闇の奥 (光文社古典新訳文庫 Aコ 3-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (231ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751913

作品紹介・あらすじ

船乗りマーロウはかつて、象牙交易で絶大な権力を握る人物クルツを救出するため、アフリカの奥地へ河を遡る旅に出た。募るクルツへの興味、森に潜む黒人たちとの遭遇、底知れぬ力を秘め沈黙する密林。ついに対面したクルツの最期の言葉と、そこでマーロウが発見した真実とは。

感想・レビュー・書評

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  • 以前から気になっていたジョゼフ・コンラッド(1857~1924イギリス)。表題も魅力的(原題『Heart Of Darkness』)だし、なんといっても黒原敏行さんの翻訳なので嬉しくて読んでみた。
    小説の主な舞台は1890年代、中央アフリカのコンゴ自由国(ベルギー国王領)。その周辺にはフランス、ドイツ、イギリス、ボルトガルなど欧州列強の植民地支配と交易が広がっている時代。

    ***
    貿易商の船乗りに採用されたマーロウ。その目的地は、決して生きては帰れないといわれていたアフリカ・コンゴ自由国。彼の地に象牙交易で絶大な権力を握った人物クルツを救出するため派遣される。未知なるアフリカの奥地を目指して大河をさかのぼっていく彼が目にしたものは……。

    「……中に入るとすぐ、冥い地獄の第何圏かに足を踏み入れてしまったことに気づいた。……黒い人影が、木々の間にうずくまり、横たわり、坐り、幹にもたれ、地面に這いつくばっていた。……その木立は事業を手伝った人たちの一部が死ぬために引きこもる場所なのだ。……海沿いの各地から合法と不法の色合いもさまざまな年季契約で連れてこられ、身に合わない環境に置かれ、慣れない食べ物を与えられ、病気になって効率よく仕事ができなくなると、作業場から這い出して、身を休めることが許される。この瀕死の影たちは空気のように自由で、空気のように薄かった」

    抒情を極力排した描写がみごとだ。ダンテの『神曲』になぞらえて、列強の蹂躙と強奪の地獄絵図となったアフリカ。人々の状況が垣間見えてくると、思わず息をのんでしまう。
    一方、奥地で人々を使って象牙を乱獲し、絶大な権力をにぎった白人クルツ。支配者からしだいに神聖化していく謎の男はひどく気味が悪い。果たしてクルツは本当に存在するのか? 常軌を逸したうわさ話ではないのか?
    かつて密林のなかでクルツに出会ったという白人青年は言う。

    『「彼らはあの人を崇拝していました」と言った。その言い方が尋常ではないので、俺はまじまじと青年の顔をみた。興味深いことに、クルツのことを話したい気持ちと、話したくない気持ちが入り交じっているようだった。クルツはこの青年の人生を満たし、思考を占め、感情を揺さぶる存在なんだ』

    読み進むほど、クルツはその後に書かれたジョージ・オーウェル『1984年』の偉大な指導者ビック・ブラザーと重なってくる。なるほど恐怖圧制と神聖化は人を支配する根源的な要素だ。おそらくクルツという人物は、象牙交易で私腹を肥やし、植民地の人々に恐怖を強いたベルギー国王レオポルト2世をモデルにしているのだろう。

    解説によると、19世紀末のイギリスはアフリカや黒人といった「商品」が流通し、他者を自分の価値体系に隷属させる帝国主義の枠組みはレジャー化されていた、という。
    思えば、未知との遭遇は、裏を返せば無知蒙昧との遭遇でもある。しかし、それが人々の意識に明確に認識されるのは、さらにあとの時代まで待たなければならない(ところが現時点になっても認識していない大国があって、少数民族や南沙諸島の人々を脅し虐待している)。それゆえ帝国主義の帰結は、強欲な資本と結びついて、どれもこれも原住地の人々への虐待、殺戮、圧制支配、広大な土地や森や海を無秩序に切り開いて強奪し、生き物や自然の破壊と搾取の連続となってしまう。

    この点、西アフリカ・ナイジェリアの作家チヌア・アチェベ(1930~2013)は、コンラッドを名指しして、「骨の髄まで人種差別主義者(レイシスト)」、「腹立たしく嘆かわしい書物」と痛烈な批判をしたことでも有名だ。もちろん、それとは正反対の評価もあり、いまだ二分されているよう。

