- Amazon.co.jp ・本 (267ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167207014
作品紹介・あらすじ
郷里・紀州を舞台に、逃れがたい血のしがらみに閉じ込められた一人の青年の、癒せぬ渇望、愛と憎しみを鮮烈な文体で描いた芥川賞受賞作。「黄金比の朝」「火宅」「浄徳寺ツアー」「岬」収録。
感想・レビュー・書評
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とても複雑な血縁関係。どれも中上さん自身をモデルにされているらしく、母親が複数回結婚している人で、母親と初めの夫との間に出来た姉、兄、母親の今の夫の連れ子であった血の繋がらない兄がいる。そして主人公自身は母親と“あの男”と呼ばれている悪名高い男との間の子で、主人公には腹違いの同い年の異母妹が二人いる。母親は主人公がお腹にいる時にそのことを知り、その男とは別れ、しばらくひとりで行商をして四人の子供を育てたが、男手一人で男の子を育てていた今の夫と出会い、まだ小さかった主人公だけを連れて再婚した(四話ともどれも同じような血縁関係なのですが、「岬」に焦点を当てて書きます)。
この親族関係がドロドロの濃い関係で…。母親との血でしか繋がっていない姉達との憐憫を伴った絆。優しかったが、主人公だけを連れて再婚した母親と主人公を憎み、何回も母親と主人公を「殺してやる」と包丁で脅した挙句、首吊り自殺をした兄。全く血は繋がっていない、今の戸籍上の兄との絆。優しかったが、亡くなってしまった母親の最初の夫(姉達の父)の思い出。アル中である叔父(姉達の父の弟)。
一族は土方仕事の請負業者をしていて、汗と土にまみれた厳しい仕事である。仕事をしながら、仕事終わりの酒盛りをしながら、下ネタだらけの会話が飛び交う。主人公自身はそういう会話には極力加わらず、性に合った土方仕事に黙々と励んでいる。主人公の本当の父親は、地元の地主たちから山林を巻き上げた成金で悪い噂が絶えないが、それでもその息子である彼のことを親族たちは結構可愛がっている。けれど、主人公はいつもどこか居心地悪く感じている。「俺には“あの男”の血が半分入っている」ということを拭いたくて仕方ないのに、“あの男”との類似点ばかりを意識してしまう。そして、娼婦をしているという異母妹に「会ってみたい」という衝動にも駆られる。
逞しい母親を中心としたどちらかというと女系家族だからか、求心力は強く、例えば母親の初めの夫の法事に対する母親や姉たちの思いれとか、そこに直接繋がりはないのに協力してくれる義父や姉達の夫の懐の深さとか感じられるのだが、みんな根が弱いのか、お酒が入ると、親族を刺し殺してしまったり、法事の場で暴れ回ったり、自殺騒動を起こしたりというどうしようもないドロンドロンの世界。
最近読んだ、川上未映子さんの「夏物語」には、「父親が誰でも関係ない。育てるのは女なんや。」というようなセリフが出てきたり、どうしても自分の子供が欲しいから匿名の男性の精子提供を受けたりする女性の正当性?のようなことが書かれていた。また、逆に非配偶者間人工授精を秘密にして出産し世間体を保っている事例も書かれていた。しかし、中上さんの作品のこの小説を読むと、いやいや人が生まれて、生きて死ぬということは血なまぐさいことなんだ。どんな父親であっても「知らなくていい」ということはないんだ。たとえそのことでどうしようもなく傷ついたとしてもその事実と一緒に生きていかなくてはならないんだと思った。また、こういう問題は男性視点で書くのと女性視点で書くのとでは全然違うのだとも思った。
脱線するが、やはり文学って人間にとって必要だと思う。例えば出生の問題でいうと自然科学が進歩し非配偶者間人工授精が可能になったことで、恩恵を受けた人も沢山いるが、その手段を利用することが時と場合により正しいのか正しくないのか白黒つけるのが社会科学である。だけど、“自然科学”にも“社会科学”にも救われない人間の気持ちというのがある。文学はそれを“救う”とまでは簡単には言えないけれど、進歩し続ける文明の中で置いてけぼりにされる人間の心に寄り添うために“言葉”を使う立派な人文学だと思う。
