道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫 な 25-1)

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  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (177ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309409924

作品紹介・あらすじ

ルサンチマン-それは「反感」や「憎悪」をそのまま「愛」と「同情」にひっくり返し、「復讐」を行う独特の装置なのではないか。ニーチェが「道徳上の奴隷一揆」と呼んだキリスト教的価値観が、この世界で完璧な勝利を収め、今日の道徳を支配するに至った理由は何か?人気哲学者が、通俗的ニーチェ解釈を覆し、その真の価値を明らかにする!付録対談:川上未映子×永井均。

感想・レビュー・書評

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  • 道徳は復讐である
    永井均

    ニーチェの本。大学2年で『ツアラツストラ』、『道徳の系譜』を読んだ時の、刺激的で、エネルギッシュなニーチェの思想を思い出した。
    ニーチェは自分の周りに充満する吐き気を催す臭気の正体を、キリスト教的奴隷道徳に見る。まず、自分がどっぷりつかってしまった社会の「臭さ」をかぎ分けるこの鋭敏さがとてつもなくすごい。自分をもつつむ思考の枠組みを命がけでぶち壊していくその姿は、本当にかっこよい。
    では、そのキリスト教的奴隷道徳の臭さとは何かと言えば、ルサンチマンである。で、ルサンチマンとは何かと言えば、「行為による反撃が不可能なとき、単に想像上の復讐によってそれを埋め合わせしようとするものが心に抱き続ける反復感情」のことである。それは、同じ土俵で戦えないときに、ひそかにその土俵そのものを作り替えて、勝利をかすめ取るということであり、平然と負け続けることで、相手を闘争のルールや価値前提そのものに対する自己懐疑、自己破壊に陥れることが出来るというものである。これは、弱者にとっての苦し紛れの思考術であり、それに至る前提を忘れてはならない。やっぱり、強いやつがよいし、金持ちがよい、ないよりもあった方がよい。それが出来ないし、自分たちには何もないから「貧しいもの、弱いものが幸福である」と苦し紛れに言ったという前段階を忘れ去って、最初からあたかも弱い方が良いとか貧乏が良いとか言ってるのは卑屈だし、サムイし、カッコ悪いよねということなのである。その点、鶏口牛後という四字熟語は、あまり褒められたものではないのだろう。そして、そう言ってしまうのは弱さの表れでもある。もっと弱さを受け入れろと、変に理屈こねくり回して弱い方が強いとかいうんじゃなくて、自分が弱いと徹底的に認めることが本当の強さなんだと(ここで強いということばを使ってはいけないんだけれども)認めようということなのだろう。SNSに自分がいかに充実しているかあげつらねている人間ほど、承認なしには自分の行動に意味付けできない弱い人間であるともいえる。自分に意地悪してくる人間を、愛すなんてことはおかしい。そんな奴は、自分に意地悪してくる人間を、自分の土俵にまず乗っけて、可哀そうな奴だと一回軽蔑して、初めて愛しているんだと言っている。自分をいじめるやつを愛するなんてものは道徳でもなんでもない、復讐なんだ。それもとても卑屈で、陰険で、とびきり悲しい復讐の形である。なんだか書いているうちに高橋源一郎が乗り移ったみたいな文体になっていくのが不思議だか、このまま続けていく。
    この本は、グローバルに活躍されていて、日本の再教育を志す方からの推薦で読ませて頂いた本である。会社の研修を担当しているうちに、変われない自分に開き直り、意固地になる人々を見て、その考え方を究明せんとするうちにルサンチマンに行きついたのではないかと邪推している。日本ということに適用してみれば、日本は資源が少ないとか、列強が跋扈し始めた時にはもっとも遅れた国だったとか、そういう中で独自の成長を遂げたという物語が、よくある。簡単に言えば、日本は弱い国で、時代遅れな国だったに違いない。そして、そこから70年かけて軍事力でアジアの頂点を目指し、頓挫し、その後は経済力で一度はアジアの頂点を取った。この歴史を見て、弱い国こそ強いんだ、とか時代遅れだからこそ成功してきたんだ(ガラパコス社会進化論)と勝手に解釈を変えてしまうのは、短絡的であり、ルサンチマン的な思考のドツボに嵌まってしまう。最近、司馬遼太郎の『坂の上の雲』のテレビシリーズや明治維新の本などを見たり読んだりしているが、やはり明治の人々はすごい。何がすごいかといえば、資源が少なく、文明的に後進国であるという事実を徹底的に直視しているその強さである。最初はどんなもんじゃいと下関で外国艦隊に大砲を打ち込んではボコボコにされ、武士道という名の潔さで、己の弱さを直視し、一転して、西洋に学ぶ姿勢を持つ、その自己認識能力の卓越性と変わり身の早さ。