- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167654016
感想・レビュー・書評
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異質な作品。
作者は暗くある種陰惨な私小説をキャリアとしていて、本作品もベースは世捨て人の作者自身を投影した様な一人称視点。
にも関わらず、本作品の直木賞受賞には納得をしてしまう寓話性があり、作品が締まった瞬間物語の世界から弾き出された様な寂しさを感じた。
特に女性とのさもしい縺れた恋情を描くのが巧すぎる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日常を虚で湿った目線でかすめる言葉たちとなにかの起きていることはわかるがなにが起きているのかはわからない感覚とがまじりあって神話的な雰囲気を醸成している。ただ二十四節で終わってほしかった。釣れない釣りを続けるひとたち好きだった。
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友人からのお勧め本。図書館に蔵書されていたものの、職員さん以外は入れない所に…禁書か?
著者が車谷長吉で装丁とタイトルも古風。初見ではとっつきにくそうだが、いざ読み始めると何とも言えない翳りの雰囲気に引き込まれた。関西色が強くて全体的に湿っぽい中、迦陵頻伽が艶っぽくて魅力的で逆に薄気味悪さを醸し出している。西村賢太を思い出す部分も。
主人公の生き様に共感する所が多々あった。破滅願望って誰にでもあるものなのか。妙に潔く、かっこよく見えたりする。他の作品も読んでみたい。やはり人のお勧めは自分の殻を破るので面白い。 -
古本で購入。
一読して絶望した。
小説の巧みさとは別に確固として存在する作者の曝け出したナマの部分、おそらくそれは人の心を何かしら抉る力をもっているはずだが。
心中は「未遂」に終わった。
結局のところ、「私」にとっては尼崎における何もかもが「未遂」だった。
尼崎を離れて数年後、再び訪れたその街には「私」が関わった人々はどこにもいなかった。作中の“物語”は、「私」が尼崎に存在しようがしていまいが起きた。
その人々にとって「私」は何ももたらさないマレビトにすぎなかったのだ。
「そろそろこの街を離れようか」と“思える”「私」と、“思えない”人々との間の断絶は深く暗い。所詮は破滅志向を行動に移したにすぎないインテリと、そこに生きざるを得ない人間とは交わることができない。
再び東京で会社勤めを始め、小説家としても再デビューし、文学の世界で成功をおさめた「私」こと車谷長吉が「心中未遂」したのは、ただ女ひとりではなく、自分が身を置こうとしてついにはできなかった「温度のない街」尼崎、そこに横たわる社会、あるいは世間だ。
それは一人称の文体をとりながら、どこか三人称的・鳥瞰的な、冷静な語り方からも感じられる。
自分を含めたすべてに対して観察者になっている人間が、“そこで”生きていると言えるのだろうか。
無痛の痛みのような揺らぎを心に生じさせる作家だと思った。
これから他の作品も、おそらく淵の底を窺うように読んでしまうのだろう。 -
最高に面白かったです。非の打ち所がない。
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底辺を突き破ってさらなる苦界へと堕ちていく人間の、業を隈なく描写した小説。
たしかに主人公「私」は尼崎に蠢く人々に拒まれもしたが、それぞれの恥部を晒されるという形で受け入れられた部分もあったのでは、と思う。 -
蠢く言葉に圧倒される。相応しいレビューが書けない自分をもどかしくも思う。自分にとっては至高の作品。
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人間の業をえぐりとる、恐ろしく読み応えのある文章。尼崎が舞台で知ってる地名が多くリアルかつ幻想的。
この小説を読んで以来、そこらの文章が味気なく感じるほど、一度味わったら忘れられない濃厚な文章。
予想外な終わり方も好き。 -
凄まじい物語である。
この話はすでに10年以上前に書き上げられている。その年の直木賞を獲っている。
その後しばらくして、もう私小説は書かないと著者は宣言した。命を削るような話は最早書けないとも言った。当然だろう。
『漂流物』が、本命視されていたにもかかわらず芥川賞を逸したとき、この話は原稿用紙にして300枚ほどすでに出来上がっていたという。著者の奥さんは、コノ物語が完成した直後、夫はコノ作品で次の直木賞を獲る。と断言し吹聴して回ったという。身内の欲目、では断じてないと思う。彼女とて一級の詩人であるからではない、ある程度の読書人であれば、一読すればその「確信」が解る。
白洲正子が「十何年もまえに見っけたのは私なんだからねっ」と豪語したのは直木賞受賞の直後だから既に10年前だ。稀代の目利きが見出してから世間が認めるまで十数年を要したことになる。私のような凡人がその存在を発見したのが四半世紀後であっても恥ずかしいことではなかろう(でも、もっと早くに知っていたならもっとよかっただろうが)。
書くことに命を賭し、あるいは書くことで命を苛み、生きて狂ったか、あるいは狂って死した累々たる文豪たちの人生と作品との比較において、凄みの点で一歩も引けをとらず、むしろ凌駕するほどのものである。尚且つ今生き、書き続けている作家である。
そしてまた、世に出た後も、なぜか埋もれている存在でありつづけて見えるのは、この作家に一層凄みを加えている。
万人にお薦めできるものではない。それどころか万人に戸惑いと一種の嫌悪を抱かさずにはいられないこの作家と作品は、それ故にこそ紛うことなき逸品に違いない。稀代の目利きが見出し、第一級の文学賞を獲った作品だから、ではない。読むものがそれぞれ読んで感得するしかない凄みがある。
最後の文豪である。少なくとも私ひとりはそう確信する。