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私が近所の図書館(再開されました)で借りた本は、ハードカバー版なのですが、ブクログで見付けられなかったので、文庫版で登録しました。
文藝春秋(0093-303612-7384)
1985年7月15日 第16刷の版です。
収録作品は、「黄金比の朝」、「火宅」、「浄徳寺ツアー」、「岬」で、一応文庫版と同じように思います。
中上健次さんのことは知らなかったのですが、芥川賞を受賞した、「宇佐見りん」さんの好きな作品のひとつに、「岬」があるのを見て、興味を持ちました。
ただ、私が読んだ作品は「かか」のみで、「推し、燃ゆ」は未読ですので、あしからず。
「かか」もそうでしたが、この作品で印象的だったのは、家族がもたらす、切っても切れないような関係による悲喜劇や、濃厚さを感じるくらいに付き纏ってくる血縁の存在感です。
特に、表題作の「岬」が圧巻で、主人公の「秋幸」には何人かの兄や姉がいるが、それぞれと母親は一緒だが、父親は異なる。そして、その父親は非道い男で、兄は姉の一人「美恵」が住む家で自殺し、美恵は父親と兄を失ったことを自らの罪であるかのように、悩み苦しみ、母親からの愛情をあまり受けられなかったと思っていることも、それに拍車をかけていて、次第に病んでいく姿が痛々しく感じられました。
そんな美恵を見て、秋幸もまた悩み苦しみ、最初は、なんで既にこの世にいない父や兄に、現在生きている美恵の人生が左右されてしまうのかと思っていたが、それは視点の違いで、美恵からすれば、美恵だけの思い出があって、更には、母が秋幸だけと同じ家で暮らしたことによる兄の怒りが、自らに帰してしまった悲劇を、今も生き続ける姉の美恵が背負うのは、それこそ強迫観念ではなく、血を分けた家族だから当然そうするのだということを、誰が止められようか。
そこに、兄と美恵、秋幸との間には、父親が違うという(今だったら、もう少し柔軟で多様な考え方も出来るかもしれないが)、確かな流れている血の違いを思い知らされて、秋幸自身は、自分の人生が突然楽しくなくなったのも、美恵のせいではなく、ろくでなしの父親のせいだと、矛先を変えていく。
やはり家族の中の、血の繋がる、繋がらないという様々な血縁関係は、かけがえのない大切なものであると同時に、恐ろしさもあるし、悲しみも生まれうるということには、やるせないものも感じましたが、それだけしっかり向き合うべきものなのかもしれない。
他の作品も含めて、すごく家族間としての人物描写に繊細かつリアルで、情感強いものを感じました。 -
(引用)
彼は、一人残っていた。腹立たしかった。外へ出た。いったい、どこからネジが逆にまわってしまったのだろう、と思った。夜、眠り、日と共に起きて、働きに行く。そのリズムが、いつのまにか、乱れてしまっていた。自分が乱したのではなく、人が乱したのだった。ことごとく、狂っていると思った。死んだ者は、死んだ者だった。生きている者は、生きている者だった。一体、死んだ父さんがなんだと言うのだ、死んだ兄がなんだと言うのだ。
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とことん下へ下へと潜っていくような気分。いろんなことが乱れたように事あるごとに思ってしまうのは、自分のせいであることを認める勇気がどこかのタイミングで必要だと思う。 -
子供の頃から、30年以上。
本屋さんで見て知っていて。いつかは読もう、と思いながら。
あんまり暗くて重そうで敬遠していた中上健次さん。記念すべき初の中上さんは、やはり読書会がきっかけでした。ありがたいです。
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黄金比の朝
火宅
浄徳寺ツアー
岬
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の、四編が収録されています。
