知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと (文春新書 1247)
- 文藝春秋 (2020年1月20日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166612475
作品紹介・あらすじ
立花隆を要約するのは非常に困難である。まさに万夫不当にして前人未踏の仕事の山だからだ。時の最高権力者を退陣に追い込んだ74年の「田中角栄研究ーその金脈と人脈」は氏の業績の筆頭として常に語られるが、ほぼ同時進行していた『日本共産党の研究』で左翼陣営に与えた激震はそれ以上のものがある。『宇宙からの帰還』にはじまるサイエンスものでは、『サル学の現在』でサルと人間に細かく分け入り、『精神と物質 分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか』でノーベル賞科学者の利根川進に綿密な取材を施し、『脳死』では安易な脳死判定基準に鋭く切り込んだ。科学を立花ほど非科学者の下に届けてくれた書き手はいない。浩瀚な書物である『ロッキード裁判とその時代』『巨悪vs言論』『天皇と東大』『武満徹・音楽創造への旅』は余人の及ばない仕事であり、また旅を語っても、哲学、キリスト教、書物を論じても冠絶しておもしろい。立花隆はどのようにして出来上がったのか、そして何をしてきたのかーー。それに迫るべくして、彼の記憶の原初の北京時代から、悩み多き青春期、中東や地中海の旅に明け暮れた青年期、膀胱がんを罹患し、死がこわくなくなった現在までを縦横無尽に語りつくしたのが本書である。彼が成し遂げた広範な仕事の足跡をたどることは、同時代人として必須なのではないだろうか。
感想・レビュー・書評
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立花隆の〝語り下ろし自叙伝〟である。
編集者(?)のインタビューに答える形で、生い立ちから現在までがほぼ時系列順にたどられていく。
面白くて400ページ超を一気読み。
立花の旧著『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』(2007年)にも、これまでの仕事を概観するロングインタビューが収録されていた。
それは例の「ネコビル」(立花の仕事場)内部を立花と一緒に見て回り、膨大な蔵書を眺めながらそれらの本にまつわる仕事の思い出を聞いていく……というものだった。
このインタビューもかなり面白かったが、本書はそれを大幅に拡大した内容となっている。
『ぼくの血となり~』のインタビューに出てくる話も多いが、その場合にも本書のほうがより詳細に語られている。
今回は生い立ちからじっくり語られているから、立花の精神形成史が理解できるし、物書きになってからの記述は主要作品の「メイキングオブ」として読むこともできる。
田中角栄との攻防をめぐる裏話など、驚愕のエピソードもちりばめられている。
たとえば、豊田商事会長刺殺事件の主犯は田中角栄に心酔しており、事件のはるか前、角栄を批判した立花に恐喝まがいの電話をかけてきたそうだ。
また、立花が『日本共産党の研究』を書いていたころ、取材スタッフの中に共産党から送り込まれたスパイが一人いた(!)ことが、あとでわかったという。
……そのようなエピソードを知るだけでも面白い。
また、随所で立花がポロッと深い言葉を口にする。たとえば――。
《人間の知的な営みについてひとこといっておくと、人間はすべて実体験というものが先なんです。これは何だろうという驚きがまずあって、それを理解したいから、本を読んだり、考えたりするんです。これは外国文化だけの話ではありません。ひとつの文化体系を本で読むことだけで勉強しようとしても、基本的には無理なんです。それはとても勉強しきれるものではない。ある文化体系を理解しようと思ったら、そこに飛び込んでその中に身を置いてしまうしかないんですね。
理解とは、百科全書的な知識をただ自分の頭の中に移し替えて獲得できるという性格のものではないということです。自分の全存在をその中に置いたときに、はじめて見えてくるものがある。あるひとりの人が、ある具体的な人間存在として、あるときある場所で、ある具体的な世界を見ている。そういう具体的な事実関係抜きの認識なんてない》
この言葉に象徴されるような思索的深みもあり、読ませる本である。 -
一気に読んだ。
世界一周旅行を終えたような読後感。
(したことないけど.....笑)
元気が出る。
この世には、知らないことばかり。
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4月30日にNHKスペシャル「立花隆 最後の旅~知の巨人は何を遺したのか~」を見た。それは立花隆が死んで1年経ったドキュメントだった。最後の終い方には、立花隆らしいと思った。「本は全て古本屋へ。遺体はゴミとして捨ててくれ」ということだった。その中で、立花隆が「見当識」(自分たちは何者か。どこからきて、今どこにいて、どこへいくのか?)を持っていたという。知には限界がない。勉強が大好きで、自分のことは勉強屋さんだと思うという。宇宙と地球、人間とサル、精神と物質、生と死。常にその境界を追及していた。
