教えは平和的であるからテロをするムスリムはイスラームの教えに反する」という説も退け、状況次第によって個人の自発的暴力が生じるとする—そのため組織も本質的に必要ないという。ひとたびジハードを認識すれば、公正が回復されない限り戦いをは絶対化し、神の課した義務であるゆえ、当人は責任を回避され、結果は神に「丸投げ」し、来世が確約される。
     イスラームが神の法である以上、人の定めた世俗の法との兼ね合いは、最終的には信徒各人が自分の信じる「正しい信仰」にしたがって判断することになる。そのため、イスラームとの共生は国家の枠組みではなく、非ムスリムがムスリムという人間存在の根本を知ることから始まる。

    【感想】
     イスラームを理解するための入門書だと感じる。欧米とムスリムとの摩擦からイスラームにおける規範、行動様式を簡単に説明している。本書では、個人の判断としてのムスリムの行動に重きが置かれている点が特徴である。スンナの場合、宗教上の階層が無いので、個の自発的判断から「正しい信仰」を選びとる。それがジハードだと認識した場合、それを暴力的行為で行なう場合にも来世は確約され、個人の責任は回避される。この議論には幾つかの疑問が生じる。まず一つに、ジハードは暴力的なものだけかということだ。共同対防衛は必ずしもハードな手段ではない、ソフトな戦いは存在しないのか?もしそうであるなら、なぜか。二つ目は個の主体性についてである。個人が信仰について「正しい」と感じれば、その結果を「神に丸投げ」出来、責任は問われないのでは個の主体性はなくなる。
     本書の主張、ムスリムを穏健派と過激派に分ける意味は無いという視点は大事である。普通、人間を「穏健な人間」「過激な人間」とい風に分けたりはしない。ムスリム過激派という言葉自体、便宜上のものであるが、その便宜を得る主体のイスラームへの価値判断が含まれている事に自覚的であるべきだ。人間はそもそも善悪の両方を抱え込んだ存在である以上、安易な言葉のチョイスで分かった気にならないことが大事だと感じる。

  • ムスリムは1つの共同体。人種、民族、所属する国家を超えて1つの共同体を構成するという意識を持っている。この共同体のことをウンマという、人種や民族が異なっていても信仰のうえではアラーへの絶対的な帰依がムスリムたる条件である。
    法制度において西洋とイスラムでは異なる。
    オランダはムスリムに寛容的である。
    アメリカには文明の衝突を引き起こす軍事力はあっても支配を実現するための経験と論理がない。一方、国家理念への執拗なこだわりや国民国家の原則を堅持する欧州諸国はより深い部分での衝突をイスラムとのあいだにもたらす。
    西欧が作り出した人の法とが支配する国家、イスラムが作り出した神の法が支配するムスリムの両者が原理的に整合しないことは明らか。