1970年代前半に書かれた小説だ、という以外は、何の予備知識も無しで読みました。
読書会に挙げてくれた人が「暗いですよ、暗いですよ、暗いですよ」と予め警告してくれていたんですが。
読んでみると。
暗い。
重い。
救いがない。
強烈でした。小説としての、なんというか、ヘビー級なパンチ力はすごいですね。多少外れても、一発入ったらもう立ち上がれません。
中上さんの他の小説はわかりませんが。
この本に収録されている四編は、まあ大まかに言うと似ている話です。
紀州。和歌山県。
の、山深き田舎町。親の代から、まあかなり貧しい家です。その上、昭和戦前から戦後くらいの地方って、(地方都市、ではありません。地方、です)良いとか悪いとかじゃなくて、そういうものなんだよなあ、というどろどろに満ちています。
具体的には。
母が数度結婚した人で。
主人公=中上さんには、腹違いや種違いの兄弟姉妹がいっぱいいます。
そして、遺伝子上の父はいるけれど、母と婚姻関係にはない。
男たちは無教養で粗暴で暴力をふるい、酒を飲む。女たちはそれに耐え、罵倒するか罵倒される。
仕事は土方が多い。
将来に明るい希望はあまりない。
だから酒を飲むし、だから荒れる。
そしてそういったことが全て、生まれながらに与えられてしまっているんですね。
これはえらいこっちゃです。
こんなこと言っちゃなんですが、僕も親戚縁者血縁の中に、当たらずといえども遠からずな、一族が地方にいるので、なんとなくわかります。
そして小説の世界では。
そんな状況、そんな血の繋がりがある一方で。
そうじゃない世界がある。
そうじゃなさそうな世界、というか。
戦後25年とかを経て。オリンピックも経て。まさにこの、「岬」の世界から遠ざかって、知らないふりをして都会でキレイゴトに暮らし始める。そんな、なんだか激変、身分、勝ち組負け組、摩擦ときしみ。
考えたら僕自身は、彼らの子供の世代です。
僕たちはどこから来たのか。
そういう普遍性があるから、重いし暗いし切ないし娯楽性も無いし、だけど、やっぱり面白い。
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読んでからちょっと調べたんですが、中上健次さんの血統が、いわゆる被差別部落なんですね。
なんともやりきれない、なんだか投げやりな人生という肌触り。根本的な、本質的な、圧倒的な、理不尽や怒りや、暴力やセックスという剥き出しな体臭が、覆い隠す余裕や品性やカッコつけを超えて。怖いもの見たさを超えて。
うーん。山羊料理とか食べちゃった気分ですね。
ちょっと味がすごいんですけど、これは多分、美味しい。
僕たちはこうであってはいけないのだけど、それは僕たちが生まれながらに何割か、こうだからなんですね。
そして、そうでないというのは、そうでないのではなくて、そうでないふりをして居られているという幸運だけなのかもしれない。
そして、その醜悪さと悲しみを見据えた先じゃないと、キレイでも幸せでも、しょせんはツルツルしてるだけなのかもしれませんね。
なんて思ったりして。
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黄金比の朝===
東京、貧乏な大学生と浪人生。鬱屈して面白くない日々。学生運動に入れあげてしまって、大人ぶる種違いの兄。
反発。
どうにも饐えた、やり場のない10代の腐った感じがよく出ています。なんという不毛、そしてなんという純粋。
身内を探している、知恵遅れっぽい娼婦のエピソードが、やりきれないくらい空気感を作っています。
なんというか、初期大江健三郎さんっぽさが満ちています。
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火宅===
黄金比の朝 の主人公が大人になると。家庭を持つとどうなるのか。
要するに、酒を飲んでむちゃくちゃになって、妻子に恐ろしい暴力を振るう男のお話です。
暴力性というのを、加害者の側から描いた感じ。
主人公の男は当然紀州出身で、前述のようなどろどろの家庭の出です。
