- Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166606238
感想・レビュー・書評
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何とはなく再び手に取りました、いつもの如くまったく覚えていませんでした。
二人の未来予測が当たっているのか否かは評価が分かれるところかもしれないが、独裁者なきロシアなどあろうはずがないって常識なのか、異常なのか、人間の住まう世界は色々ありまする。。。
そしてウクライナは自分のものだとの認識がロシアにあるという見解はどうやらはるか昔からの常識だったようですね。。。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
難しい…。ドストエフスキー論+神学論。
図書館で借りたとたんに戦争(ウクライナ侵攻)が始まった。
ロシア史がぜんぜん頭に入っていない状態で読むのはつらいものが。プーチンは2020あたりで失脚すると描いてあったが現実は違いましたね。
ウォッカをめちゃくちゃ飲む。ロシア人はキリストを「その辺の兄ちゃん」のように信仰している。
政治思想かあ。 -
理解の至らないところも多かったけれど、とても面白かった!霊性と魂との違い、頷く。タルコフスキーの捉え方、そうかと思う。物凄い情報量で、定期的に読み返したい。
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ソ連・ロシアの事情に通じた2人の対談は実に興味深い。それもドストエフスキー・カラマーゾフを巡っての会話は出色。「大審問官」の「キリスト」を亀山氏は「彼」としか訳さなかった。その意味合いが初めて解き明かされたように思った。そして大審問官の時代が15世紀とされていたのが、亀山氏の新訳により、宗教改革後の16世紀だということが分かったという佐藤氏の解釈に亀山氏が同意することには驚き・感心!ブレジネフ時代は西側のイメージは悪いが、庶民にとっては黄金時代だったという声を2人ともに感じているのは面白い。スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、プーチンなどの独裁を語った後にベルジャーエフがロシア人は黙示録的願望に囚われている「終わりの民」と語っていると亀山氏が語る部分にすごく説得力を感じる。
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最後まで二人の話がかみ合わないところが却って面白い。
ロシアを訪れたのはもう30年以上前になる。当時ペレストロイカが既に始まっていて、そんなに窮屈でもなければ、モノ不足でもなかったが、やはり”東側”独特の雰囲気があった。この本を読んでいて少しその雰囲気を思い出した。プーチンはまだKGBにいたが、当時すでにロシア人には嫌われていた。まさかその後大統領になるなんて思いもしなかった。
ドフトエフスキー(ロシア人はダスタイェーフスキと言っていた)は読んだことがなく、ロシアの歴史もほとんど知らないから、二人が話していることの半分も理解できない。もう少し勉強してみよう。 -
モスクワとペテルブルクの比較論が面白かった。モスクワは日本でいう京都的な位置付けにあるらしい。一方ペテルブルクは、西欧の文化を旺盛に取り込みながら変化するしごく人工性の強い街。
トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」でアンナは鉄道を使ってよく上の二つの都市を行き来していたが、あの空気感がすとんと腑に落ちた。つねに新しさにむかって開かれたフラジャイルな街、ペテルブルクであってこそ、アンナは死ななければならなかったのかもしれない。
(ついでにというと語弊があるけれど、追悼アンナ・カリーナ。ココ・シャネルがつけた芸名だったらしいけど、明らかに、アンナ・カレーニナ意識しまくり)
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亀山郁夫が、彼も自認しているとおりロマンティックがとまらなくてついていけないところがあった。この感じを恐れていたのが、ロシアに陵辱された小国チェコ。むしろそっちに共感。クンデラが批判していたのもまさにその点。
そっちは盛り上がっているかもしんないけど、てめえの不用意に発したおろかな理念の鼻息でさえ、うちの国を吹き飛ばしてしまう力があるんだよ。だから気をつけろよ。 -
2008年、プーチン・メドベーチェフ体制がスタートした年に出された、対談形式のロシア論の書。かなり難解。そもそも「カラマーゾフの兄弟」を始めとするドフトエフスキーの作品を読んでないと、内容についていけない。ロシア正教を巡る宗教論しかり。
ブレジネフ期の「腐臭」=貧しい平等=幸福のロシア的基準。ロシア人の精神性「ケノーシス」(謙譲、謙遜、自己犠牲、開き直り)、大審問官(民衆に平等を担保する強権政治)を望むロシア。う~ん、今一つピンとこない。ただ、日本人と相通じるメンタリティを持っていると言われれば、何となく分かるような気もする。もう少しロシアについて深く知りたくなった。 -
ロシア専門家の対談ゆえ、ロシアにある程度詳しくないとついていくことは難しいかもしれない。
私はついていけなかった。情けない・・・。
ただ、敬愛する米原万里女史が話題に上った部分は小躍りしながら読んだ。 -
『カラマーゾフの兄弟』の新訳で知られる亀山郁夫と、元外交官の思想家・佐藤優が、ロシアについて語っている本です。
亀山は、テクストのみに沈潜してきた文学研究者ではなく、現実のなかに現われるロシア文化の多極性に深い理解を示しています。他方の佐藤も、たんなる実務的な外交官ではなく、実地の経験を思想的な深みにまで掘り下げることのできる稀有な知性の持ち主です。そんなわけで、対談ではありますがけっして気軽に読み流せるような本ではなく、高度な内容が語られているように感じました。キリスト教やドストエフスキーの文学、それにロシアの文化と歴史にかんしてかなりの知識が要求される本で、理解できていない箇所も多く、読みなおす必要があるのですが、ロシアの政治と文化の複雑さについて興味をかき立てられました。
ドストエフスキーにかんしていえば、「大審問官」の物語詩を語り終えたイワンにアリョーシャがなにもいわずにキスをするシーンを、「おしゃべりはいらない」と口を封じ、あとは行動あるのみという、受肉を象徴的に示しているという佐藤の解釈がおもしろいと思いました。佐藤はこのことに関連して、チェコの進学者フロマートカの、ドストエフスキーは大審問官を肯定的にえがいているという解釈を紹介し、「アンチ・ヒューマニズム」としてのキリスト教から「ヒューマニズム」としてのマルクス主義への接続に触れ、ロシア正教における、神から人への「神人」の思想と、人から神への「人神」の思想の双方向性とのつながりを示唆しています。こうした佐藤の議論にも、ロシアという国の二極的で分裂的な性格を、かいま見ることができるように思います。
「神人」と「人神」というテーマに関しては、田辺元の哲学を継承した大島康正の思想との関連が自然に連想されます。佐藤はおそらくこの辺りの思想についても熟知しているはずだと思われますので、佐藤が大島の思想をどのように評価しているのか、意見を聞いてみたいところです。 -
仮説を極限まで検討していって、最後に決断した以上はここに欠けるというのは勇気がいること。面白いのは同じ仮設でも、研究面での新しい未来というか新機軸を開いてくれる仮説もあれば、本当に枝葉末節の部分にこだわっていて、無駄な時間を費やしている仮説も存在する。もし自分なりにの直観で新しい議論を呼び出せると確信した時は果敢に攻める。批判されてもいい。批判を恐れたら、学問に進歩は生まれない。
ソ連ではトイレットペーパーが年に2回10個しか買えなかった。それにロシア人は幸福感を感じていた。
ロシア人の意識では人工の都市ペテルブルグに対して、モスクワは古都。この辺の復興主義的新庄をうまく利用して、レーニンたちはモスクワをソ連の首都にした。
昔からロシアは文学中心主義の国。