万物の黎明 人類史を根本からくつがえす (翻訳)

  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (708ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334100599

作品紹介・あらすじ

『負債論』『ブルシット・ジョブ』のグレーバーの遺作、ついに邦訳。「ニューヨーク・タイムズ」ベストセラー。考古学、人類学の画期的な研究成果に基づく新・真・世界史! 人類の歴史は、これまで語られてきたものと異なり、遊び心と希望に満ちた可能性に溢れていた。

感想・レビュー・書評

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  • 人間はずっと人間を誤解してきた:人類についてのあらゆる定説を覆す話題書『Dawn of Everything』 | WIRED.jp(2022.09.10)
    https://wired.jp/membership/2022/09/10/david-wengrow-dawn-of-everything/

    「万物の黎明」 西洋の中心で文明観の反省迫る 朝日新聞書評から|好書好日(2023.11.11)
    https://book.asahi.com/article/15053676

    ◆主従なき遊戯の集団[評]栗原康(アナキズム研究)
    <書評>『万物の黎明』デヴィッド・グレーバー デヴィッド・ウェングロウ 著:東京新聞 TOKYO Web
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/295038?rct=shohyo

    万物の黎明 デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ、酒井隆史/訳 | ノンフィクション、学芸 | 光文社
    https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334100599

  • 【はじめに】
    『万物の黎明』(The Dawn of Everything)と銘打たれた本書は、考古学および人類学的な最新の知見から過去人類がどのようにして社会を形づくってきたのか、また人類の共同体の本質とは何であって、そして何でないのかを語り上げたものである。

    本書は、ジャレッド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』やユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』のようなある意味ではわかりやすいビッグ・ストーリーの受容に対する批判の書であると言える。引いてはさらに遡り、ルソーやホッブスのような近代西洋哲学や社会学のルーツともなる人類の起源に関する論争についても批判するものである。そのことに著者らはずいぶんと意識的であるし、実際に本書の中でも批判的に数多く言及している。これまで語られてきたこれらのストーリーに対して、著者らは読者が喜ぶような分かりやすいストーリーを提供することはしない。古代社会については、完全にはほど遠いものの、これまでの研究によって数多くの事実が積み上げられてきており、今も積み上げられ続けている。この本はそれらの蓄積された発見に基づいた上で、複雑なものを複雑なままに理解をしようとする姿勢に貫かれている。そのため、非常に大部の本となっており、また読み進むにも苦労をしたが、それだけの価値がある本である。

    【農耕革命という神話】
    本書では、まず「農耕革命」という神話が解体される。農耕革命とは、『ホモ・サピエンス全史』などでも人類の歴史上の大きな節目となったものとして挙げられているもので、農耕開始によって、剰余を蓄積する可能性が生まれ、大規模な定住集団が生まれ、都市が形成され、国家が生まれる契機となったというものである。著者らは、このような単線の歴史を是としない。なぜならそれは理解しやすいストーリーかもしれないが、真実ではないからだ。それらは、「もっともらしい」ストーリーであるが、何らかの証拠に基づくものではなく、すでに聞かされた話の焼き直しであるから、すんなりと受け容れられただけなのだ。実際には、農耕は必ずしも私有財産を生んだわけではないし、身分階層や不平等を生んだわけでもなく、また不可逆的な過程ではない。農耕に適したコムギなどの植物の栽培が始まってから、完全に穀物が農耕として定着するまでにある地域では三千年もかかっている。人類はそれを慎重に適切な形で受容してきた。また、都市化が身分や官僚制度を必ずしも伴っていたわけではない。どちらかというと人類は「平等な」社会を維持することに長けていた。少なくとも永続化したヒエラルキーを持つことを避けてきたし、その構築と解体を繰り返してきたようなのだ。ここで「平等」というのは、その社会が最も重要とする価値が平等に分配されているということに誰もが納得している社会であるといったん規定している。社会的ヒエラルキーや不平等、私有財産の起源となる農耕革命、という神話の解体が本書の目的のひとつでもあった。