そしてその出自が、東京でサラリーマンをしていて家庭をもっていても、主人公を精神的に支配しています。哀しい、なぞというよりも、加害される側のことを考えるとそれどこじゃないんですけれど。
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浄徳寺ツアー===
いつもの主人公は、今度は2流の旅行代理店社員。地方の現実に向き合うような、ストリップとか地元のヤクザにおもねるような、泥水仕事。
妻がいてもうすぐ子供が生まれるのだけど、粗暴で浮気している。
その主人公が浮気相手の女と、とある田舎の寺のツアーを企画実行する。もう全般的にため息がでるような、救いのなさと品のなさ。なんでそうなのか。でも、そうじゃなかったら、じゃあ一体どうなんだ。そこで上品にして、どういう救いがあるんだろうか。
嫌がる浮気相手ととにかくHしようとする男の浅ましさが、実になんとも触覚的なまでになまなましくて、なんでこんなにひどい話なのに哀しくなるんだろう。
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岬===
いつもの主人公は今度は10代で、地元の岬の村に家族といる。
土方をやっている。
実の父がいるが、他人のように暮らす。
つまらない刃傷沙汰。人の噂。偏見。アル中の厄介な親戚。腹違いの妹かも知れない娼婦。気が触れる姉。
なんとも切なくドラマチックで、骨太で強固な小説。
どれか1編、ということなら、まずこれで。-
岬の主人公は10代ではない。兄が自殺した年齢と同じ24歳という設定。「(兄は)ぷっつり死んだ。それからちょうど12年目だった。彼は、24歳に...岬の主人公は10代ではない。兄が自殺した年齢と同じ24歳という設定。「(兄は)ぷっつり死んだ。それからちょうど12年目だった。彼は、24歳になった。兄が死んだ年に生まれた姉の男の子は、12歳になった。なにかが大きく変った。そしてなにかが、12年前の元にもどった。」文春文庫P2072018/05/12
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いわゆる「紀州サーガ」二冊目にあたる「枯木灘」を先に読んだ。「岬」が一冊目。
「引用」に移した文章は本編ではなく後記のもの。
作者は紀州の路地に住む一族の複雑な血縁を形を変え目線を変え書いているけれど、吹きこぼれるように表現したい自分の世界があるのですね。
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予備校に通う主人公の下宿に転がり込んできた右翼活動者の兄、主人公の友人、彼らが妹を探す娼婦と関わることになった一日。
/黄金比の朝
「枯木灘」と家族関係はほぼ同じ。
枯木灘で秋幸にあたる人物の兄の幼少時代から始まる。兄が引き入れた「男」が母を孕ませ、長じて母に捨てられたと兄は自殺する。
主人公の鬱屈も激しく、父を憎み想い飲んで暴れて妻を殴る。
/火宅
主人公は旅行の案内人。妻は出産を迎えている。何度も降ろさせた。今回のツアーはお寺の檀家ご一同。死の近い老人、白痴娘、旅行の話思ってきた彼の愛人。
/「浄徳寺ツアー」
紀州の山に囲まれた路地は火付けと殺人が盛な土地。
主人公はその鬱憤を異母妹と思われる娼婦と関係することで晴らそうとする。
/「岬」 -
『黄金比の朝』
“心を研ぐ”ここでは、心を研がれる。そんな言葉がピッタリの小説だ。
わたし、という存在をみんなどうやって定義づけていくのか。それは、一人称で描写される物語を読むときの命題で、一人称で生きる全てのひとの生の命題だと思う。“自分探し”はもう死語になってしまったか、古くて気恥ずかしい手垢にまみれた言葉で片付けられてしまっているかもしれないけれど、どんな言葉で言い換えようとも、結局のところは、生きている限り、“自分探し”を続けることになるんじゃないか。と思う。
その過程には、原体験が伴う。
わたしをわたし足らしめている人間関係、風景、世界との結びつき、それら過去。