人間はなんのために生きているのか?死ぬためだ。
死を迎えたときに。ありがとうと感謝が言えること。
がんの探求の中で、筑紫哲也が死んだときを回想する時に、立花隆が涙する。
死すべき運命を自覚する。いくつもの生命に支えられ、生命連環体であり、生命連続体という。
猫ビルの本棚の空っぽになったシーンに、何か無常なるものを感じた。いい番組だった。
立花隆の本は、『アポロ奇跡の生還』『宇宙からの帰還』『精神と物質』が好きだった。
最近立花隆の本を読んでいないなぁと思って、本書『知の旅は終わらない』を読んだ。
立花隆の自分史だった。その時々の中心的な出会いと自分の変化が客観的に見られていて興味がそそられ、一気に読むことができた。うーん。立花隆って、こんな奴だったのか。
立花隆は、猫ビルのうずたかく積まれた本の中に生息する人物というイメージが強い。
この本を読みながら、まさに知的好奇心が旺盛なこと、人が読まない本を読んでいる。語学も習得する努力をして、原文で読む。なるほど、思想があった本に接しているのだ。
長崎生まれ、小学1年生の時にはIQテストで1番となる。模擬試験では全国1位だったという。よくできた子だったんだ。それに実によく本を読んでいる。東大生の時に、原水爆反対の運動に参加し、ロンドンの「国際学生青年核軍縮会議」に、カンパを集めて参加して、ヨーロッパを半年めぐる。
学生の頃から、行動力があった。そして、お金がないので、美術館、博物館を見て回ったという。
共産党系の人が、ソ連の核兵器は平和のためにあると主張すると、反共産党系の人が、持つべきではないと激論になったという。「核抑止力」という問題は、その当時から論議していた。ある意味では、今回のロシアのウクライナ侵攻によって、核抑止力はいかにもインチキくさい。抜け駆けありの世界だった。やはり、核兵器廃絶が基本だと思う。
立花隆は、キリスト教が非常に複雑な背景があり、土着宗教であるという。そんなものかもしれない。日本の真言密教の護摩のような儀式もする。青春期に、世界を見て回理、話し合いをしたことが、思想的な重層性を作ったのだ。卒論は、メーヌ・ド・ビラン(1766〜1824)デカルトの「我思うゆえに我あり」を否定して、「我意欲すゆえに我あり」をとなえた人の研究。さすが!
それで、週刊文春の編集部に就職する。物書きの訓練を受けて、再び東大に学士入学をする。
『記号論理学』のヴィトケンシュタインに衝撃を受ける。
フリーのライターとして、記事を書く生活の中で、「田中角栄研究」が始まる。
その後の活躍は、大体見えていた。それにしても、香月泰男と武満徹に入れ込んでいたとはね。
この本を読みながら、その時代の中で表象した事件を追いながら、その底流を見つめようとする姿勢は、学ぶべきものがある。 -
読み・書き・話し・きく(聞く、聴く、訊く)という日常的なインプット、アウトプットスキルの全てが強靭的なレベルであるのはよくわかる。読み切り、書き切り、話し切り、きき切るとはどういうことかが尋常ではない迫力をもって伝わる。だからこれまでずっとファンだった。これらのスキルを扱うにあたり、事実と論理で本質に迫る態度が根底にあるのも感じる。これにも今まであこがれがあった。
だけれどもこれだけ勉強した方でも読み・書き・話し・きくを「詰め切る」レベルまでにしか押し上げられていないのだなあと感じた。21世紀以降は読み・書き・話し・きくを統合しバージョンアップさせた新たな認知の道筋があるように思うのだよなあ。サイエンスのアプローチの先にあるスピリチュアルなアプローチがあるのではないかなあと。 -
著者が大学生の時、33時間かけて飛行機でヨーロッパを訪問して半年間各国を見聞する。
「ヨーロッパで様々の人に会って会話を交わすうちに、おかしいのは日本の学生運動の方だと気づく。世界が見えてないし、歴史がみえてないのは日本の学生運動の方だと思うようになった。それは学生運動に限ったことではなくて、日本の社会全体、日本人全体がどうなのだと言うことがわかってきたのです。」
今も余りこの状況は変わっていない良いに思う。
極東の島国に平和に暮らす我々の状況がこうであえうことを常に認識しておかないといけないのだろう。 -
立花隆氏の本って初めて読んだけど何て言うかすごい読みやすいな。お茶漬けでサラサラご飯をかき込むような感覚。いくらでも読める。超難解で取っ付き難いイメージがあっただけにかなり意外。
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京都府立大学附属図書館OPAC↓
https://opacs.pref.kyoto.lg.jp/opac/volume/1266281?locate=ja&target=l? -
作品紹介の通り立花隆の全貌がこれ1冊で理解できる。多分 再読する。