- Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309418292
感想・レビュー・書評
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小説の誕生と、読書という文化、そして読者の位置付けと、面白すぎて頭の中がまだ整理しきれていない。
夏目漱石の抱えた主題は、果たして近代的自我の苦悩か?という所から、自我とは何かということについて考えていく。
結局、自我なんてものはない、のか。
それは、ある種のエゴなのか。
はたまた、玉葱の皮の一つ一つ、自分の中に内在する多様な仮面なのか。
一方で、個としての自分は、共同体に位置付けられる存在でもある。
大衆とは何か。
イデオロギーによって、言葉によって、作者は、読書は、方向性を持たされている。
しかし、そのことは、その時代に亘る共通意識を見えやすくしたのかもしれない。
科学の信奉と、リアリズム小説の誕生。
プロット、振る舞いと内面、主人公、語り手。
それらが、どのような機構によって成り立っているのか、とても分かりやすく書かれている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「読書論」ではなく「読者論」である。小説の読み方は読者の自由であるが、全くの自由ではなくある決まった型があってはじめて成り立つと説く。そして、そのような抽象化された読者が成立したのは高々100〜200年前のことだそうである。漱石が多く取り上げられているのも、私にとっては面白かった。
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第七章 性別のある読者
私にとって興味関心のある題材でもあり、特に考えさせられる内容だった。江國香織の「きらきらひかる」を取り上げている。男女の登場人物の視点で交互に書かれることによって、読者の性別も男と女を行き来しながら登場人物の言動を捉えるという。
章後半の『「男」とか「女」ではなく、固有名詞で好きになる。通過儀礼の後にあるのは、そういう世界である』という節。大らかな眼差しを感じて感動した。読んだことがなかったけど、「きらきらひかる」読んでみたくなった。 -
p.2021/9/3
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いわゆる現代文学を読まなくなって久しいが、文芸批評のこともニューアカで止まっているので、文学研究の〈現在〉を知りたくて、本書を読むことにした。
初めに、近代文学研究の流れを大掴みに教えてくれる。作家論→作品論(1970年代)→テクスト論(1980年代)。そしてこうした展開の背景に、大学文学部やその学生に期待される役割などの変化があったという。
テクスト論という言葉自体は聞いたことがあったが、その内容は良く知らなかった。それは「方法」ではなく、作者に言及することだけはしないという「立場」だという。では何を分析すれば良いのか。言葉である。ここに構造主義が用いる中心/周縁、文化/自然、等の二項対立の方法が用いられる。
この二項対立適応方法を乗り越えようとしたのが、ポスト構造主義であり、「世界は言語である」とする言語論的転回以降の構築主義である。具体的な現れとして、カルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアリズム
という流れがあった。
次に著者は、本書の主題である読者論について論じていく。「想像の共同体」に擬えた『内面の共同体」、すなわち自分とは違った他者にも自分と同じような内面があると感じる志向性を持つ近代小説の読者の成立が重要となる。
この辺りから実作に沿って、作者/語り手/作中人物、そして〈読者〉の関係性が論述されるのだが、古い読み方に馴染んできた自分には、正直理解に苦しむところもあった。
ただ、現代の文学研究がどういった問題意識の下、どういった研究をしているのか、その一端には触れることができたので、著者の主として論じている漱石を読みながら、少しじっくりと考えていきたい。 -
本著の「はじめに」で述べている「内面の共同体」がどういったものなのか、よくわからなかった。しかし、この本を読んで、断片的に得られたものは多かったように思う。
本文引用
p33「テクスト論は作者にだけは分析のベクトルを閉じておくが、それ以外のいかなる要因にも開かれている。つまり、テクスト論は立場であって、固有の方法は持たないのである。テクスト論の立場に立つ研究者はたとえてみればテストパイロットのようなもので、たとえばそのテクストについては一般の読者が採用しないような枠組から読んで、テクストの可能性を限界まで引き出すのが仕事なのだ。」
