周公旦 (文春文庫 さ 34-2)

著者 :
  • 文藝春秋
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感想 : 25
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  • Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167656560

感想・レビュー・書評

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  • 神保町三茶書房にて購入。

  • 陋巷に在りの執筆過程でてきた副産物のようなものかなあと軽い気持ちで読み始めたけど、全然、そんなことなかった…!月並みな言葉になってしまうけど、すごく感動しました。200ページとちょっとの薄い本だけど、大河ドラマにもできるんじゃないか、っていうくらいのスケール。殷周革命以降の周公旦の人生を一冊に詰め込んでしまって、勿体ないと思ってしまうくらい。陋巷に在りや諸葛孔明みたいに続刊ものにしてくれれば尚よかったのにな…
    陋巷に在りに続いて「礼」に物理的な作用が伴うという少し変わった状況下の物語だけれど、それなのに何というか、作者の文章の力量や圧倒的な知識量に裏打ちされていて、物語にものすごく真実味がある。殷周時代なんてそもそも史料が少ないから何があったかよくわかっていないような時代なのに。ほんとうに、すごい。ページをめくる手が止められなくて、取り憑かれたように一気に読みました。周公旦の祈りと精神性がまぶしい。それから個人的には、太公望(こいつも今までのイメージをひっくり返してしまうようなとんだくせものじじいでした)との政治的な駆け引きにも手に汗握りました。もう、本当に破格のおもしろさ…!

    しかし、酒見作品なのに変態がひとりも出てこないのはめずらしい…

  • 漫画の封神演義を読んでいた世代なので、
    もう登場人物があの絵のイメージ。
    この酒見さんの周公旦でも、そのイメージのまま読んでしまいましたが、
    生真面目な感じがとてもあってるような気がします(勝手に思ってますがw)

    最初のほうは、読み進めるのがちょっと大変だったのですが、
    周公旦のあの真面目っぷり、頑張りっぷりが出てきてからは、
    さくさくと読めました。
    (太公望はギラギラしていましたwでもやっぱり頼もしい!)
    良い経験ができた!って思える作品でした。
    そしてまたもや、すごく読みやすかった。


    今までも興味はあったが好きというほどではなかった中国史。
    酒見さんの文章のおかげで、すごい好きになってきてる自分がいます。
    (ほとんど孔明のせい)
    「陋巷に在り」が早く読みたい。。。
    (本屋においてほしい、切実に…!!)

  • 存外に軽いお話。酒見さんの軽快な文章で読みやすい。

  • 2009年11月ごろ読んだ。(図書館)

  •  古代中国、殷代末期から周代初期にかけて「周公旦(しゅうこうたん)」と呼ばれる人物がいた。紀元前十一世紀頃のことである。姓は姫(き)、名は旦。殷の紂王を滅ぼし、周王朝を立てた「文王」(西伯・姫昌(きしょう))の子にして、「文王」の遺業を継いだ「武王」(姫発(きはつ))の弟として夙に知られている。若い方や漫画好きの方ならば藤崎竜氏の『封神演義』で、中国史や中国文学が好きな方ならば、読み物の『封神演義』でおなじみの人物でもある。しかし、『封神演義』は歴史をベースにした神仙譚の色が強い作品でもあり、ここに登場する「周公旦」のイメージを、そのまま史的存在としての「周公旦」に当てはめてはいけない。

     本書で描かれる周公旦は、史的存在として一体どのような人物であったのか、また、どのような業績を残したのか、彼が生きていた殷周時代とはどんな時代であったのかなど、彼の実像に迫ろうとする作者の姿勢のもと、我々の前に立ち現れてくる。とは云え、歴史的に見て間違いのないように書こうとか、周公旦や殷周時代についての学説・研究結果に沿って優等生的に書こうといった、ガチガチの歴史作品なのでは決してない。

     むしろ、歴史の遥かかなた、紀元前十一世紀頃の中華世界を扱うにあたって、史料に乏しい部分においては作者は大いに想像し、推量し、残された記録を分析し、そういった頭脳作業によって結晶となった、独創的な周公旦の人物像を提示してくれている。そういう点で、本書は歴史小説であり、ファンタジー小説でもあり、冒険小説ですらあるように思える作品となっている。そして作者・酒見賢一氏は、周公旦に対して彼が抱いていた一つの疑問から、この物語を説き起こしていくのである。