宇宙みたいだな。と思う。
そこでは、幾人かの、自分にとって、意味を持つ人が住んでいて、サッカーボールとかドレスとか、ペットの犬とか、札束とか、気になっている人とか、ノート何かが、ほんと出鱈目なサイズで同居していることになる。眼には見えないけれど、それでも確固として存在し、わたしたちに影響を与えているもの。
それもわたしたちの内側で。
ハリケーンみたいだな、と思う。台風ではなくて。窓ガラスを揺らして、窓に雨を叩きつけるこじんまりとした台風ではなく、牛とか、コンバインとか、家とかが等しく巻き上げられている、あのハリケーン。
血こそ流れはしないけれど、鋭い痛み、傷のない痛みにさらされながら、そこを多くのおとなが潜り抜けていったんだろう。
“まじめに、まともに生きるってこと”
それが“ぼく”の世界での金科玉条だ。
そのことが、その他大勢と“ぼく”とに一線を画している、決定的な違いだ。
一般的な同年代が「女、車、麻雀、競馬、ホットロック、オートバイ」に熱中しているなか、予備校と夜勤のバイトとに打ち込む。
部屋が美しい。チェゲバラのポスターに、カーテンのない窓、机、布団、勉強道具、公休の印が付いているカレンダー。“必要なもの”以外は何もない。その部屋はどこか“ぼく”の剝き出しの魂を象徴しているように思わせる。
計算までもが、びっしりと活字のように記されているノートも、おそらくは一張羅のジャンパーのポケットに入っている英単語の単語帳も。潔癖で、余計なもの一切をこそぎ落としたような無垢な魂。
わたしは「あ、羨ましいな」と思ってしまった。そんな言葉が浮かぶということは、詰まるところ、「甘え」ているような気がするから。世俗的なものに対する鬱陶しさと、それを感じながらそこに縋り、依存しながら生活している自分への嫌悪を誘われる。言い訳がましい、日々の生活にだ。生温い湯船に浸かりながら、冬の真水へと飛び込んでいけたらどれだけいいかと嘯いているようなものだ。
どこにこれほどまでの、鮮烈さがあるのだろうと思う。言うなれば、孤独で、単調で、削りたての鉛筆の芯の先のような生活を支える心は、どこにあるのだろう。どこから噴き出してくるのだろう。
自分にべったりと取りついてしまって離れない“余計”、皮膚に癒着してしまった、それらを、無理に削れば血が噴き出すと分かっていて、それでも彼を知ってしまった以上、そうせざるを得ない。
それほど、心を捉えられた潔癖さだった。
媚びるところも、寄りかかるわけでもない、完全調和。
そんな精神性に憧れる。
そこへ闖入者が突如として舞い込む。
それが“兄”だ。“兄”は希望だったが、もうただの兄になっている。弟である“ぼく”の人生の途上で、いつも背中を見せ、その先を歩いていた兄が、いまやその一直線に続くはずの道から転がり落ちて、革命を志す怪しげな活動家になっている。兄には失望している。それで兄を否定否定せざるを得ない。愛しているからこそ、他人ではないからこそ、否定せざるを得ない。
が、“ぼく”にとって、兄はこの世界で甘えることのできる唯一の存在になっている。
母親から泣きごとを言われて、母親の苦しみに触れ、目の当たりにしてきた子どもは、謂わば、甘えることを拒否され、拒絶され、歪な感情を母親に抱いていく。そんな経験をした人には、執拗に女を憎み、その内に女を求める気持ちを発見しては嫌悪するんじゃないかと思う。
“ぼく”が目の当たりにしたのは、やとなとして、売春婦として、女を鬻ぐひとりの女が母親であったという現実だった。汚らわしい、汚らしい、といくら心で罵っても、その母親の手によって、今の生を支えられたというのが、彼の存在に関わる矛盾になってしまって、どうしようもなく絡みついてしまっていた。彼は身の引き裂かれるような、自己否定をせずにはいられない。「女なんて死ねばいい」と、性的な一切を自分に禁じ、女を憎んでいる背景には、母親への、悲哀にとってかわった憎しみが潜んでいる。女に絶望している彼は、同じ分だけ自分にも絶望している。だから「まっとうな」人間になりたい。それは、女を必要とせずとも生きていける、性に左右されることなく歩いていける無性的な、石ころや木のような無機質な強さを欲して止まないのだろう。
