小早川隆景: 毛利一族の賢将 (人物文庫 ど 1-23)

著者 :
  • 学陽書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784313751163

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  • 元就には、長男 隆元、次男 元春、三男 隆景がいる。隆景は、元春より頭がいいと言われた。物事をまともに受け止め、慎重に熟慮した後で決断すると評判が高い。元春も猛将との噂は高いが、熟慮断行という点になると隆景に劣るといわれていた。隆景は、豊臣秀吉や黒田官兵衛からも、その才覚を非常に愛されたようである。

    小早川家の先祖は、源頼朝の強力な御家人だった土肥実平・遠平父子だ。かれらの功績の褒美として、備前・備中・ビンゴの3国の守護に任命された。その子孫が、安芸国沼田荘の地頭を命ぜられ、古高山に城を築いた。土肥氏の本家は、相模国の早川に拠点を持っていたため、その早川を取り、本家に遠慮して、少し控えめに”小”を付けて、小早川と名乗ったのである。

    隆景は最初は、小早川の分家の、竹原小早川家の養子となったが、本家の沼田小早川家の当主繁平は3歳の時失明していた。繁平は隆景とも年齢が近く、気が合ったようで、失明していては、小早川家も引っ張ってゆくことが出来ず、隆景に本家の家督を譲ってしまった。沼田小早川家の家臣たちは、はじめは、隆景が本家を乗っ取ったと憤慨していたようだが、隆景の人柄や行動力に次第に惚れていったようである。

    部下に対する隆景の管理法がある。『文書を書くとき、常に急ぐことはゆっくり書け』と言った。急ぐことを慌てて筆を執れば、何度も書き直しをしなければならない。隆景はその過ちを未然に食い止めるために、隆景がいくら急いで口述しても、筆を執って文章にするものは、ゆっくりと1字1字を頭の中でかみしめて書くように言われたのである。他にも、隆景は言う。『人に話をして、すぐわかりましたという者にわかったためしはない。本当にその話を理解する者は必ず質問をする。話の内容を十分にかみしめた上で、こういうことはいかがなものでございますか、と必ずきく。その上で納得し、はじめて分かりましたと言う』と。

    3本の矢の教訓において、元就は1本の矢を折ってみせるが、この矢は隆景のことを指していたようである。隆景は行動力もあり優れているので、本家の隆元を差し置いて、毛利本家の家臣に指示していたこともあり、それを元就がたしなめたようである。また、3本の矢は、後にもう一本足され、4本の矢になったという。そのもう1本とは、元就の長女が宍戸隆家に嫁いだが、その隆家がもう一本となったのである。3本の矢の教訓で元就が特に強調したのは、兄弟力を合わせてというよりも、むしろ、天下の争いに目を向けるな。巻き込まれてはならない。ということだった。

    しかし、世の中は、そんな元就の教訓をそのまま叶えさせてくれるほど甘くはなかった。信長はじりじりと毛利支配権へ駒を進めてきた。3本の矢は、毛利一族の結束を主眼に考えられており、必ずしも部下たちとの結束を強めるところまで広がりを持っていなかった。毛利が築き上げてきた中国地方の覇者としての立場は、地侍・土豪の連合体の上に乗っている、決して支配者ではなく、国人衆を束ねる調整役のようなものだった。地侍や土豪を尊重して、自分の家臣に組み入れる積極性がなかったため、信長陣営に比べ、統制力が欠けていたようである。これが、信長に負けてしまった主たる要因なのではないかと思うのだ。信長は恐怖を持って部下を管理する。少しの過ちも許さず罰を与える。下克上のまかり通る戦国時代を生き抜くためには、その非常さも必要となる。また、信長は、手柄を立てたものには、身分に関係なく、褒美を与えた。その望みを叶えると言うことも戦国時代ではないがしろに出来ないことであった。元就は、中国地方の覇者となった後、『中国地方をひとつの大きな地域と考えて、そこにおける自治を確立し、守り抜こう』と考えた。織田と毛利の戦いは、ナショナリズムとローカリズム、中央集権と地方自治の戦いだったと言える。元就は、我々が中国地方の自治を守り抜いて、天下のことに関心を持たず、また手を出さなければ、天下のほうでも我々を構いはしない。お互いにそれぞれの立場を守り抜けば、それでこの国は平安を保てる。と主張し続けた。が、事態はそんな生易しい形では進展しなかった。