     即ち、周公旦は兄である武王の息子・成王(周公旦から見れば甥)に疎まれ、疑惑の目を向けられた際に、何故、自分の領地である魯(ろ)ではなく、敵対国である楚(そ)に亡命したのか。この一点である。

     周公旦は父と兄である文王・武王と共に殷王朝を倒し周王朝を建てたのだが、建国後、武王の治世がすんなりと受け入れられたわけではない。周王朝の支配領域周辺では、中原国家の支配にまつろわぬ夷族がまだまだ多くいた時代であり、なおかつ殷王朝の遺民の中には前王朝の再興を期して、紂王の遺児、武庚禄父(ぶこうろくほ)を担ぎ出し、一戦仕掛けてやろうと目論む者も存在したからである。新王朝建国と聞くと、華々しいイメージが先行しがちであるけれども、周の建国当時は屋台骨がいまだしっかりと組み上がっていないような脆弱さがあったのである。したがって周公旦は、兄・武王の補佐役として内憂外患の情勢を取りまとめる重要なポストにあって、叛乱の火種が大きくならないように外交戦術を策したり、論功行賞に不満が出ないように諸侯達に対して心を砕いたりと、重責の中、こつこつと実務を執り行わねばならない立場にあった。

     そんな折、周王である兄・武王が突如崩御してしまうのである。嫡男である太子・誦(よう)を残して。
    太子・誦…のちに諡名(おくりな)されて「成王」と呼ばれる人物であるが、この周公旦にとっては甥となる太子はこの時まだおしめも取れていない赤ん坊であった。当然、太子が成長し政事(まつりごと)をとれるようになるまでは後見人を立てねばならない。文武百官は、周公旦こそその後見人にふさわしいと推挙する。それは、彼の実務能力を高く評価したからでもあるが、それと同時に、彼の祭祀者・シャーマン・文字を取り扱う者としての異能を認めたからでもあった。

     周を取り巻く情勢は未だ安定しない。成王の傅育(ふいく)と政事の執行とを一手に引き受けて数年を経たのち、周公旦は甥の成王と必ずしも良好な関係を築けていないことに悩まされる。成王が若き少年王となり、自我が芽生え始めた時期に当たっていたことも原因の一つであったろう。王といえども子供である。周が置かれている環境を楽観視することは出来ない。経験を持った大人が国家の舵を取ってやらねばならない時期だ。しかし成王は自分で政事をとれると思い始めている。周公旦は成王が賢主として後の周を率いていけるように、時に苦言を呈しながら教育を施す。だが、成王にとっては小うるさい叔父が、また自分を説教しているとしか思えなかったのである。そういう状況の中で、成王は周公旦の様な賢臣を遠ざけて、甘言を弄する邪佞の臣にばかり耳を傾けるようになっていく。

     成王の七年、周公旦は政事に関する権力を全て王に奉還し、成王親政が始まった。この時、成王は七、八歳頃であろう。周の体制に不安要素がないわけではないが、周辺諸部族の平定も進み、王朝は一応の安定を迎えるに至った。周公旦は一臣下として引退し、あとは新しい顔ぶれの者達に成王を託すだけのように思われた。だがここで思わぬ事態が起こるのである。心身の保養に務めていた周公旦のもとに、ある日、成王からの問責状が届くことになるのだ。問責状には、周公旦が成王が幼いのを利用して政事を壟断し、私利私欲を図った上、成王を侮辱したと記されていた。成王自らが糾弾しているとは云いがたいが、彼の周囲にあって、周公旦を良く思わない者達の策動に成王自身も乗せられていることは明白であった。悪意に満ちた問責状は、周公旦の誅殺まで匂わせている。考えを巡らせた周公旦は亡命を決断するに至る。