これこそが真に日本人(明治人?)のすごいところなのである。戦後もそうである。軍事力ではアジアの頂点に立てない。そう気づいたらすぐさま変身し、経済力の雄として君臨することを目指す。ドラッカーも書いていたが、人間が機械と全く持って違う点は、アップグレードしようとした時に機械では限度があるが、人間の仕事力は数十倍にも数百倍にも無制限に上がるという点である。話がそれたが、そういう点を見過ごして、自分は巨人の肩の上に乗っかっているという感覚なしに、弱い国は良い国だと、時代遅れは個性の表れだよねと短絡的に捉えて居直ることは、ニーチェに言わせてみれば奴隷道徳であり、弱さなのであろう。ヨーロッパに端を発し、世界を席巻せしめた、道徳という皮をかぶった奴隷根性に、日本もつかり始めている。この危機感は、やっぱり持たなくてはならないのだと思う。ニーチェはその危機感を、古代の劇などの研究祖通じて感じるようになった。温故知新である。日本も、明治維新150年の今こそ、明治人のすごさを真似しなければならないだろう。
    ニーチェの本を読んでいると、すごいと思うのは綺麗に「額縁」をずらしているという点だと思う。僕は内田樹が好きで、何冊も本を読ませてもらっているが、内田樹は額縁外しがとんでもなくうまい。聖書の話を読んだときは脳みそが溶けそうになるぐらい熱くなった。人間は、原因と結果を取り違えるという箴言からスタートし、全てを知っているからこそ断言しているのではなく、断言をしているから全てを知っているように見えるという見事な額縁外しをしていた。聖書に書かれている言葉はすべてが断言である。それは神が全知全能であるということを示すのではなく、断言を人々が読み取ることで、神は全知全能なんだと信じる事を示しているというのである。「はじめに言葉ありき」なのである。ニーチェが、やっていることもこれに近いと感じた。(もちろん時系列の前後関係は明らかにニーチェが先だが)。非利己的=良いという道徳的な定率は、それ自体として解釈してはならず、誰かが非利己的な行動をしたときに、それで受益した人が良いと言い始めた。そこに至るまでのはしごを外してはいけないと、ニーチェは強く言う。さらに、行動の動機で人を判断する、今日的にはとても道徳的に見えることも、ルサンチマン的なねじれがあってのことで、動機はどうであれ、やることが大切なんだということも読み取れる。
    本当は最初の方に書くべきだったが、ニーチェが最も嫌う人間は、二重の勝利をする人間である。それはどんな人間かと言えば、「現実の社会的ルールの中で十分強者であるのにもかかわらず、更にもう一度いわば内的な弱者を自分に装うことによって、今度は転倒した強者になるという、二重の勝利を味わう人」なのである。すごいやつは謙遜なんかせずに、すごいやつであり続けるべきであると、自分の中で、いやいや自分はまだまだなんですというのは良いが、本当は、周りにくらべてまだまだなんかではないのに、弱い者のふりして甘えてる人間は良くないと言っているのである。現実の社会的ルールで十分強者である奴は、ルサンチマン的な土俵のすり替えという易きにながれずに、ノブレス・オブリージュで強者としてみんなに還元しなければならない。ルサンチマン的な土俵のすり替えは、ある意味楽なのである。それは本当に、本当に苦しんでいる人に残された最終兵器であって、努力でなんとかなるような奴が使う考え方なんかじゃないと、頑張れるのに楽しているやつを強力に批判する。これも本当にうなずける。
    以上、本当に長々と、書きたいことを書き連ねたが、最後にもう一つ、ニーチェを読んでいて思い出したことがある。それが三島由紀夫の小説『金閣寺』である。金閣寺の中で主人公は陰の権化ともいうべき柏木に影響される。柏木は、一貫して卑屈で、性悪なのだが、最終的に主人公の方が金閣寺の放火犯として本物の悪になってしまう。その直前に柏木が語った言葉が、この本を読んで想起された。
    「俺は、君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だが、この生を耐えうるために、人間は認識という武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんてないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それでもって耐えがたさは少しも軽減されない。それだけさ。」
    この言葉の中で、柏木が、実は強さを持っていたかということがわかるのは、最後の一文である。どんなに土俵を変えても、認識を変えても、「それでもって、耐え難さを少しも軽減されない」のである。それでいて、柏木はその軽減されない耐え難さを耐えている。自分の不能を直視して、認識の転回に陥らずに、耐えているのではないか、そして、そこに柏木と主人公を分かつ決定的な強弱があったのではないかと思い始めたのである。
    以上をもってレビューを終える。4000字もよく書いたと思う