    それらを云々するほど私はコンラッドとアチェベという作家のことを知らない。読了して素直に思うのは、他者を差別し、己に隷属させようとする心理は、人間の内奥に巣くう恐るべき妄執ではないだろうか。そして決してのぞきたくはないそれは、いつの時代でもどこの国でも、人間であれば誰でももつ普遍的な業のようなものではないのかと思うとき、自分もそのひとりなのだ……と気づかされておぞ気立つのだ。

    また本作はリアリズム作品というより、もうすこし形而上的な雰囲気とその時代からわき立つ虚無の漂う作品で、比ゆも多用されている。そのためサクサク読み進めることはできない。油断すると物語の磁場からはじかれてしまい、いま・ここの現実に戻されてしまう。それでも物語の緩急に慣れてくると、その手アカのついていない比ゆたちは、まことに幻想的で美しい。それに呼応するように、黒原訳も彫琢された言葉を繰り出す。

    いや~これはすぐに再読したいものだが、その前にアチェベ作をながめてみたい。本作がこのようなレベルにある以上、それを批評したアチェベの作品もオモシロに違いない。なぜなら同様のレベルの作品でしか真の批判の応酬は成り立たないのだから……しかも、いまだにそれが取り沙汰されているのは驚きだ。

    とにもかくにも、コンラッドとアチェベ、二人の作家と作品に出会える読書の歓びは何にも代えがたい、そのきっかけを与えてくれた翻訳者黒原氏にも感謝している。(2020.7.3)

  • 解説を読むと、この光文社古典新訳版で、なんと四人目の訳者になるらしい。それだけ、魅力のある作品だということなのでしょうが、読者それぞれに想像させる描写が多く、物語の筋は分かるけど、そこから何を問いかけているのかが、難しく感じた。

    初読で私が感じたことは、単純だけど、改めて植民地の概念って何だろう? ということです。

    いきなり、知らない国の人たちがやって来て、特産品をいただくので、ただ働きしてくださいみたいな、現地の人にしてみたら、何言ってんの、ってなるであろうこの感覚は、私の理解の範疇を超えている。それなのに、見た感じでは、当然に受け入れたかのように働いている現地人の姿の描写が痛々しく感じた。

    物語でクルツが、最後に何を見たのかは今でも分からないが、マーロウが感じた畏怖めいたものは、原初の自然の奥深くの見えない部分に、これまで経験したことのない常軌を逸したものを知覚したのだろうと思っています。改めて日にちをおいて、再読したい。

  • ジョゼフ・コンラッドの代表作。原題はHeart of Darkness。
    フランシス・コッポラの映画「地獄の黙示録」の原作としても知られる。

    200ページそこそこと中編といってよい長さだが、なかなかの難解さである。比較的読みやすいという版にしてこれだと、他の版はどうなのか、むしろ興味がわくほどである。
    コンラッドはそもそもロシアの生まれで、幼少期から青年期まで、ロシア語、ポーランド語、フランス語を使用した経験を持つ。長じて船乗りとなって英国船で航海をした際に英語を身に付け、この最後に学んだ英語で小説を書いたという。
    もちろん、語学的な素養も才能も十分にあったのだろうが、もしかしたら英語のみを読み書きする人とは少し感覚が違ったのではないだろうか。彼が綴ったのは、先入観にしばられない、いささか個性的な英語なのではないか。
    私自身は、1作のみを、しかも邦訳で読んだだけであり、憶測でしかないのだが、何となくそんなことも思わせる、ごつごつする「わかりにくさ」を感じる。

    さてそうした筆致で描き出される物語だが、このストーリーがまたわかりにくい。
    語り手であるマーロウは、コンラッド自身の若き日を投影した人物と思われる船乗りである。マーロウはかつて、アフリカの奥地の河を旅した経験を語る。それは縁故採用で雇われた貿易会社の任務だった。象牙売買に携わる社員クルツが病気になったため、助けに向かうことになっていた。ところがなかなか旅は先へと進まない。あれやこれやとおかしな出来事があり、困難が行く手を阻む。マーロウがようやく出会ったクルツとはどんな人物だったのか。