p40「ワインのボトルにワインが半分入っている状態があるとしよう。これが『事実』(=物語内容)だ。この『事実』をどう語るのか(=物語言説)を研究の対象にするのがナラトロジーなのである。」
p56「私たち大衆が読者になったのはそんなに昔のことではない。」
「第一は、印刷技術による書物の大量生産が可能になること。第二は、多くの人々が読み書きの能力。持つこと。第三は、学校教育によって知的な能力が平準化されること。第四は、特に国語教育と、隠れたカリキュラムと呼ばれる児童や生徒や学生の自主的な学習によって、感性が平準化されること。第五は、黙読ができる能力と空間(個室)を持つこと。第六は、これらの条件を備えた階層が大衆として成立すること。第七は、マスメディアの影響も受けて、特にその階層内では共同体意識が持てること。第八は、それでいて自分が独立した個人であるという意識を持てることである。少なくともこれら八つの条件があってはじめて私たちは近代的な読者となったのだ。」
p58「先の八つの条件は中産階級。成立させる条件そのものだと言える。」
p87「私たちは本を読むとき、さまざまなことを期待している。なぜ期待するのかと言えば、事前に多くの知識があるからだ。作者名、タイトル、本の装幀、本の判型、帯の惹句、広告の惹句、書評などなど、本をめぐるさまざまな知識を、文学理論では『パラテクスト』と呼ぶ。」
p90
「内」、「境界領域」、「外」という三つの位置。そして、それらの領域間の移動によって、物語は四つに分類できる。
①浦島太郎型〈内→外→内〉
②かぐや姫型〈外→内→外〉
③成長型〈外→内〉
④退行型〈内→外〉
p124「『異化』とは、物事を生き生きと表現し、生き生きと読まれるために、物事がふだんそう呼ばれている呼び方を用いず、過度の描写をするように書くことを言う。」
「たとえば、『目の下の隈』と書けばすむところを、『大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄暗い半円形の暈が、怠そうな皮で物憂げに染めていた』と書くのだ。(夏目漱石『道草』)」
p139「感情はその具体的な対象がなくなれば、解消する。」
「しかし、気分はそうではない。具体的な対象を名指すことができないから、解消することはない。いつまでも人を捉えてはなさない。」
p140「芥川龍之介に関する情報、憂鬱の伝染という文学的な気分の系列、横須賀という固有名詞がもつコノテーション(暗示的な意味)。これらのいずれによっても『蜜柑』を支配する気分を説明することができるのである。そのどれを選ぶかは、読者がどういう枠組で『蜜柑』を説明しようとするかによって決めればいい。私は二番目を、ベースとしながら、小品の言葉から引き出せる三番目の説明の仕方を最も重視したい。」
p164小森陽一による「主人公」の定義
→「意味論的場の境界線」を超える者
p168「フェミニズム批評が主人公という制度と関わるとすれば、多くの場合、現実の性別を離れて女性として読むことで『意味論的場の境界線を超える主人公』を新たに『発見』することによってだろう。」 -
本だけあっても、読む人がいないと読書は成り立たない。そこまでは当然のことだと思うが、本を読むことにおいて、読者がどのような機能を果たしているかまで考えることなく読んでいた。一章が単体の書籍でもおかしくないような情報量が、一冊にぎゅっと凝縮されていて、私には一読で咀嚼するのが難しい。各章の内容はそれぞれ興味深いので、ほかの本の参考書として、必要に応じて読み直したい。
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文章が読まれてるとき、そこでは何が起こっているのか。作者、主人公、語り手、読者、それぞれが独立していて、でもつながっている。読んでるときは自分じゃなくなってて、1人で読んでるようで1人じゃない。読み方を考えるって初めてで奥深い。
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小説の主人公、語り手、読者、そして自分の関係を考察する。
そうなんだ、物語を読んでいる時の読者と自分は違う存在なんだ。内面の共同体を構築することで読者になるし、だからこそ同じ作品を読むことで共感が分かち合えるわけだ。さすが石原先生だ。 -
『蒲団』や、芥川や漱石といった、有名どころを例にしているのでわかりやすい。裏返せば、そういった作品が未読な人にはイメージがしづらいかも。
「確かにこういうことあるな」と、読み進めながらところどころ膝を打つ。
決して「読書の仕方」ではない、あくまで「読者」、「読者はどこにいるのか」について書かれている。