    【自由と平等】
    著者らは、人間の自由について考察を進める。近代社会は自由な社会だと言われる。一般に現代の先進国は自由な社会だと思われているが、その自由とは、経済的な条件や社会的な条件が揃えば自分の意志で何かをすることができるというものだ。果たしてそれをもって自由と言うことができるのか、昔の社会には自由がなく、近現代の歴史において自由が獲得されたという歴史観への疑問が本書が問いかけるものである。著者らは自由の定義について、三つの基本的な自由を挙げる ― 移動する自由、命令に従わない自由、社会的関係を再構成する自由 ― だ。移動するための時間や費用もなく、組織で上司の命令に背くことができないような場合、何をしても自由であると言っても、それは形式的自由であり、実質的自由を有しているとは言えない。これらは過去において十分に確保されていた時代があった。「遠方の地で歓迎されることがわかっているうえで、みずからの共同体を放棄する自由、季節に応じて社会構造のあいだを往復する自由、報復をおそれず権威に服従しない自由」が現代と違って遠い祖先にとっては自明のことであったと著者らはまた、不服従の自由についても、本当に謎なのは、首長や王、あるいは王妃がいつ登場したのかではなく、彼らを笑い飛ばすことができなくなったのはいつのなのかということなのだ。同じく 私的所有がいつ起きたのかではなく、どのようにして人間的事象の多くの局面を秩序付けることになったのが問われるべき謎として提示される。

    自由に関しては、コロナ禍において行われた社会的な自由の規制が受け容れられたことが想起される。そこでは、基本的自由とされる移動の自由と命令に従わない自由が著しく制限された。哲学者のアガンベンがこれに対して激しく反応をしたが、一般的にはそれはある種のやむを得なさであり、命の代償として受け入られたし、何となれば積極的に自ら受け容れることとなった。そこに対しての反応が薄かったことは、現代社会の何らかの自由に関する側面を示しているように思えた。

    第二章に置かれ、またその後も何度か言及される非西洋的思考を象徴する17世紀の北米インディアンがヨーロッパの住民と遭遇したときに示した態度から、自由と平等に重きを置き、倫理的な態度を堅持するその姿が浮かび上がる。そして、彼らの眼から見たヨーロッパの社会と住民は自由でも平等でもなかったのである。北米インディアンのウェンダックの哲人カンディアロンクの眼にはヨーロッパの特にイエズス会の思想は異常なまでに尊大で受け入れざるものであると映ったのである。北米インディアンについては、文化圏に関する議論も興味深い。北米大陸北西海岸と現カリフォルニア州太平洋側での文化の違いがなぜ発生し、継続したのかが考察されている。両者では奴隷の有無においてまず異なる。またカリフォルニア州内の集団間でも違いが生じている。その動因のひとつには、隣人に対して自らの文化を差異化することを挙げている。そこに可能性としての文化の多様性を見ることができるのである。

    【近代国家と文明】
    著者らは、支配の三つの原理 ― 暴力の統制、情報の統制、個人のカリスマ ― を措定する。
    近代国家は主権、官僚制、競合的政治フィールドの組み合わせとして定義される。しかし、過去を振り返るとこの三つがそろっている必要はどこにもないことがわかる。「近代国家は、人類史のある時点でたまたま束ねられた諸要素の集合体であり、まちがいなくふたたびほどけていく過程にある」という。現代の民主主義は、大物たちの繰り広げる勝敗ゲームにすぎず、それ以外の人間はほとんど野次馬に近いと指摘する。そこには本当の意味での政治的平等性も民主主義もないのである。

    支配の原理として挙げられる暴力に関して、恣意的な暴力の行使であり、恣意性こそが権力を示すものであった。マックス=ウェーバーも国家の役割とは暴力の独占である、と言っている。著者らも、国家は「例外的暴力と、表向きにはすべてがケアと献身に奉仕している複雑な社会的機械の結合」であると考える。国家の共通の特徴は、「ケアリングの衝動を抽象的なものに置き換えようとする傾向」であり、この抽象的なものこをが「国民(ネーション)」と呼ばれている。
    そして、この国家はどこでも歴史の進歩の過程で生まれてきたものではないと理解されるべきである。エジプト王国とインカ帝国を国家の原初的事例として取り上げられ、「主権の原理が官僚制で武装し、テリトリーを一様に拡張することに成功したばあいになにが起こるか、その可能性を示唆している」が、これは例外的事象であったのかもしれないというのが著者らの主張だ。仔細にその考古学的史料を検証すると、メソポタミアでも、マヤでも、中国でも事情は異なっていた。