わたしは、にこやかに、異性とチャラ付いている人間を見ると、やっぱり虫唾が走る。それは妬みでも僻みでもない。本質的な嫌悪だ。この気持ち悪さは何なのだろう。性蔑視ではない。性欲に突き動かされる男に醜さを感じ、そんな醜い男の性欲を欲する女の性欲というものも、同じように醜く目に映るのかもしれない。なんだ、この慰め合いは、なんだ、この茶番はと思う。
毎日、決まった時間に、三時間もお経を唱える、人間的な行為を伝える、松根善次郎・喘ぎ声をぼくの部屋まで響かせる性の営みを伝える鉄工所の女房、「この世は地獄ですよ」と独り身の寂寞を伝える管理人の堀内みきと、惰性の権化のような三浪の斉藤・女・兄のいる現実とその風景から、無数の生の側面を眺める構図がいい。
それで、劇的な展開がないのもいい。最後、鏡に向かって挙手し、鏡に映った自分を肯定できた彼は、なんだろうか、兄の言葉、「テロってやれ、革命してやれ」に背中を押されたように見える。事実、彼の内面は、世界を睨み付け、だが、武器を持っていない、中途半端なテロリストのようなものだった。が、最後の場面、物語の一連は、二日間の出来事だったが、彼の心の中で、一気に暗く湿った、呪いのようなものが、彼の生を前へと進める昇華へとつながったように思える。
それは飽和を思わせた。
ひとりという器のなかに、ありとあらゆる、が詰め込まれて、煮詰まって、きっかけを得て自走を始める。
ここまで書いてみて『黄金比の朝』とは絶妙なタイトルに思えた。
晩には移ろって、変わってしまう心持ちかもしれないが、結局のところ、そのような朝晩を繰り返すのが生というものなのだと、わたしは思った。 -
真の意味での身寄りがあるようでない、
そこにいるようでいない、
ただ梢を揺らす木のようにして佇む若人の運命は非情でグロテスクだった
また彼の搾り出したかのような復讐は結局は空虚なものにすぎなかった
全体を通して「む、難しい、、、」と感じっぱなしだった
はっきり言えば『岬』に関しては、自分の中での感情移入および心の揺れは大して感じられなかった
もちろん大枠としての彼の「地理的にも血縁的にも閉ざされ縛られることへのどうしようもない憂鬱」のようなものは感じられるが、今の私には秋幸の心の機微は完璧には解読し難い
偏に想像力不足、偏に感受性不足なだけかもしれない、だとしたら本当に憂鬱だ
そもそもの文章構成も難解で、定型を破壊しているとも言えるが、単に読みづらいと感じる人も少なくないだろう
加えて、
「『卓袱台』という漢字が読み書きできるようになったことがこの本を読んで最もよかったと思える点である」、そう言いたくなるほど本文に登場する漢字でも躓いてしまった
おそらく私の漢字弱者っぷりも影響しているだろうが、それでも現代の漢字使いとは大きく異なる文章に翻弄されることも多々ありその都度調べてなんとか読み進めなければならなかった
ここからは短編ごとの感想を述べる
『黄金比の朝』
この短編を読み終えて初めてこの文庫本が短編集なことに気づいた(遅すぎる)
「女」は大義を掲げる兄から下らない人間の一面を引き出す要素なのではないか
やがて「ぼく」は自分も兄や社会と変わらない中途半端な存在であると理解し歓喜する
『火宅』
燃え盛る家屋のように男の運命は尽きる
あまりに複雑な人間模様に圧倒される
そして「彼」も同じく血と運命には抗えず、、、
兄だけが良い人
『浄徳時ツアー』
老若幼の要素がそれぞれある、私自身は若者の分類に入るからなのか、老人の方々の溌剌さに羞かしささせ感じ度々憤った
終盤にかけての畳み掛けがすごい
人生で何度も読み、振り返りたくなる作品だろう
『岬』
秋幸は「解放」されたのか?おそらく違うだろう、彼が異母妹と姦ることで彼は救済されるどころか憎っくき「あの男」と完全に同化してしまった
救済の術を知らないあたりも田舎ならでは、、、 -
島田雅彦『深読み日本文学』より。
多分苦手だろうけど、読まないとなあと思っていたら、隣の人の机の上にあって、まさに奇跡!だったので借りました。
思っていた味でした(笑)