  • ニーチェをめぐる著者の倫理学的考察が展開されている論文を収録しています。

    著者は、ニーチェの道徳批判を高く評価していますが、その一方で「最高の肯定の方式」だとニーチェがいう「永遠回帰」を、「ルサンチマンの最も極端な形態」でありうるのではないか、という問題を提起しています。こうした議論は、ハイデガーよろしく〈私〉に十字抹消を書き込む著者の「独在論」とパラレルな展開になっていますが、そうだとするならば、やはりわれわれに対して道徳の「起源」は隠されてしまっているといわなければならないように思います。

    著者は、「ルサンチマンを克服する唯一の方法は忘却である」といい、同時に、「だが、それは行為ではない。誰も意志によって忘却を引き起こすことはできないからだ」と述べて、「永遠回帰」の新たな解釈へと向かおうとしています。ただ、それがいったいどのような意味で、ハイデガーの批判する「力への意志」の限界を超えているのか、うまく理解することができないでいます。

  • ルサンチマンの基本的な部分は分かった、ただ用語説明+わかりやすい事例、ルサンチマンの限界くらいまでなのか

  • 道徳というのはそれ自体を議論する事自体が問題視される傾向がある
    暗黙的に共有しているつもりの良い在り方への問題提起と見做されるからだ
    しかしながら、世の中、生得的に道徳のルールを知っているーそのつもりになっているー人だけではない
    生得的に理解できなかった人も多からずいる
    だからこそ、道徳自体の議論も忌避される事なくできる風潮になって欲しい次第

  • 自分なりのまとめになります。

    ルサンチマンとは、いじめられっ子の自殺やハンガーストライキのように、価値の転倒によって同じ土俵で戦わずして勝つという「復讐」。同じ土俵で戦わないという判断には、自身の価値観に「比べて」相手の価値観が「見合わない」といった一種の軽蔑が存在するのではないか。ニーチェはここに道徳の起源があるとした。筆者は、ニーチェがキリスト教に内在するとした唾棄すべきルサンチマンは、いじめられっ子のように真に追い詰められた状況でもないのに「ルサンチマン的勝利」を得ているからではないかと考えた。つまり、十分に勝利しているのにも関わらず、弱者ぶることによって二重に勝利していることに対して、ニーチェは嘔吐するのではないかと。先述した一種の軽蔑を、キリスト教は「愛」と翻訳したと。