    そして、近代国家と文明と呼ばれるものについて、以下のように批判する。「文明とは、世界秩序の理想であれ、飽くなき神々の祝福であれ、つねに手の届かないもののために基本的な三つの自由、そして人生そのものを犠牲にすることに等しい。... これまで「文明」と呼ばれてきたものは、実は、女性を中心とした以前の知的体系を、男性がジェンダー的に流用し、その主張を石に組み込んだものにすぎないのかもしれない」

    【そうでなかった可能性について】
    著者らがこの長い書物で主張していることのひとつは、別であったかもしれない種類の社会の可能性である。

    「いったん出来事が起こってしまうと、なにか別のことが「起こりえた」ということすら考えがたくなってしまう。歴史には、事前に予測ができないということと、一度きりしか起こらないという性質がある。そして、現在の世界においては地球全体がひとつのグローバル・システムとなってしまったことによって、近代国家や産業資本主義が必然であったのか他の在り方があったのかを比較によってその可能性を確かめることが至極難しくなっているということなのである」

    たとえばユーラシア大陸と分離されたアメリカ大陸の歴史を見てみると、農耕の発生と君主制の出現は必ずしも必然ではなかったということができるというのが著者らの主張だ。そこでは、バンドや部族から首長制などの社会の進化の定義も当てはまらない。農耕についても、いったんその技術を獲得した後でも、その必要がなければ離脱する動きも見られた。著者らは、社会の多様な可能性をここに見ている。ダイアモンドやハラリらのビッグストーリーに対する批判の射程を超えて、ここではより一般的な疑問を突きつける。つまり、今の現代社会、国家、資本主義的社会、は必然的帰結であったのか、ということである。

    著者らは本書で紹介された彼らの営みを、「わたしたちの祖先に完全なる人間性を復権させる歴史学」と位置付ける。先史時代の人類の考えは極めて多様であり、またその考えはそこから一本道に進化したというようなものではなかったことを示す。人類の集団が、バンド、部族、首長制、国家という段階を取り、経済的発展と拡大を遂げてきたという考え方は否定される。過去の人類や非西洋の集団がそのロジックに決定的に当てはまらないのだ。

    考えると、彼らが救い出そうとしているのは、今このようにある世界が、そうではなかったかもしれないという可能性であるように思う。著者らは、「この世界がひどくまちがってしまったのは、疑う余地がない」という。一部の人間に権力が集中し、他の人間たちの運命を支配するような世界になぜなったのかを問う。その答えを求めるための材料をこの本では語っているのだ。そう考えると、これまでの歴史は、自由と平等の喪失の歴史と捉えているように見える。なぜ、古代には保持されていた平等と自由を人類はこのように失ってしまい、それを確固なものとして受け容れるようになったのかが、著者のここで伝えておきたいこととなっているのだ。

    【最後に】
    本書は2023年12月時点で、kindle版・紙の書籍ともに5,500円だが、分量と質ともにその価値はあろうかと思う。共著者の一人のデイヴィッド・グレーバーは本書が刊行される直前に亡くなっている。この本を読むととても残念なことだと思わざるを得ない。『ブルシット・ジョブ』の著者としても有名だが、彼の主要作は『負債論』だと目されており、本書でも多くの参照がなされている。ぜひ、『負債論』を6,600円の価格を付けて売っている出版社(以文社)はkindle化(と、できれば値下げを)実現してほしい。

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    『ブルシット・ジョブ』(デヴィッド・グレーバー)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000614134
    『サピエンス全史 (上)』(ユヴァル・ノア・ハラリ)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/430922671X
    『サピエンス全史 (下) 』(ユヴァル・ノア・ハラリ)のレビュー
    http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309226728
    『銃・病原菌・鉄 (上)』(ジャレド・ダイアモンド)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4794210051
    『銃・病原菌・鉄 (下)』(ジャレド・ダイアモンド)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/479421006X