     その亡命地として選ばれたのが楚であった。自分の息子が宰領している魯に逃げることも出来たし、共に周建国の為に戦った太公望・呂尚が封じられている斉へ行き、幕僚として迎え入れて貰うことも可能であったろうに、彼は何故、未開の地として中原国家から恐れられ、まつろわぬ民の最たるものである楚へ赴いたのか。それは、楚が「巫祝(ふしゅく)」の土地だったからである。「巫祝」とは日本でいうところの「はふり」や「かんなぎ」「みこ」に相当するものだ。殷周もそうであったが、楚は神々や祖霊、地霊との結びつきが非常に密接な土地で、巫祝階級を通じてのそういった見えざる力との対話によって農耕が進められたり、他部族との戦が行われたり、あるいは子々孫々の繁栄が祈られたりしていたのである。周公旦が政治家・実務家と言われる時、そこには見えざる様々な祖霊や神霊に対して「在(いま)すが如くに仕える」巫祝・シャーマン・おとこみこの側面があったことを我々は理解しておかねばならないのだが、要するに周公旦もまた、周という祭祀国家の能力者であったわけだ。彼は祭祀者としての自分の能力がどこまで通用するかは分からないが、同じく巫祝階級が多数存在する楚に赴いて、楚を実地に見聞し、理解し、そして周との国交が将来的に可能となるように布石を打とうと決意したのである。それもこれも、成王の治世が磐石のものとなるようにという親心にも似た気持ちから出た決死行であった。

     周公旦が楚において、どのような経験・折衝をしたかについては未読の方の為にお楽しみとしておきたい。というよりも、字数制限の関係で読み取ったことや思考したことを全て書ききることが難しい。周公旦は後世、「礼」を再編成した聖人として、儒教の祖・孔子から多大な尊崇を受けることになるが、その礼についても、酒見氏が考える礼もあれば私が考える礼もあり、はたまた専門家が考える礼もあったりと実に幅広く、礼について書くだけで一冊の思想書が完成するくらい遠大なテーマなので、別の機会に改めて書く必要を感じる。私としては、貝塚茂樹先生の『諸子百家』に関して記事を書く時が来たら、そこへ自分なりの解釈を述べておきたいと考えている。ここでは簡単に、礼とは単なる礼儀とか作法とかいったことに限定されるものではなく、古代においては天神地祇に祈りを捧げ、人心を収攬し、共同体や国家を運営する上で欠くべからざる社会システムであったことを書き添えておきたい。

     私の好きな現代作家に、今回取り上げた酒見賢一氏と宇月原晴明氏がいる。宇月原氏はその作風から、山田風太郎と澁澤龍彦をミックスしたような伝奇作家と評価されることが多い。一見、関連があるとは思えないような歴史上の出来事を、独自の筆致と推理、舞台設定でもってグイッと巧みに引き寄せ、万華鏡のような世界を構築するのである。では、酒見氏はどういう作家なのかというと、これは私の見解だが、司馬遼太郎のような歴史作家へと大変身する可能性が非常に高い人と云えるのである。物語を説き起こしていく際の着眼点や切り口が面白く独創的で、しかもベースとなる歴史事項には殆ど改変を加えない。読者は、自分にとっては既におなじみの、好きな時代や歴史上の人物について読む時でさえ、(こういう見方や解釈があったのか)と感心させられることになるのだ。いわゆる「司馬史観」というものによって、我々が妙に納得させられてきたように、今後は「酒見史観」というものによって歴史小説を愉しむことが出来る気がするのである。

     ゆくゆくは酒見賢一という作家に『三国志』を書いてもらいたい。私は本気で期待している。


                  平成二十一年十月二十四日 再読了    

  • 周公旦が主人公ですがライバル的な存在である太公望がブラックジジィでかっこいい!
    ちょっと周公旦が超人的な描かれ方をしています。

  • 太公望が好きです。ギラギラしてて。

  • 太公望がちょっとイヤな奴です。

  •  これを、「時代小説だ」とは断言できない。確かに時代小説の王道的な「人生の教え」のようなものも作品の中には出てくる。たしかに、漫画の「封神演義」のようなSF的ファンタジーな作品ではない。
     野心に満ちあふれる太公望は生々しく、また、若さゆえの苦しみを抱く武王などや周の側近たちも人間味あふれるように描かれている。一見、時代小説の王道的作品である。
     しかし扱っているテーマは術(作品中では「礼」)であり、文章の合間にサラッと何気なく、至極当然だと言わんばかりに「超」能力的な言動が書き記されている。
     主人公は武王の弟「周公旦」、光と影で言えば、歴史(小説)的には影の側の人間である。著者は冒頭で、なぜそんな彼に興味を抱いたのかを書き記している。動機のそれとは違い、作品の中では中国史の核心を描いた作品に仕上がっている。

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