    また本書は、ニーチェ一辺倒ではなく、倫理学、道徳システムに関する成り立ちや立場を様々な哲学者の考えを引用しながら紹介しており、誰が誰に対応して対立するのかが再解釈されている(というのも本書には〇〇と〇〇がなぜ並べられるのかと、世間的な哲学者の扱い方に多くの疑問を挟んでいる)。本の厚さに対して内容の濃さが際立つ、筆者の深い洞察が伝わる本であった。

    一つだけ、私がよく理解していないのが問題なのかもしれないが、「ルサンチマンの克服」という表現で、忘却すれば克服されるとあったが、そもそも「なぜルサンチマンを克服しなければならないのか」についてよくわからなかった。ニーチェが嘔吐するから「克服しなければならない」のか?ルサンチマンだけでは道徳の起源をうまく説明できない気もした。

  • 『道徳は復讐である――ニーチェのルサンチマンの哲学』(永井均 河出文庫 2009//1997)

    著者:永井均
    カバーデザイン:岩瀬聡

    河出文庫 184ページ
    ISBN:978-4-309-40992-4
    発売日:2009.11.06
    定価637円(本体590円)

    ニーチェが「道徳上の奴隷一揆」と呼んだルサンチマンとは何か? それは道徳的に「復讐」を行う装置である。人気哲学者が、通俗的ニーチェ解釈を覆し、その真の価値を明らかにする!
    http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309409924/


    【メモ】
    ・1、2章読後のメモ。キリスト教や西洋の伝統には連ならない、(たとえば仏教の強い文化圏での)また別の道徳もあるだろう。そこでの「道徳の起源」の議論はどうなるか。


    【目次】
    目次 [003]

    序章 『星の銀貨』の主題による三つの変奏 007
      最初のお話
      ‎二番目のお話
      ‎最後のお話
      ‎あの世での少女たちの会話

    第一章 ルサンチマンの哲学――そしてまたニーチェの読み方について 013
      ルサンチマンの本質
      ‎ニーチェの真価について
      ‎善悪の起源
      ‎キリスト教的内面の成立
      ‎今日におけるルサンチマン
      ‎自己罪責化とニヒリズム
      ‎ルサンチマンの「克服」

    第二章 幸福・道徳・復讐 049
    新新宗教 051
      注 055

    見えないヨーロッパ――その原点の点描 057
      見えないヨーロッパ
      ‎道徳と狂気
      ‎告白
      ‎忘恩の要求
      ‎信仰と忘却
      ‎フィロソフィア
      ‎犯罪 ―Once and for all―
      ‎差別と愛
      ‎試練は存在しない
      ‎見えるヨーロッパの逆襲

    よく生きることヤテ、そらナンボのもんや? 076
    1 道徳の理由と哲学史 
    2 ソクラテス、プラトン、アリストテレス――概念の変造―― 
      『クリトン』のソクラテス
      ‎プラトンの『ゴルギアス』
      ‎アリストテレス
    3 カント、そしてヘーゲル――変造の完成―― 
      カントにおける「ホワイ・ビー・モラル?」の問い
      ‎ヘーゲルの「人倫」学説
    4 概念変造の一つの帰結――結びに代えて―― 
      注 096

    怨恨なき復讐――われわれの時代のルサンチマン 100
      1  
      2  
      3  
      4  
      5  
      6  

    第三章 永遠回帰の哲学――あるいはまたニーチェへの問い方について 117
      永遠回帰概念の不整合性
      ‎永遠回帰思想のルサンチマン性
      ‎私の解する永遠回帰
      ‎ニーチェにとっての永遠回帰
      ‎空間の披界・選別と躓き

    単行本へのあとがき [139-140]

    付録対談 川上未映子×永井均 ニーチェと、ニーチェを超えた問い(二〇〇九・五・一五) 141
      ルールに罰則があると罰を覚悟の上ならルールを破ってもいいということが暗に示されてしまう
      ‎死刑ではなく、死ぬこと自体が極刑である
      ‎カント的意味で絶対的にしちゃいけないことが存在するなら「してはいけない」ということそれ自体がそれをする動機になりうる
      プレイヤーがプレイしながらそのゲームのルールを問題にすることはできない
      ‎人間社会に属していない者にしか見えない真理の一面がある
      ‎人が普通の幸せを求めるということもそうであるべき道徳の一部である