    そんな毛利家も、信長、秀吉に降伏する形で、秀吉に人質を差し出すことになった。また、隆景は子供に恵まれず、元就の9男を養子に迎え入れていたが、毛利家を存続させるため、秀吉の甥を養子に迎え入れ、これに家督を譲る形で隠居した。その養子が小早川秀秋であり、関が原の戦いでは、毛利を裏切り、家康方に寝返って、それが元で関が原の戦いは勝敗が決まったとも言われる。

    隆景には色々な言行があるが、特に彼が愛したのは『一生は夢の間なれば』という言葉だった。信長の時世にも似ており、どこかでお互いに馬が合っていたのではないかと思ってしまった。

  • なんだかむしょーに萌えました。三兄弟めんこいなぁー。

  • 毛利元就の三男で、兄の吉川元春とともに毛利家を支えた知勇兼備の名将小早川隆景を扱った文庫本。

  •  2001年12月30日読了

  • 仲の良い元春・隆景兄弟が微笑ましい。

  • 反抗期隆景。隆元を心の中で小馬鹿にする傲慢隆景。それを妻にいさめられて丸くなる、という今までにない隆景を見た(笑)。
    タイトルも予想外で面白い。「厄病神がやってきた」の厄病神が将軍だとは思わなかった…確かに足利将軍は厄病神だったかもしれないが。
    所々の考え方はドライで隆景っぽい。

    隆景よりも元春に執着する秀吉が怖い(笑)。

  • 著者の「北の国」(だっけ?)を読む前に、文章に慣れておこうと。隆景の本を買ってみました。
    隆景好きなので、ある程度文章がなれなくても読めなくはないかと、と。
    感想としては、うん、エピソードがとびとびだったり、途中で毛利当主が輝元と書いてあるので、あれ隆元は?!と思ったら、後で亡くなったという説明がきていたりして、隆景や毛利のことを知っているひとなら、当たり前に読めるかもしれないけど…というのが少々あったり。
    前の読んだのが、読みやすい江宮さんの本だったので、余計にだったのかもしれませんが、物語としては、少々わかりくにところもありました。
    おもしろくなくはなかったけど、江宮さんのの方が好きだなぁ。

  • なかよし両川…顔を見合わせて笑うシーンが何度か出て来てほほえましいです。ただ最後の段がほとんど説明文だったのでちょっと物足りない感じが。

  • つい3週間前に誕生日もあって、ここ最近では「どんな25年目を?」と聞かれることが多かった。で、今もメッセンジャーでやりとりすることもあって、例えば僕のブログの師匠(僕が勝手に呼んでいるだけ・・・。)には「、(1)24の時より、何かしらかActionする前に一呼吸おけるようになりたい。(2)僕が25年目だからこそ(僕の今までの成功体験、失敗体験、偶然、必然にも頼るけど)できることをしたい。要するに24年間でしたことなかったことをしたい。が基本軸」って言っていました。そこから師匠からはもう一段突っ込まれて、"一呼吸"の意味を聞かれて、僕は「厳密には一瞬落ち着く→判断→行動ってのを身に付けたいなぁって思ってます」と回答。やっぱり判断→行動へ移る前にどれがいいんだろう?とかこれでいいのかな?って落ち着いて考えたい、所謂慎重さを身に付けたいってことかなぁと。
    出張の電車待ちで、JR大阪駅の"bookstudio"で文庫本を探していたときにヒットしたのが":"小早川隆景 -毛利一族の賢将-"(学陽書房)でした。数年前信長の野望に狂っていた時があって、小早川隆景ってぜーったいに配下で欲しい武将だったし。今回の小説の行を借りるなら「地の利・人の和」は少なからずや持っていた武将だったと思う。
    信長が台頭する時代から秀吉が天下人になる時代のダイナミックさというのは非常にスピード感溢れる時代で、ある程度の勢力基盤を持ちながらいかに台頭する人間たちの中で生き残るか?という点では非常に聡明な武将であるなぁと全体像から伺える。しかもこれは著者の童門冬二氏の書き方なのだろうけれど、人物の思考というか腹の底で考えていることを"(XXXXXXX)"で描写してくれているなかでやっぱり僕自身が持ちたいと思う"慎重さ"のモデルなのかなぁとつくづく思う。

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著者プロフィール

歴史作家。東京都知事秘書、広報室長、企画調整局長、政策室長を歴任。退職後作家活動に専念。人間管理と組織の実学を歴史の中に再確認し、小説・ノンフィクションの分野に新境地を拓く。『上杉鷹山』『小説徳川吉宗』など著書は300冊を優に越える。

「2023年 『マジメと非マジメの間で』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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