    多義性を孕む物語である。多くの部分が読者に委ねられていると言ってもよい。そのためということかどうか、本作は高く評価する人もいれば、唾棄すべきと嫌う人もいる。
    受け取りようによっては、これは、植民地支配の暗部を描いた物語であり、なるほど西洋から見た「未開地」の物語としても読めそうではある。
    だが、個人的には、この物語でコンラッドが描こうとした主眼は、そこにはないように思った。微妙に白人至上主義があり(あるいは少なくとも否定はされず)、そもそも植民地貿易がなければ生まれなかった作品ではあろうけれども。

    一番鮮烈な印象を残すのは、「魔境Darkness」そのものの底知れぬ闇である。
    そこにあるのは、原初的な恐怖だ。
    文明社会のすべての秩序、決まり事を取っ払った奥の奥にあるもの。
    理性がもたらす因果関係による恐怖、例えば「殺されそうだから怖い」というようなものではない。ただもう声にならない叫びをあげて、それでも逃れられないような、裸の、ナマの恐怖。
    クルツは、毀誉褒貶の激しい、得体の知れない人物として描かれているが、クルツ自身もある意味、この闇の「魔」に呑み込まれてしまった人物なのではないか。

    西洋がアフリカと出会ったとき、確かに搾取はあっただろう。清廉潔白ではなかったろう。
    けれども少なくとも前線にいた船乗りたちは、自らの理解しえないもの、現在だけでなく永劫にわかりえないであろうものとも出会ったのだ。
    密林の奥のさらにずっと奥で。脈打つ心臓のようにぬめりとした魔物に。

  • 辺鄙な場所に赴任したら、
    空き家をタダで貸してもらえるとて、
    一人暮らしには広すぎる田舎の一軒家で、
    夜は虫の声を聞いて過ごす羽目になった人が言うには、
    数日も経つと誰もいないはずの奥の部屋が
    ざわめくことに気づいた、とか……。

    もし、放り出されたのが電気も月明りもない、
    真の闇の中だったら、どんな気分になっただろう。
    そこにないはずのものが見えるような錯覚に陥ったり、
    幻聴に怯えたりしなかったろうか。

    これは19世紀末、ヨーロッパ帝国主義時代のアフリカで、
    収奪に邁進した企業の
    有能な社員が呑み込まれた暗黒についての話。

    大変有名な映画(恥ずかしながらこれも未見)の
    原案に採用された小説なので、
    ストーリーは人口に膾炙しているが、
    さて、実際はどんなものかと、
    読みやすくて気に入っている古典新訳文庫版を
    手に取ってみた。

    船員マーロウは気心の知れた仲間たちと共に
    遊覧ヨットに招かれ、一同に思い出を語った。
    マーロウは、かつてベルギーの貿易会社に入って、
    植民地であったコンゴ自由国へ向かい、
    象牙の輸出に活躍する
    クルツという名の責任者の噂を耳にして、
    彼に強い関心を持ったという。
    接触する者を激しく魅了するか、
    または逆に――
    仕事のやり方で意見が対立するためだが――
    ひどい嫌悪感を抱かせるか、
    両極端な反応を引き起こすクルツは、
    得体の知れない深い闇に捕まり、
    その色に染まってしまったらしい。

    作者の経歴を反映したと思しきマーロウの、
    育ちはいいが諸般の事情で荒くれ者に交じって働き、
    時には喧嘩腰で事態を解決していく様が小気味よく、
    彼のキャラクターに惹きつけられて
    グイグイ読み進んでしまった。
    マーロウはクルツが魅入られた深淵の正体を
    恐れながら理解し、
    囚われるも逃げ帰るも判断は紙一重だと考えた様子。
    これは過去の忌まわしき時代の遠い地での物語だが、
    彼らが覗いた闇の奥に潜む魔物は、
    現代の我々の傍らにも蠢いているのかもしれない。

  • 「闇の奥」とは、直接的には植民地時代のコンゴ河の密林の奥であり、また人間の(そして自分の)心の奥のこと。自分の(そして人間の)言葉や思考の奥底に潜む謎や真実のこと。

