- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752736
感想・レビュー・書評
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道徳的である(この表現は正確さが足りない)ことは予想以上に困難であることが判明。私の考える道徳というものはカントでいうところの適法性の道徳でしかなかった(振る舞いとしては倫理的と言えると思うけど)。
教会の悪いところは、悪がそこにあるからではなく善の代用品があるからだ、というヴェイユの言葉を思い出す。
最高善という概念は魅力的であるけれど、逆接的に神はいないと言っているように聞こえる。別にいいんだけど。都合の問題なのかとふと思ったり。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
《目次》
第一部 純粋実践理性の原理論
第一編 純粋実践理性の分析論
第三章 純粋実践理性の動機について
純粋実践理性の分析論の批判的な解明
第二編 純粋実践理性の弁証論
第一章 純粋実践理性一般の弁証論について
第二章 最高善の概念の規定における純粋理性の弁証論について
一 実践理性の二律背反
二 実践理性の二律背反の批判的な解決
三 思弁的な理性との結合における純粋実践理性の優位について
四 純粋実践理性の要請としての霊魂の不滅
五 純粋実践理性の要請としての神の現実存在
六 純粋実践理性一般の要請について
七 純粋理性の認識を思弁的に拡張せずに、同時に実践的な意図からみた純粋理性の拡張を考えることは可能か
八 純粋理性の必要から生じる〈真とみなすこと〉について
九 人間の認識能力がその実践的な使命に賢明に適合し、調和していることについて
第二部 純粋実践理性の方法論
結論
解説 中山元 -
自然法則の理論を客観的に認識する思弁理性(『純粋理性批判』)とは別に、主観的な人間の行為の意志を規定する理性の使用、すなわち実践理性があると考えられる。なぜなら、全てが絶対的必然ならば、人間はたんなる自動機械であり、自由はないからだ。しかし、理性の事実として人間には良心、道徳が備わっている。すなわち善悪の結果を生む道徳的行為の選択の自由がなければ、道徳法則を意識することはできない。ただし、ここでの道徳的行為は、結果・内容としての主観的に多様な快や幸福を求める感性的な意志規定を含まず、行為のみの形式(定言命法)の義務に限られる。自由の可能性の条件である道徳法則は、叡智的な徳と感性的な幸福が一致する最高善を想定しており、その到達できない完全性は、無限の努力としての主体の魂の不死を要請する。そしてその最高善への過程を保証する神が要請される。このように、主観的(=客観的実在性の信)で内在的な理性の使用という実践的課題に限って、実践理性は、思弁理性を越えて、理性を拡張しうる。
この道徳哲学の理論は、神を否定すれば研究者としてのみならず命が危ないという時代的な背景もあってか、キリスト教に反しないよう、キリスト教から逆算しているようにも読める。その一致は、終盤の第2編第2章の5で明かされる。つまり、神の国や掟は、実践理性の厳しい要求を満たすとするが、むしろ『実践理性批判』がキリスト教的世界観に矛盾しないだけなのではないか。『純粋理性批判』において神の証明の不可能性を結論づけた(道徳の可能性を残していたとしても)こととはうってかわって、政治的調整がなされたような印象を受けざるをえない。また、この点は、ルソー『社会契約論』における市民宗教の概念とも近く、この意味でカントはルソーを受け継いでいるといえる。むろんルソーは、原理的な古代キリスト教を想定しており、その道徳性を社会形成との整合性に見出している。
そして、通説的なルソーへの批判とも重なるが、20世紀の世界大戦後に明らかになるように、この道徳が政治的に設定されれば、民主主義を謳う全体主義の理論として強力な単一性を生む。その定言命法の絶対性と利他、そして現実存在としての自己保存の軽視は、今なお未解決な問題として残る。道徳哲学の趣旨から言えば全体主義と相反することは明白だが、理論としてはシュミットのように読み替えを可能にしてしまう危険性がある。カントの自負とは裏腹に、義務論は拭いきれない問題があるだろう。また、道徳的義務を、良心の呼び声による決意性(覚悟性)として受け継いだ、ハイデガーを含めるとより明確になるかもしれない。いずれにせよ、なんらかの単一性があると想定する形而上学による、他者の排除に致命的な欠陥がある。その意味では、形而上学性との対峙こそが、哲学の役割にほかならない。
・第3章 純粋実践理性の動機