  • 「よりよい問いを発しよう」という訴えがこの本の根底にはある。それは、仮に本書の問いが「不平等の起源を問う」という事であった場合、最終的な結論が「人類の本性として卑しむべき在り様に警鐘をならし、ささやかに手をくわえる」ことくらいだということがわかっているからだ。それとは異なる結論――つまり「不平等の起源など存在したなかったのではないか」ということこそが切実なる訴え本書を支えている。
    人間は生まれつき凶暴な生き物であり、人類史とは始まりからいまに至るまで暴力に彩られている。であるならば「進歩」「文明」とは人間の競争を好む性質を動力としての救済となる。このようなストーリーはわかりやすく、特に億万長者からは非常に人気のある考え方だ。
    だが、人類史をたどると、そういった楽観的説話には明白な欠点があることがわかってくる。それは、もしそのような西洋的な文明が”そんなにいいものなら”、なぜ自然と世界中に広がっていかなかったのかということだ。ヨーロッパの権力者たちが500年近くもかけて、頭に銃口を向けながら強制的に採用しなければいけなかったのかの説明がつかない。

    つまり、あらゆる人間が、私たちが典型的に現代的なものとみなしているような高度に創造的な方法で考え行動する様式は、かつて歴史の中に実在していた。
    が、それは私たちの直感に反してしまう。遠い過去の人々が、私たちが直面している不平等の問題を解決――問題とさえみなさないような洗練された社会を形成していたということはまったく直感とは異なるがゆえに容易には受け入れられない。
    「ビッグ・ヒストリー」の多くは、技術革新として農耕だったり馬だったり鉄だったり虚構こそが、人類の進歩においてブレイクスルーを起こしたと記述し、そこに至るまで人間社会が取りうる形態を排除してしまう。テクノロジーが重要であることはいうまでもないが、それを過大に評価することで、抜け落ち、見過ごしている過去の社会があるのではないだろうか。

  • いい本なんだけど、どこからどこまでがグレーバーのアイデアで、どこからがウェングロウのアイデアなのかがあまりはっきりしていない印象があった。斬新な価値観、西洋中心主義への揺さぶりは、グレーバーが提唱せずとも西洋の文献には存在する。グレーバーがそのことを知らなかったはずはない。本当はもっと別の内容を、グレーバーが一人で書きたかったのかもしれない。

  •  本文だけで二段組約600頁の大著、しかもその内容が帯によれば、「考古学、人類学の画期的研究成果に基づく新・真・世界史!」というのだから凄い。
     人類史20万年で分かっていることはごくわずか。しかし現実にはルソーの『人間不平等起源論』かホッブスの『リヴァイアサン』で示された発想の二者択一で、それをアップデートしたものが語られているに過ぎないと著者たちは言う。例えば、農耕の発明により「バンド」から「部族」へ、さらに「首長制」→国家へであったり、狩猟採集、牧畜、農業、工業といった生産様式の変化などなど。ベストセラーらとなったビッグ・ヒストリーの著者たち(自分も大変面白く読んだ)、ハラリ、ダイアモンド、ピンカー等も、これまでの常識に安住しているとして批判される。

     17世紀末のアメリカ先住民の哲学者=政治家カンディアロンクによる当時のヨーロッパ社会に対する批判の紹介から始まり、トルコの前9000年頃からの遺跡ギョベクリ・テぺ、前1600年頃にアメリカの狩猟採集民により建造され、商品文化の痕跡のないポヴァティ・ポイント、前100年頃から後600年頃まで存続し、多くの絵画芸術が残り、また居住用アパートメントが作られたメソアメリカのテオティワカンなど、これまで聞いたことのない考古学的遺跡から分かってきたこと、また素朴で単純な未開人といったものではなく、高度な政治や外交が行われ、また”所有”に関する考え方がそもそもローマ法やロック流のものではない別の在り方があったことが明らかにされていく。

