- Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309008486
作品紹介・あらすじ
失踪した異端の人形作家ヒヌマ・ユウヒを偲ぶ会が、彼女の顧客たちの手で催された…。今、最も熱い注目を浴びる気鋭の作家による超前衛カルト小説。
感想・レビュー・書評
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笙野頼子の作品にはどんな非現実的な設定でも一種の私小説感がつきまとうけれど、そういう意味ではこれは、今まで読んだ笙野作品の中でもっともフィクションっぽさのある小説らしい小説だった。書物化した語り手である「私」が語っているのが、自分自身ではなく「ヒヌマ・ユウヒ」という別の女性についてだからかもしれない。私小説における作者自身の「私」的な部分が、語り手である私ではなくおもに他者であるヒヌマ・ユウヒに託されることで、距離を保って客観的に、他人事のように語られている。
失踪した「死体人形作家」のヒヌマ・ユウヒ、彼女の顧客でもありライターという職業柄インタビューもしていた私、そして死体人形愛好家の女性たち、彼女たちの共通点は一様に、異性愛者であるにも関わらず男性を嫌悪してやまないこと。このあたりの描写はいかにも笙野頼子的だけれど、硝子で出来た死体としての人形たち、単純な愛玩物としての美少年の形態ではなく別の生物と合体したり皿として活用されたり、それぞれ発注者の異様な嗜好を反映して抽出された病巣を結晶化したような人形たちの存在が、一種耽美的で、ある意味笙野頼子らしからぬ硬質な透明感を作品に与えている気がする。
神格化されたヒヌマ・ユウヒと、狂乱の儀式を繰り広げるその人形の愛好者たち、最終的に彼女たちがたどりついたのは一種のユートピアだったのだと思う。 -
機会があって、読ませていただいた本である。なかなか興味深い読書体験だった。終盤の論理的な狂気描写にはさすがに気疲れしてしまったけれど。
ここで描かれるものは私には「意思を持つ他者への嫌悪と恐怖」と感じられるのだけど、少なからず共感するところもあって、なかなか興味深い読書体験であった。
本質的には某巨大掲示板で女性への嫌悪を撒き散らす向きと変わらない。傷つけられることへの過大な恐怖は、結局のところ自己へのコンプレックスの裏返しだ。
特に異性(男性)への攻撃的な描写には社会的にパートナーとなるべき存在への抑圧的な感情が見られ、自分を傷つける意思を廃した人形を代替として扱う屈折は、現代のオタク評論でも読んでいるような心地で読んでしまった。このへん、作者の慧眼を感じ入るべきか、時代が変わり性別が反転しても人の本質は変わらないと思うべきか。
ただ、女性がこうした感情を持つ場合、男性とは比較にならないほど「性的暴力」の可能性が潜んでいる。その点では、男権主義的な社会への反発以上に、含みをもって描写されている気がする。生殖、性的機能といった単語が出てくるたびに、そうした怯えのような感情を感じた。
普段は読み慣れない純文学(で合ってのだと思う)を読んで、少し感想が膨らんでしまった。
その上で、どうでもいい余談であるが、多崎つくるを今年読んでいるために、純文学・私小説では失踪がセオリーなのかと勘違いし始めている私であった。 -
人形とか少年とか。
彼らはやっぱりそういう存在だと思う。生きてたらだめ。時間が止まってなくてはだめ。だから、硝子じゃなくても、硝子でなければならない。
初めて読んだ笙野頼子やったけど、難しかった…。書かれすぎてて難しかった。
それにしても、ぶさいくさんの気持ちが分かりすぎて心に刺さりまくったぞ… -
書物と一体化する。書物の中での生命と語られる。死体人形。生きたい⇒人形⇒硝子体。
これは女の発想である。生命体が人形と同化されたときのイメージは、ガス、電磁波というのが男のイメージ。無機質として硝子に向かうのは?鉱物か?
私との考えの一致vsデジャブ。
読者の依頼で、人形作成。(HPで行っている)
記憶しか持っていなかった。(無機質がである)
人形に性は無いのだが、少年の死体人形。恋愛対象としての死体人形、は硝子体である。 -
久しぶりに姿勢を正し、襟を正して向かい合わなければならない本に出会った。祝福され建国された幻視者の為の「人形の国」を語る存在として書物になった、かつて人間だった「私」。自分の人形制作に対する意識がこの本を読んで確実に変わったと思う。「死体人形」作家「ヒヌマユウヒ」は憧れる。この本の続編と言われる『水晶内制度』も是非読みたい。
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2009/4/2購入
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「死体人形との恋愛生活、そして人形愛者達の幻視建国――。」笙野頼子は出会ったときからずっと好き。カルト作家と呼ばれても、J文学と言われても、ひたすらに格好いいのです。何度読んでも難解で、でも好きな本です。