    【抜き書き】
    □30頁
     現在「ホワイ・ビー・モラル? (なぜ道徳的でなければならないのか?)」という問題があって、倫理学の一角を占めているのですが、〔……〕でも、その前提を取り払って考えれば、その答えは実は簡単だと僕は思います。人間には人前でいいかっこうをしたいという欲求がある。つまり名誉欲がある。これが人が世のため人のために活動する原動力になる。つまり利己性と利他性とを媒介する。こういう媒介を不純な動機見なして否定してしまって、代わりに何かもっと純粋なものを持ってくるというのは、本当はとんでもない倒錯なのではないでしょうか。不純な動機どころか、むしろそれこそが唯一のとは言わないが、純粋で、清潔で、真っ当な動機なんだと、僕は思います。


    □32頁
     ついでに言うと、そのむかしベネディクトとかいう人が『菊と刀』という本で、恥の文化と罪の文化という対比を行なって、日本のインテリはいまだにあれにやられてますね。僕は『世間体至上主義の倫理学』という本を書きたいと思ったこともあるんですが、まあこれは半ば以上冗談ですけど、ともかく恥の文化のほうがずっと健全で、当然そうあるべきあり方だ、とはいえると思いますね。


    □39-40頁
    〔……〕今日の社会状況や思想状況をニヒリズムとマテリアリズムの対立という観点から見てみるのも、興味深いことです。一例をあげると、あらゆる被差別者はマテリアルな闘争とニヒルな闘争を同時に闘わなければならないのですが、これは原理的に両立しがたいのではないか。この両立しがたさの意味を徹底的に解きほぐしていく作業が為されなければならないと思います。
     たとえばですね、歩けることと歩けないことを比べるなら、歩けることのほうが価値の高い、よい、優れた(gut)ことです。〔……〕歩けないことは、「障害」であり、はっきりと、悪い、劣った(schlecht)ことです。この価値秩序の存在を認めたうえで、それゆえに援助やその他の措置を要求するというのがマテリアルなやり方です。一方、この価値秩序そのものをあたかも無いかのように見なさせよう、というのがニヒルな闘争です。これが成就した暁には、差別的な扱いが完璧に消滅して、文字通りまったく平等な扱いが実現しますが、それゆえにどんな援助も得られなくなるはずです。この二つの闘争は原理的に両立しがたいのではないでしょうか。

  • 永井はああでもないこうでもないと言葉をこねくり回しているが、ルサンチマンとは「劣情を正当化する物語の書き換え作業」といって構わないだろう。

    http://sessendo.blogspot.jp/2012/08/blog-post_253.html

  • 積読してたが再開。クソおもしろい。

  • ニーチェの「哲学」のどこを評価するべきなのかを明らかにし、ニーチェ思想の限界に挑んでいる。ニーチェの哲学に正面から取り組み、その概念を著者なりに捉えようという姿勢に非常に感銘をうけた。

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著者プロフィール

1951年生まれ. 専攻, 哲学・倫理学. 慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位所得. 現在, 日本大学文理学部教授.
著作に, 『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房, のち講談社学術文庫),『転校生とブラックジャック──独在性をめぐるセミナー』(岩波書店, のち岩波現代文庫), 『倫理とは何か──猫のインサイトの挑戦』(産業図書, のちちくま学芸文庫), 『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書), 『西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版), 『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店), 『ウィトゲンシュタインの誤診──『青色本』を掘り崩す』(ナカニシヤ出版), 『哲学の密かな闘い』『哲学の賑やかな呟き』(ぷねうま舎), 『存在と時間──哲学探究1』(文藝春秋), 『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』(春秋社)ほかがある.

「2022年 『独自成類的人間』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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