     これまで常識とされてきた社会の拡大、国家の成立、支配と被支配といったことに関して、別の人間社会の在り方があったことを最新の証拠によって明らかにするとともに、今後もあり得ることを著者たちは強く主張する。訳の功績でもあろうが、著者たちの主張は明晰で論理展開は分かりやす。ただ、あまりに膨大でこれまで知らなかった情報が次から次へと出てくるので、その内容を消化するだけでも一苦労だ。しかし、既成観念を打ち壊されるのはある意味快感である。

     40ページ以上の訳者あとがきがあるのも、膨大な本書のエッセンスを解説してくれるものとして、とても参考になりありがたい。

  • 人文系の知見もなければアカデミック畑でもないただの素人が読むにはいささか冗長だし情報量がエグくて脳が破裂しかけるけど面白かった!通読して良かった。

    コムギの奴隷であるホモサピエンス、というような人類史のビッグストーリーに新たな視点を提供する、というライト目な縦軸でも面白く読めるし、それだけではないのでいろんな人に読んでほしいなと思います。

    個人的にはあとがきの熱量もとても良かった。

    鈍器本なのでKindleおすすめ。

  • 暗黒時代とは、進化論の視点から現在を中心として歴史を観 察したときに現れる異分子を指している。本書は発展段階の 秩序空間に存在しえず、エラーとして意義付けされたすべて の可能性を肯定的に読み返す。すると、そこに現れるのは進 化の奴隷から開放された遊戯の人類史であった。

    個人的に、千のプラトーの直後に本着を手に取れたことが僥 倖だった。歴史の境界線を反復横とびする自由な欲望の形態 が、具現的な形で理解できる。

  • 考古学者と人類学者の共著のビッグヒストリー系なんだけど、ハラリやダイアモンドが前提としていることを否定する。
    ビッグヒストリーを書いてきた思想家はルソーとホッブズとの考えの間を行ったり来たりしてきたが、どちらも真実ではない。古代の人や未開の人は我々が思っているような未熟な人ではなく我々と同様に思索する人々だった。アメリカ先住民は西洋を批判していて、ヨーロッパ人は彼らから多くのことを学んでいた。社会的不平等に起源があると考えるが、それは農耕によって不可避的にもたらされたものではない。本当に問題にすべきは社会的不平等の起源が何かではなく、どうして閉塞したかにある。人類はそれまで様々な社会組織の間を往復しヒエラルキーを築いては解体してきた。新石器時代の農耕は長い時間をかけて進化しており、革命と呼びうるものではなかった。戦国時代の小氷期がアメリカ先住民の人口減少によるものである可能性。文化は他集団との違いを強調するためのもので、これが閉塞の一つの条件。ヒエラルキーの痕跡のない都市や共同体。現代の国民国家が決して自明のものではないこと。
    翻訳者も凄い、これだけ専門性高いものを読みやすく訳して。

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著者プロフィール

1961年ニューヨーク生まれ。ニューヨーク州立大学パーチェス校卒業。シカゴ大学大学院人類学研究科博士課程(1984-1996)修了、PhD(人類学)。イェール大学助教授、ロンドン大学ゴールドスミス校講師を経て、2013年からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。2020年死去。
訳書に、『アナーキスト人類学のための断章』(2006 年)、『負債論──貨幣と暴力の5000 年』(2016 年)、『官僚制のユートピア』(2017年、共に以文社)、『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(2020年、岩波書店)ほか。
日本語のみで出版されたインタビュー集として『資本主義後の世界のために──新しいアナーキズムの視座』(以文社、2009 年)がある。
著書に、Lost People: Magic and the Legacy of Slavery in Madagascar (Indiana University Press, 2007), Direct Action: An Ethnography (AK Press, 2007). ほか多数。
マーシャル・サーリンズとの共著に、On Kings (HAU, 2017, 以文社より刊行予定)、またグレーバーの遺作となったデヴィッド・ウェングロウの共著に、The Dawn of Everything(Farrar Straus & Giroux, 2021)がある。

「2022年 『価値論 人類学からの総合的視座の構築』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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