動機エラテル・アニミは、意志を主観的に規定する根拠。人間の意志の動機は、道徳的法則のみ。道徳性は、拒否する感性的な傾向性との間で苦痛を生む。傾向性の満足が幸福である。傾向性は、我欲ソリプシスムスを構成する。我欲は、自らへの極端な好意フィラウティアたる自愛=自己愛、あるいは自己満足アロガンティア=自負である。純粋実践理性は、自愛を毀損して理性的な自己愛に変化させ、自負(=感性的な自己尊重)は完全に破壊し謙虚にさせ、道徳法則を尊敬の対象とする。排除の意味では消極的で、謙虚と尊敬を作る意味では積極的である。知的な軽蔑である謙譲の感情が生じ、道徳法則への尊敬が同時に生まれる。これが道徳感情である。この感情によって、道徳法則が形式的規定根拠や善悪の内容的客観的規定根拠だけでなく、主観的な動機にもなる。感情は、実践的に引き起こされたもの。尊敬は動機ではなく、道徳性そのもの。
→尊敬が道徳的行為を引き起こすのではなく、道徳法則が尊敬感情を引き起こし、主観的な動機となる。
当然、神には感性との葛藤がないので尊敬感情は起きない。物に対しては、尊敬ではなく、傾向性、愛、恐怖、感嘆、驚愕を生む。
→崇高
尊敬は人格にかかわる。フォントネルの「貴人に頭を下げるが精神は頭を下げない」に付け加え、高潔には頭を垂れる。それは法則の実行が目の前にあるから。尊敬は、自分の価値のなさを突きつけるので、欠点探しや批判によってそれから逃れようとさせる。
才能は個人的で不確実なので、それに対する尊敬は、ふつう才能ではなく人格だ。しかし、真の学者は才能に尊敬する。
理性による動機を、関心と呼ぶ。
→ハイデガー気遣い
関心から行動原理が生まれる。道徳法則に従い、客観的に実践的行為をすることは義務と呼ばれ、強制を含む。強制から生まれる感情は、法則への服従であり、強制を宣告する命令であり、不快を含むものである。しかし自ら定めたことによる高揚を含み、自己の承認と呼びうる。この道徳性への自由な関心は、尊敬と呼ばれる。
道徳的必然性は、強制となり責務となる。責務に基づく行為は、義務となる。意志と道徳法則の一致が本性となり、意志の神聖性を所有しうる。道徳の国の法則を定める国民ではあるが、元首ではない。人間は被造物という低い地位にある。
→ルソー一般意志と人民→臣民
このことは、神を愛し隣人を君自身のように愛せよという福音書に一致する。感受的ではなく、実践的な愛。神を愛するとは、命令を喜んで遂行すること。隣人への義務を喜んで遂行すること。道徳的心構えを完全な形で示したものであり、神聖性の理想。我々が近づき無限の進歩のうちに努めるべき原型。畏敬に満ちた畏怖は愛着へと変わり、尊敬は愛に変わる。しかし、人間は尊敬による闘いのうちにある徳の段階にとどまり、完全な愛の神聖性、純粋性には至っていない。
狂信は、理性の限界を越え、行為根拠を道徳法則以外のものに求めてしまうこと。道徳法則の代わりに狂信を持ち込んだのは、小説家、教育者、そしてストア派である。これに対して福音書は、道徳的原理を純粋にし、有限な存在者に相応しいものとして制限して、義務の規律を提示した。人間自らの道徳的能力の狂信という自負や自愛を、謙遜に変えた。
→カントの義務、アプリオリな道徳性としてのルソーの憐み
義務の根拠は、人格性である。人格性とは、感性界だけでなく叡智界にも属する人間として二つを結びつける、自然から自由と独立を示すもの、かつ法則に服す能力を示すものである。
物は手段として扱えるが、人間は目的そのものである。なぜなら、全ての人間は、自由の自律によって聖なる道徳法則の主体であるからだ。自身の法則以外のいかなる意図にも服従してはならない。
人格性は、人間本性の崇高さを示す。人は、これからも生き続けるのであって、内心の眼差しから見て、生きるに値しない存在になることは耐えられない。これはむろん幸福ではなく、全ての望みが放棄された後に人格的価値まで低下する危険を防ぐ、という消極的な慰めにすぎない。すなわち、生の快適さや価値とは全く別のものに対する尊敬の念から生まれる、義務に基づいて生きる超感性的存在という崇高さ。
この道徳法則の動機には多くの魅力や快適さが結びついているから、最大の幸福を求めるエピクロス派は、すでに道徳的善行である。ただし、悪徳と対抗するときのみである。義務の尊厳と人生の享受は、かかわりがない。
・純粋実践理性の分析論の批判的な解明
批判的な解明とは、認識能力に依拠した他の体系と比較し、なぜの体系形式でなければならないかを探究し、理由を明らかにする作業のこと。実践理性も思弁理性も純粋理性であるから、同一の認識能力に依拠している。したがって、二つの体系の違いの根拠を示さなければならない。
