[内容]
ユビキタスな社会は、個人にあわせて環境を最適化する。たとえばamazonのリコメンド機能は、ユーザーの購買履歴などから、システムが「わたし」に先取りして「おすすめ」の本やCDを判断し、提示してくれる。このとき問題になるのは、購買履歴やポイント履歴など、バーチャルに偏在する「わたしを表現するデータ」が、あらゆる場所で「わたしより先にわたしを代弁してしまう事態」が起きつつある、ということである。可能な選択肢がシステムによって狭められ、しかもそのことに気づかないまま、その生を生きさせられる。筆者は、このような「システムによって自分に与えられた可能性以外の未来を選択できなくなること」を「宿命」と呼ぶ。「宿命」にいろどられた<偏在するわたし>をどう生きるか。「宿命」の外側の未来を選択することは可能なのか。この本で扱われるのはこのような問いである。
情報化による宿命論の前景化は、民主主義そのものを掘り崩しかねない。環境が個人それぞれに最適化された社会では、人々の関心がタコツボ化し、共同性の構築は困難になる。この困難に際してうまれる、「民主的な社会を維持するため、人々に民主主義を強制するアーキテクチャを設計すべき」という議論は、民主主義をめぐるパラドックス「民主主義は民主的に生まれるか」という問題にぶつかる。
筆者は、情報社会の民主主義として、二つのパターンを考える。ひとつは、「民主的な意志をもつことを強制するシステム」である「工学的民主主義」と呼ばれるもの。もうひとつは、「各人が民主的な意志を持たず自らの関心にもとづいて利己的に行動したとしても、結果として他の人々に役立ち制度維持に貢献するシステム」であり、「数学的民主主義」と呼ばれるもの。「工学的民主主義」は、人々に対して共通の認識枠組み・共通の現実を生きることを強制しなければ成立しない。一方、「数学的民主主義」では、各人ばらばらの<現実>を生きていても社会が破綻しない設計である。
たしかに、「数学的民主主義」は、「人々が何を望みどのような決定を下すべきか」を判断するアーキテクチャ作動である。しかし脳科学の知見からいって、人々の意志や「その人が幸福と感じるようにすること」をコントロールしたりあらかじめ決定することはできない。つまり、「人々がどのような社会を生き、なにを望ましいと判断しているか」、という価値自体を形成するのは、アーキテクチャではなく社会(現実)であると筆者は考える。したがって、「数学的民主主義」が生み出す「夢みる繭」は、人が現実に失望したり希望をいだいたりすることで現れる、現実の反照たる「夢のセカイ」にしかすぎない。
この「数学的民主主義」の議論からわかることは、amazonのような選択肢を本人の判断より先取りして提示するシステムは、個人の振る舞いや志向を自動的に収集して導き出すものにすぎず、何かを命じているわけではない、ということである。
筆者は、「宿命」とは「わたしたちが私たちに見せている夢」であり、それを生み出す「物事との関わり方」によって書き換えられていく可能性があると主張する。たとえば、オタクの二次創作製作が、販売をつうじて公共性へと至る可能性を有しているように、自分だけの内閉したセカイを作るためにも、セカイの外側を生きる他者との関わりが求められることがある。そのような契機によって、人々は「宿命」を「自分では選べないが、生きることのできる<宿命>」として受け容れることができるだろう、とのことである。
[総評]
ハードな思想系・社会理論の文献から漫画やラノベまで、ジャンルレスに参照しながら、考察をすすめている。後半部のラノベや村上春樹の小説の引用は消化不良の感もあるが、全体として読みやすく、読者を飽きさせない。
しかし、七章の「「夢みる繭」は可能か」から、議論がややこしくなる。
たしかにシステムが提示する選択肢は個人の振る舞いを収集・分析して導き出したものに過ぎず、それらへの関わり方によって選択肢は「変わる」可能性があるという主張は、仕組みとしてはその通りといえる。しかしそのような「関わり方」を「変える」ことはいかに可能なのか。
本書では、ユビキタス社会に偏在するバーチャルな<わたし>という宿命的な自己を、いかに引き受け生きることができるか、あるいはいかにその宿命の外部に出るか、という問いを考察するうちに、私的関心に閉じこもった人々の内閉世界(<現実>)がいかに他者に開かれていくか、という問い(社会問題)に答えることでその解を求めるようになっている。
本書では、以下の問題があらわれている。
①システムが判断を先取りし、狭められた選択肢だけが個人に提示されることで、知らないうちに個人が別の可能性から排除されているような、情報社会の問題。
②個別化した情報環境によって人々の現実がタコツボ化し、現実にたいして共通枠組みが失われた社会では、従来の政治空間が困難になるという問題。
筆者は、個人の内閉的なセカイ(<現実>)が、承認欲求が元手となって、セカイの外側にいる他者に出会い、変容していく可能性に賭けている。この承認欲求をテコにした解は、②に対応する。すなわち、他者との出会いや公共空間における契機によって、①の問題、システムが提示する選択肢も変わっていく可能性があるだろうとのことである。
しかし②の問題は、次の問題と複雑に絡み合っている。
③人々が自分の私的関心に満足し、他者や公共性を志向しないことで政治空間が成立しないという現代人の心性の問題。(そしてそのことが①のようなシステムを要求し維持しつづける。)
承認欲求に基づく公共性への接続という解は、人間の他者志向的な倫理に解決可能性を見出すものである。したがってこの解は「個人の承認欲求が『セカイの外側』に接続する経路はいかに取り結ばれるか」という、さらになる問いをひきつける。
たしかに、「自らの主張を他者に認めさせたい」と、異なる主張のブログを炎上させることは結局、別の主張を持つ他者との関わりをもつことと同じであり、場合によってはそのような関わりが、「わたし」を別の<現実>へと開いてくれる可能性をもつ。
しかし、そのような別の他者や<現実>に出会ってたとしても、それらが「わたし」に実存的に重要なものとアピールしてこなければ、「わたし」は元のタコツボ的セカイにとどまり続けるだろう。つまり、別の<現実>や他者が存在したとしても、そのことが「わたし」という実存にどれほど意味をもつのか、という点が問題になる。
したがって、「わたし」の「認められたい」という承認欲求が「自分とは異なるセカイに生きるあらゆる他者の承認を経て一般的に認められたい」という志向をもつものでない限り、承認欲求に賭けた他者への開かれは困難なのではないだろうか。