  • 大変勉強になった。とてもわかりやすい。

  • ムスリムはなぜテロに走るのか。そこには不公正の現状があり、ジハードという思想があるからだと著者は述べている。そして不公正はイスラームの外部者によって作られ、経済的文化的差別やダブルスタンダード、「テロとの戦い」といったものだ。ところで、イスラーム教を信じるものはすべてテロに訴えるかといえば、著者はそうではなく、信者個人の問題だという。一方、不公正が深まり、さらにイスラーム主義者の訴えに同意するものが増えればテロに走るものも多くなるという。そこで著者は不公正を見つめ、それをなくすことから暴力の連鎖を断ち切ろうとし、そのために寛容あるいは不干渉になるべきだと述べた。
     ムスリムも西洋人もみんながみんな著者の言うような寛容さになれれば問題は起こらない。だが現実としてそれができないから文化間のいざこざからテロなどまで至るのだと思う。著者がイスラームの価値観を認め、受け入れがたいものには距離を置くよう述べている。私個人としてはこの考えは非常に有意義だと思うし、それによって多文化共存もできると思う。だが、現実的にはそう簡単にいかないのだ。寛容といっても著書にあるような日本語的感覚から西洋的な不干渉まである。いちばん低いレベルあるいは無慈悲ともいえるのが不干渉レベルだと思う。だが、現実の問題は不干渉してもよい部分(ムスリム個人がハラール食品しか食べないなど)と、イスラームの行為が非ムスリムのアイデンティティ(あるいは利益)までかかわる部分とがあるように思う。後者はフランスで言えば第二の国是ともいえる世俗化(とりわけ公教育と宗教)などである。
     だが、そもそもの問題発起は寛容しないことではなく、ある日突然なにかのはずみで琴線にふれ、不干渉してもよかったことがよくなくなるところにあると思う。オランダやフランスの例がそうである。フランスは宗教的コミュニティの形成を認めてないところに、宗教的集団意識の非常に高いムスリムが大量に入り込み、対立の元となった。今のムスリムと西欧との根本的な対立源は、移民が自発的に同化することができず、しかも自分たちの風習に則って生きようとするところとそれを促進させているものが社会構造のなかの差別であり、差別されるから余計自分の所属集団に意識が向くのだと思う。この2つが相互作用することでさらに移民とホスト社会のなかで分裂が深まり、やがてはジハードのもとを作り出すのである。
     ところが、差別はどこから生まれるかといえば、この場合は白人優位主義とも大きくかかわるが、それ以外に同化しようとしない(というより郷に入っても郷に従おうとしないこと)移民に対する苛立ちにもある。個人的に後者のほうが大きい気がする。欧米人の肩を持つつもりはまったくないが、移民自体ホスト社会にとって一種の異物であり、その異物がホスト社会に好意的であればホスト社会は積極的になるだろうし、ホスト社会にいながらかれらの価値観を受け入れたがらないとなれば、ホスト社会も嫌がるだろう。ちょうど人体に栄養となる食べ物が入ってくるかそれ以外のものが入ってくるかのようである。
     一方、ホスト社会にも問題がある。移民は自分の価値観とはまったく別の価値観の世界に入るのであるから、それなりにストレスも抱えている。そのストレスを一時も解消してくれるのが自文化集団なのである。だからこそ移民はホスト社会において個々のコミュニティを形成するのである。ただ、ムスリムにおいてこのコミュニティの特色がほかのコミュニティよりも宗教色を帯びているから、世俗化したホスト社会には受け入れがたくなっている。しかしながら、宗教と世俗化を問題視することに私は賛成できない。移民ムスリムにとって自分の日ごろのストレスを解消してくれるものがイスラームコミュニティであり、それがたまたまほかのコミュニティよりも宗教色を帯びているだけのことだと思う。
     だが、ホスト社会はそのコミュニティを「たまたま」宗教色を帯びていたとみなさないで非難するので、ムスリムはよりいっそうコミュニティに所属することを求め、このことによってホスト社会が「たまたま」宗教色があったところを異物として原始的なものとしての宗教色が「内在的に非常に強い」と読み替えていく。
    言い換えれば、イスラームコミュニティの宗教性を強めているのがホスト社会であり、そのホスト社会をムスリムにたいしてより排他的にしているのが皮肉にも同化しようとしないムスリム移民自身である。この相互作用にたとえばムスリムの日ごろ感じている不正やホスト社会の世俗性絶対視が加わることで堪忍袋の緒が切れるように思う。常に寛容を貫こうとしても限界というものがあり、そこに達した瞬間、怒りが爆発するのである。
    問題がすでに寛容をさらに求めるべきことでなくなったので、対処方法も寛容になれというより、堪忍袋の緒を切る原因に対処すべきだと思う。それがムスリムの感じる不正を減らすことであるが(減らすといったのは不正を完全になくすことができないし、ムスリムが公平と思っても他者には不正と思えると考えたから)、経済格差や「テロとの戦争」を考えることが有効であるように思う。そのさい、非常に重要なことが、ムスリムは宗教性が強いというのではなく、集団帰属意識が強いと認識することである。宗教はその集団についたおまけにすぎないということである。イスラーム社会と西欧社会との共存を考える上で一番大事なのがそこにあるように思う。

    ※だが、たとえば「テロ戦争」をとれば、悪いのは一部の人間であって、ムスリム全体が悪いといっているのではないことを強調するべきだが、もっともこの戦争の性質がすでに「ムスリム」=「悪」というイメージを植え付け(というより、それをブッシュが「テロ戦争」の定義にしてしまった)、さらに欧米人の短絡的な思考(ムスリム=みんなテロリスト)や白人優位主義とあいまって事態をさらに悪くしている。

  • 現代のイスラム社会を見る視点が変ります。難しい内容を分かりやすく説明してあるので、学術的だけど読みやすい。

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著者プロフィール

1956年東京都生まれ。東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学文科卒業。社会学博士。専門は多文化共生論、現代イスラム地域研究。一橋大学教授を経て、同支社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。著書に『イスラームから世界を見る』(ちくまプリマー新書)『となりのイスラム』(ミシマ社)『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと?』(集英社)ほか多数。

「2022年 『トルコから世界を見る』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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