思弁理性は、対象認識が問題であるので、直観から始める必要があり、概念を分析した後、初めて原則を論じられた。これに対して実践理性は、実現する意志、すなわち原因性を問題とするので、原因性の法則(アプリオリな実践的原則の可能性)から始める必要があり、原理に基づいた善悪の対象概念、そして純粋実践理性と感性の関係としての道徳的感情(直観ではなくたんなる感情)で終える。実践理性は、経験に基づかないので、感性論と論理学の二つに分かれず、理性推論にならざるをえない。普遍的な道徳的原理の大前提から、善悪の行為の小前提へ、そして主観的意志の規定、すなわち善と行動原理の関心を結論づける。このことから、思弁理性と実践理性の統一が期待される。
数学のように概念を構成するのではなく、哲学のように概念だけで理性認識する際は、直観を基礎とできないが、化学者と同じように実験して試すことができる。
幸福と道徳は、対立しない。幸福への配慮は人間にとって避けられないが、道徳的義務が悪徳を排除するためには幸福を考慮に入れない必要がある。
時間規定を受ける自然の必然性としての原因性は、物自体ではなく現象とみなすことで、物自体である自由の原因性と矛盾せず同時に維持できる。自由は、たんなる内的な自己規定ではない。たとえ内的でも時間規定からは逃れられないからだ。自然のメカニズムに服する組織が、物質によって動かされる場合には、物質的な自動機械アウトマトンマテリアル、観念によって動かされる場合は、精神的な自動機械アウトマトンスピリトゥアレ(ライプニッツ)と呼びうる。自然と自由の矛盾を解消するには、過去からの時間規定を受ける事物を現象とみなし、自らを自らの法則によって規定する物自体とみなす。行為、内的感覚、現存も叡智的存在ヌーメノンとして、原因性の結果としてみなすべき。このことによって、道徳法則に反した行為が「なされないことが可能だった」と語りうる。
はるか昔のことでも後悔するのは、自由を認め道徳法則による良心から自責や非難が生じるからだ。後悔は、すでに起きたことの役には立たない、空虚で不合理。
→道徳、超自我、恥
しかし、後悔を感じることは、時間を越えて私の行為かどうかを問題にするから、正当なことである。
悪人であっても、非難と責任は正当と考える。それは、選択意志による行為において、自由の原因性を想定しているからだ。その人が自発的に採用している悪しき原則による結果である。
→中動態と逆の意志と責任の法的思考。
神の必然性と自由は矛盾する。神は、時間や空間そのものの原因性ではない。なぜならこれらは、事物の現実存在のアプリオリな条件であり、神の原因性もこれらに条件づけられるからだ。そして神の無限性と独立性とも矛盾することになる。
この解決は、スピノザのように、神を時間から独立したそれ自体の存在とし、現象とは異なるとみなすことによって矛盾を回避できる。神の原因性の結果として、時間における事物が存在する。創造説。しかし、理念は根本的に不合理である。
したがって、時間における現存は、感性的な存在者の思考における現象であり、物自体としての存在者には関わらないと考える。かくして、存在者は物自体として創造されたことになり、叡智的存在ヌーメノンにのみかかわる。神が感性的現象の創造者であると語るのは、矛盾したことだ。
現象と物自体を分けることによって、自然のメカニズムを否定せずに、自由を主張することができる。
これまでの形而上学者は、この問題を隠蔽した。学問を進歩させるには、全ての難問を暴露し、進歩を妨げる全ての難問を探し出す必要がある。難問は解決策を呼び求め、学問を進歩させずにおかない。しかし、隠蔽されたり取り除かれるなら、懐疑主義のもとで学問は破滅する。
神、自由、不死のうち超感性的な大きな拡張ができたのは自由だけである。量質の数学的カテゴリーでは、直観により条件づけるから無条件的なものは見出されない。原因性(関係)と必然性(様態)の力学的カテゴリーでは、直観は関係なく、知性において対象の現存が、それを条件づけるものにどのように付加されるかであるので、無条件的なものを叡智界に措定して問題ない。行為は、感性的であると同時に叡智的な原因性、すなわち自由であると考えることができる。
自由を証明できるのは、感性的自然法則から独立して、自らを含み、それ自身で実践的である原則、道徳性の原則である。道徳法則は人間理性の本質と一体である。理論的には超越的で法外だが、実践的には内在的である。
→内在と超越
つまり感性界からは外部だが、主体を道徳法則の自由における叡智的存在かつ感性的行為者と認識することで必然的存在者に到達しうる。したがって、超感性的秩序や結びつきは、実践的理性能力によってのみ可能である。
・第二編 純粋実践理性の弁証論
・第一章 純粋実践理性一般の弁証論
純粋理性は、与えられた対象に対して、絶対的全体性を求めるが、全体性は物自体にしか見出されない。無条件的なものである全体性を現象に適用すると仮象が生まれ、現象を物自体と誤認する。二律背反が発生するが、これは純粋理性批判によって考察される。