直前に女子女子した小説を読んだから余計に、ガツーンと殴られました。
「黄金比の朝」、好きです。
凄惨なバイク事故で亡くなった父親。
父親を亡くしてから、宴席にまつわるいかがわしい仕事をして、晩御飯を調達してくる母親。
東京の大学に行って過激派に入り、除籍されて弟の元に隠れにやって来る兄。
自分はそんな母や兄のような体たらくになるまいと、友人と下宿して受験勉強する浪人生、福善。
逃れることの出来ない関係だから、受け容れることを拒否してしまう福善の青さがイヤじゃない。
他の作品は、男と女を際立たせ、結局女はパーツでしかないのか、と思わせられないでもなかった。
ウェルベックが引用していたジャック・ラカンの言葉『下劣にはなればなるほどよい』。
まさに、これだな。
でも、この話に出て来る女は、自分が稼いだ金で彼らを連れ回し、妹探しに奔走する。
見つからなくても、また探すと言い張る彼女に少しの希望を見出せる。
……とまあ、こんな読み方をしている時点で、私にはやっぱり向いていない作家なんだろうと思う。
蛇足。
「岬」で実の妹とアレコレのくだりで、これが「料亭」システムなのか!と妙に感心した(笑)
いや、以前ルポでちょっと齧ったものだから。
消えてゆく時代を残している小説でもある。(初出が昭和50年だもんな、そりゃそうだよな) -
濃い。息苦しいほど濃い。質量を持つ粘着性ある文章が纏わり憑くようだ。上原善広著『日本の路地を旅する』で中上健次氏の存在を知ったが、彼自身に流れる「血」のどろどろと濃厚で噎せ返るような強烈なにおいが漂う。果たして饐えた臭いか鮮麗な匂いか、それは読み手次第だ。私は後者であった。
段落を排し圧倒する文章と、受胎を「性交の搾りカス」と表現する鮮烈な感性が描く「血筋」を巡る複雑な人間模様は、そうしたものに憤り苦しんだ者しか生み出せない独特の空気感を持つ。彼自身、被差別部落出身であり、その特殊な世界で培った感性で以て人と人との生のぶつかり合いを描き出す。ストーリーらしきものはほぼない。だが読者を惹きつける引力はなんであろう。例えばゴッホのように命を削って作品を生み出す者の「才能」を見せつけられる作品である。
素晴らしいレビューです(;_;)
私も、文学とは人に寄り添うもので、人の生は生臭いけれどそれを抱え...
素晴らしいレビューです(;_;)
私も、文学とは人に寄り添うもので、人の生は生臭いけれどそれを抱えて生きていく、生きていいということを感じさせてもらえることが読書の喜びだと思っています。
ノーベル文学賞とは「人類の福祉に最大の貢献 」を行い、「理想的な方向性を示す」ことが必要とされ、作品ではなく作家活動全体的に講演とか文学者の育成とかもすること、が挙げられていますが、まさに文学とは人間の心や世界を前向きにさせるもの(ただ明るいとか、ハッピーエンドという意味ではなく)だと感じさせられる作家のことだと思うんですよ。
このような小説を読むと、自分が日本人で読書が好きで良かったなとつくづく思います。
中上健次の「枯木灘」は、「岬」と繋がり、もっと深彫りしていますので、未読でしたらぜひどうぞ!
「いいね」&コメント有難うございました。
中上健次さんの描いた“路地”(と呼ばれているらしいですね。生まれ育った土地のことを)...
「いいね」&コメント有難うございました。
中上健次さんの描いた“路地”(と呼ばれているらしいですね。生まれ育った土地のことを)の世界は、汚くて下品で、顔をしかめてしまう場面が多いですが、そこにしかない生の輝きや体温の温もりを感じますね。「大学に文系科目はいらない」などという人は決してこのような本を手に取らないだろうし、理解出来ないでしょうね。
たまたま少し前に読んだ川上未映子さんの作品では掘り下げられてなかった“父親”に関する問題が中上さんの作品はあったのですが、文学はそもそも正論を問うものではないので、どちらも人の心に寄り添う芸術だと思いました。
「枯木灘」とはまた芸術的なタイトルですね。「岬」も本の表紙に一文字書いてあると芸術的ですね。また、読んでみたいと思います。有難うございました。