    『怖ろしい!怖ろしい!』その最期の言葉は一体何のことを示しているんだろう?
    それは単純に、象牙のために残虐非道を尽くした人間やその時代や、またはヴィクトリア朝時代のロンドン市民ではなくて、私自身の経験とそれに基づく普段の行動や考え方の奥底にある何かであるに違いないんだ。
    事実、短い一文に自分の直視したくない姿を見つけてしまう。これを読む時の自分の状況や考え方によって、具体的なものはきっと変わるだろう。

    「闇の奥」を冒険小説と呼ぶのなら、コンゴ河の奥の密林を遡る植民地時代のお話ではなく、自分の心の姿を直視するための怖ろしい冒険…なのだなと思った。
    再読しよう。

  • 素晴らしい翻訳で熱帯のジャングルの人を寄せ付けない世界の出来事とそんな世界が生み出した人物の難解な物語を一気に読ませる。物語は夜更けのテムズ川に浮かぶ船の上で船乗り仲間にコンゴ川での経験を振り返って語るという、語りの形式で、マーロウの語りを聞いている人物が小説の中にも存在していて、語りを聞いている人物が主体となっている入れ子的な構造。ほとんどの部分はマーロウが主人公の視点となっているが、あえてそれを客観的に聞く人物を儲けることでアフリカでの出来事が幻のように遠い世界の話に聞こえる効果もある。
    クルツがどのような存在なのか。これはほとんど暗示的に示されるばかりで善か悪かも判然とはしない。かつて優秀で優れた人格を持っていた人物のように見え、アフリカの奥地での生活が彼を変えたというのではあまりにも単純に感じる。クルツには人間の本来持っている可能性の極端さが表れているのかもしれない。「怖しい、怖しい」というのはそんな人間の本質への怖れなのか。というのも浅薄か。

  • すごい話だなあとは感じるのだ。
    がしかしそれを面白く思えるかどうかは別物。
    私にはこの小説のユーモアは一切感じとることはできなかった。
    ただ、そこにあるのは人の愚かさと欲望と死と汚れで、それらをエサにして、完全に包み込む圧倒的な闇。
    光は欠片もない、つまりはそこに神はいない。
    映画、地獄の黙示録の原作らしい、さもあらん。


  • 濃密な文章で読みやすくはないが、そのおかげでアフリカの奥地の猥雑な雰囲気が伝わってくる。
    文明からかけ離れた未開の地に足を踏み入れることは、想像を絶するような体験なのだろう。正気を保てず狂ってしまうほど。怖しい!

  • 何が起きたのか全然わからなかったぜ…だが美文と言って良い抽象的で感傷的な文章がクトゥルフ神話の様に作品中ずっと陰惨な美しさと醜怪さと裏寂しさを語りかけてくれるのでさくさくと読めた。クルツが何をそれほどの狂気をしめして何をやったのか、一部を除いてよくわからない。クルツというのは記号であって、それを取り巻く周囲の反応を見るための装置ではなかったのだろうか、としか考えられなかった。時間があればまた違う訳で読んでみたい。クトゥルフ神話のようによくわからない陰惨な魅力があった。

    マーロウが陰惨な闇の奥を体験して、帰ってきて女に出会い、嘘をつく、というのがマーロウがなんとか現実と折り合いをつける儀式なのかもしれない。

  • 流石に古典に点数を付けるなんて畏れ多くてできないので。勿論、地獄の黙示録経由でプライムリーディングにあったので読んでみたけど、翻訳が黒原さんでラッキー。まさにホールデン判事(実在のモデルもいるようだが)の根底にクルツ氏がいるのは間違いない。また、訳者解説にあるようにクルツ氏の振る舞いを通した植民地支配への批判というより、実存的な恐怖を描くものという解釈に同意。支配人や巡礼に比べ、ロシア人やクルツ氏自身が魅力的に描かれていることは明らか。だからこそ今読んでも面白がれると思う。最後に蛇足的に婚約者が出てくるところは時代かなぁ、と。

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著者プロフィール

1857年ロシア領ポーランド生まれ。商船員として世界を航海したのち、1895年作家デビュー。99年『闇の奥』を発表。本書のほか、『密偵』『西欧人の眼に』など、現代にも通じる傑作を数多く遺した。

「2021年 『ロード・ジム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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