ハード・タイムズ

  • 英宝社
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  • Amazon.co.jp ・本 (557ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784269820210

作品紹介・あらすじ

「事実、事実、事実!」「空想などしてはならん」繁栄を謳歌する1850年代大英帝国の内に隠されたきびしい現実を鋭くえぐる、ディケンズ渾身の社会問題小説。

感想・レビュー・書評

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  • 冒頭から紳士トマス・グラッドグラインドは高らかに言う-「人生で必要なのは『事実』だけなんだよ」と。
    原文の英語ではさらに明確で“In this life, we want nothing but Facts, sir; nothing but Facts!”、つまり“nothing but”が効いて「事実以外に必要なもの、そんなものは無い」という、より強いニュアンスになる。要約するとこう言うことだ。人間が科学によって明らかにした「事実」を学び、理解し、実践することが、人間が最も幸せになる最善の方法であると。
    冒頭の紳士はその主義を標榜し、さらに学校経営者としてその主義を教育によって子どもに当てはめようとする。もちろん自分の子どもへもだ。その紳士は、子どもを小さな容器に例える。教育とは、その小さな容器に事実をいっぱいに満たしてやることだと。

    事実優先主義という知と心との関係や、教育など現代にも通じる人生の重要課題が簡潔明瞭な文章で次から次へ現れ、異国の古い小説であっても読者を飽きさせない(本作品の英国での初出は1854年。つまり日本では明治時代より前)。

    しかし、ディケンズは多くの登場人物を使った多角的な構成で、紳士が完璧なものと捉えるその主義を、まるで精巧にレゴで作ったお城を粉砕するかのように壊しにかかる。
    例えば、紳士の娘ルイーザには、紳士が父親として最良の道として政略的な結婚をさせる。確かに見た目では幸せを得られた。その一方で、感情をきれいに畳んで心の中にしまうことを身に付けていた娘は、自分が出会った様々な人間の様々な人生を見るにつけて、本当の幸せは何かを自分なりに描いてみようとする心の動きが生じる。しかし、父に空想を封印されてきた彼女は、幸せの形を描こうとすればするほど心が塞がってしまい、ついに「お父様は、生きるよすがとなる小さな日々の喜びを、何から何までどうして取り上げておしまいになったのです?私はそのため死んでいるとしか思えないような状態で生きてきました」と父に向って叫ぶ。

    また例えば、若くして結婚した実直で働き者の工場労働者は、酒乱で放浪癖のある妻の存在に悩み、そんな自分でも優しく接してくれる同じ工場の女性労働者に心をときめかせる(当時のイギリスは宗教上、離婚はタブーだった)。

    さらには、シシーというサーカス団員の娘が登場する。貧しく教養はなくても日々明るく暮らす団員とともに暮らし、曲芸をする父と2人暮らしだったが、父は原因不明の失踪。シシーは紳士に引き取られる。紳士の娘とともに生活するが、感情と愛情とを紳士の言うように捨てられない。つまり、ルイーザは父が造形した「事実」を体現化した少女、シシーは事実で表せないものの代表、と対をなしている。

    ここで、私たちの現在の生活に照らしてみよう。「事実」と感情や愛情などの「非事実」との対立からもっと飛躍して、自分の主義に固執し、その主張を徹底する人物像をまず想像してみたい。その主張は一見・一聴は正しいだろう。しかし、多くの考えや意見をもつ人間にすべて当てはめようとするとき、その主義はパズルのピースのようにすべての人に合うことはない。ある人にはぴったり合っても、別の人には合わないどころかパズルを壊す要因にもなりうる。そういう柔軟性というか、よくたとえ話で使われる自動車のブレーキの“あそび”こそが、人間が生きるうえで最も大切なものであって、事実の尊重もある面では大切だけど、そういう複数の要素を臨機応変に組み合わせて、1人ひとりそれぞれに合わせるということだ大切だと、ディケンズ当時だけでなく私たち現代人もちょっと忘れてしまっていないだろうか?

    私はそういう風に読んだが、「科学絶対主義の批判」とか「心の教育の大切さ」とか「人を愛するということの自由さ」とか、読者によって種々のテーマを見いだせるだろう。
    ちなみにこの物語の結末は、誰がハッピーエンドで誰がそうでないかというのはわかりやすくは書かれず、ある意味、読者の想像にゆだねられている。シシーの幸せ、ルイーザの幸せは読者が創造力を駆使して考えを導き出さなければならない。これもディケンズのテクニックであって、直接的に書くのではなく、イギリス伝統の喜劇(comedy)として、全く性質の異なる人物を衝突させることで化学反応を起こさせて、読み手の喜怒哀楽はくすぐるものの、作者の意図を押しつけるかのような教訓めいた描写は極力抑えられている。

    「喜劇」と書いたように、登場人物の行動はユーモアを伴っていて、眉間にしわを寄せずに読める。こんな良品の邦訳版が絶版で読めないのを不思議に思ってインターネットで調べると、原作の英文があっさりと閲覧できることに気付いた。夏目漱石作品と同様に、著作権切れのため原版は自由に見られるということなのだろう。したがって私も原文と邦訳文と比較することで、より深くこの本を味わうことができた。
    (2015/9/21)

  • 大好きなディケンズは翻訳は全て読んだと思っていたが、これがまだ未読だった。
    「いやなやつ」であるところのバウンダビー氏、スパーシット夫人、一介の労働者スティーブン・ブラックプールへの暖かいまなざし、一周回って取り柄がないほどいたいけで善良なシシー…彼らはドラマティックに運命の歯車をぐるぐる回す。久しぶりのディケンズ節を読む楽しみを堪能した。
    当時からすると先進的な思想だったのだろう、不幸な結婚や無理な結婚をさせられた女性への同情が印象的だ。

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著者プロフィール

Charles Dickens 1812-70
イギリスの国民的作家。24歳のときに書いた最初の長編小説『ピクウィック・クラブ』が大成功を収め、一躍流行作家になる。月刊分冊または月刊誌・週刊誌への連載で15編の長編小説を執筆する傍ら、雑誌の経営・編集、慈善事業への参加、アマチュア演劇の上演、自作の公開朗読など多面的・精力的に活動した。代表作に『オリヴァー・トゥイスト』、『クリスマス・キャロル』、『デイヴィッド・コパフィールド』、『荒涼館』、『二都物語』、『大いなる遺産』など。

「2019年 『ドクター・マリゴールド 朗読小説傑作選』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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