- Amazon.co.jp ・本 (139ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309206721
感想・レビュー・書評
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タイトルからすっかりエッセイだと勘違いして購入しましたが…、クンデラまだ小説書いてたのね。
ガンになったと友人たちを担ぎ、パキスタン人のふりをする、辛辣で、底抜けに陽気な登場人物たちが魅力的。前立腺肥大でスターリンの長広舌につきあわされ、おしっこを漏らしていたであろう冴えない旧ソ連の将校カレーニンと彼の地名がついたカレーニングラード。死んだあとも10年に1度は目を覚ましてその地名が変わっていないことを確かめたいという台詞に笑いました。たしかに(笑)
"冗談"や"存在の耐えられない軽さ"に比べると、クンデラの小品的な位置づけになりそうな本作ですが、ヘソへの性愛のもと、反復と唯一の目的に生きる私たちにとって、全人類を嘲笑うような著者の皮肉は貴重ですね。
ところで、クンデラは処女作から本作まで一貫して官僚化・大衆化し、硬直した社会に冗談で挑んできたのだと思うと感無量です。そろそろ、マジでノーベル文学賞あげてやってください(笑)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
小説の中に物語がありその中にまた物語があり……と、このようなプロットの組み立て方の名称を忘れたが、こんな小説を久しぶりに読んだ気がする。
ミラン・クンデラは名前だけは知っていて、読むのは初めてだったが、少し読んで困惑……大層なことを言いながら糞のことを話しているような……タイトルにもある通り「無意味」「祝祭」とイメージ的に渇いたものと厳粛な会合のような、上手くいえないけど祈り、魂、言葉の重さ、罪、そういうものを神の視点から、いや神というか、ただ上空から冷笑している、という感じだった。
好きな人は好きかもしれないな、と思う。 -
無意味な嘘、スターリンのどす黒いユーモア。この世は無意味でできている。生きることとは自分の物語を見出すこと、という陳腐な物語を皮肉る喜劇。必ずしもニヒリズムではなく、世界は無意味であるからこそ美しい、という立場がいい。
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特に意味はない、しかし無価値ではない、我々の平凡な人生はそれなりに楽しければ上等。クンデラのシニカルなユーモアがしっかりと感じられる。そんな感想。数人の登場人物の小さいエピソードが薄く繋がり、あらすじというほどのものはない。カリーニンをググると実在していていまだにカリーニングラードだった。
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女体を持つ身としては微塵も笑えなくて最悪だった。
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・比喩なんだろうけど、スターリンとの関係??
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文学
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この作家と同じ時を生きていることに、ただただ感謝したい。
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ミラン・クンデラの他の本も読みたい。
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無意味の先に意味があるんだけどな。
20代初期までは、無意味とゆうのにロックされていて、かっこいいと思ったものだけど、
意味なんてないさ、非常にかっこいいんだけどね。
でも、泥臭くてカッコ悪い、意味があるとゆうのが良いな
こういったのは表面上からぬるぬると現れて生まれたものを感じて、やはり、初期の頃の作品の方が良いな
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結構笑えた。
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どんなものか確認
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クンデラ「無意味の祝祭」http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309206721/ … 読んだ。おもしろかった!こんなに読み易いクンデラは初めて、でもやっぱり登場人物以外の誰だか判らない「わたし」が出てくる。いつも思うけど作者なの何なの?筋も事件もない、普通のおじさんたちの井戸端会議。ビバ無意味
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円熟期に入った作家の本を読むとき、どうしてもその作家の代表作を読んでいるかいないかで印象はかなり異なってくるのだろうと思う。
自分は『存在の耐えられない軽さ』も『冗談』も『不滅』も読んでいないまっさらな状態でこの作品を読み始めた。
短い作品の割に、かなり多くの登場人物が出てくる。ので、なんとなく雰囲気で読み進めるのだけれど、それでも印象的なエピソードが多く、この作家の特性というものが何となく見えてきた気がした。やはり最も印象深いのは母親が自殺を試みるも失敗し、その結果……というところだろうか。
それにしても最近は海外文学、あたりが多いなあ…。これも図書館で借りた本なのだけれど、やっぱり手元に置いておきたい気持ちになっている。のだけれども最近いよいよ金がない…。どうしたものか。
「ぼくは父親がそうだったように、気持ちが優しくて繊細だ。そしてずっと母親が見たように厄介者のままだろう。厄介者で気持ちが優しい者は有無を言わさぬ論理によって、謝罪の終身刑に処されるのだ。」p.71 -
無意味は人生の本質だ!と叫び、冗談の黄昏の時代を嘆く登場人物たちを中心に、20〜21世紀の歴史、政治、社会風俗を徹底的に笑いのめした、著者10年ぶりの小説。仏で数十万部突破。
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ミラン・クンデラの最新長編。なんと10年ぶり(!)の新作らしい。
本ではなくメルマガの形で届けられた『訳者解説』によると、この本は一種の『阿呆劇』だそうな。『阿呆劇』というのは、『フランス十五-六世紀に流行した世俗演劇で、段だら縞の道化服をつけた阿呆たちが登場し、不真面目で無責任な社会諷刺をさんざんおこなってみせる茶番狂言』(かわくらメルマガvol.7より)というものらしい。その言葉通り、軽快で読みやすい長編(というにはやや短いのだが)に仕上がっている。何しろ第一部冒頭の章題が『アランがヘソについて瞑想する』なのだから人を食っているw 何もそんなことを『瞑想』することはないだろうww
しかし考えてみると、クンデラは、『存在の耐えられない軽さ』や『冗談』でも見せたように、意外と皮肉なユーモアを作中に仕込んでいるので、『みずからの作品の総決算ともなりうる最後の創作』(同メルマガより)が滑稽味溢れるものだったのはすとんと納得した。
解説が書籍に収録されなかったのは、矢張りメルマガによると、『著者クンデラ氏がご自身の小説には本文以外の要素をつけることを認めない方針をとられているため』。この解説が妙に真面目で(当たり前か……)、1冊の本になっていればその対比も面白かったと思うのだが、著者の方針であればやむなしか。メルマガではなくHPで(期間限定でもいいから)公開して欲しいな〜。