実践理性においても無条件的なものを求め、道徳法則における対象の全体性、すなわち最高善を求める。行動原理として規定したのが、智恵の教えであり、学問としては古代の哲学にあたる。哲学は、最高善についての教えであり、理性は最高善を学問とするように努める営みである。このように考えることで、ギリシア的な意味での智恵への愛、フィロソフィアになる。哲学は、智恵の教師、智恵の知の達人、一つの理想として主観的に不断に目指す目標にすぎない。自己を支配し、普遍的善に関心を抱く実例を人格において示す。
最高善の根拠は、道徳法則である。最高善が意志の規定根拠とはならない。それは意志の他律になってしまう。
→善があるから行為を決定するのではなく、道徳法則があるから意志を規定し、行為の結果が善である。
最高善のうちに道徳法則が含まれ、意志を規定しているということを忘れてはならない。
・第二章 最高善の規定における純粋理性の弁証論
最高という概念は、最上と完全の二重の意味がある。幸福に値するという徳は、最上の条件であり善であるが、幸福ではないため完全な善ではない。幸福と徳が正確な比率で配分されるなら、最高善を構成する。それが完全な善。
論理的分析的結合の同一性か、実在的綜合的結合の原因性か。すなわち、徳と幸福が同じ行為か、原因としての徳が結果として幸福を生み出すのか。
徳と幸福を同一とみなしたのは、エピクロス派とストア派。エピクロス派は、幸福の意識が徳(抜け目のなさ)になる感性的原理。ストア派、徳の意識(道徳性のみが真の智恵)が幸福になる論理的原理とした。しかし、分析論で明らかなように、徳と幸福は、最高善に属するが、同一の主体でさえ強く制裁するもの。最高善がどのように実践的に可能かは未解決であり、分析的認識はできない。この結びつきは、概念の総合である。すなわち、原因と結果の関係性である。
徳と幸福どちらが原因か。幸福への欲望が道徳的行為になることはない。逆に、道徳法則を遵守するだけでは、最高善における幸福とはならない。
『純粋理性批判』における、世界の原因性についての自然と自由の対立でも同様の矛盾があった。これは、自然の出来事を現象とみなせば、叡智的主体は自由とできる。同様に、徳を幸福の原因と考えるのは虚偽だが、自然の叡智的存在者を媒介として間接的必然的な因果関係を想定することはできる。ただし偶然的なものとして。
最高善は、意志の目的であり、実践理性の真の対象である。すなわち、叡智界との結びつきのうちに求めるしかない。古代近代も感性界に求めてしまった。
エピクロス派は、無私な善行を心からの喜びの享受(快楽)とみなし、その企図には、きわめて厳格な道徳哲学が要請するような節度や心の傾きの抑制が含まれていた。ストア派はこの心の満足としての行為の動因を拒んだ。なぜならエピクロス派は、有徳な心構えを前提しているからである。ひとは高潔である前に、道徳的価値を評価することはできない。
快は、自己満足そのものであり、行為を規定する根拠ではない。意志を規定する根拠は、道徳法則である。行為の規定に関しては、快と道徳は内的に同じ働きをするので、同じものと錯覚してしまう。純粋理性により直接行為を規定することは、崇高である。他方、これを感性的感情と錯覚することもまた崇高である。ただし、道徳を賛美することは、ひとつの感情であるので、道徳法則の真価を損なう。
幸福ではなく、自己の現存の快適さを示す語として、「自己への満足感」がある。これに対して、自由の意識は、心の傾きから独立しており、不変の心の満足感、すなわち知性的な満足感が行動原理に必然的に伴う。感性的な満足感(と思われるもの)は、満足することがなく、ますます大きくなり、さらに大きな空虚を後に残すことから、本来的な意味での満足感ではない。慈善は、義務に適った適法性としての行為であっても、道徳法則が思い描かれていない心の傾きなので、道徳性としての道徳的行動原理を生み出せない。心の傾きは、盲目的、奴隷的。純粋実践理性は、道徳的義務として、傾向性を無視して、自らの関心だけを考えねばならない。こうした人々は、心の傾きから免れて、ひたすら立法する理性だけに服従したいと願うようになる。
→服従するなら奴隷では?
考察で明らかになったのは、純粋実践理性は、自由という能力で、道徳的行為を通じて心の傾きを支配する意識を生み出しうること。そして自己の人格に対する、心の満足感を生み出しうること。感情を介さないから幸福でもなければ、逆に完全に心の傾きや欲望から独立していないので最高存在者の浄福でもない。意志の規定が感性的原理から独立している意味では、浄福に似たものといえる。
期待と道徳性が結びつくことは可能である。幸福は、最高善を構成する第二の要素ではあるが、あくまで結果として道徳的に条件づけられたものである。
関心は、心の全ての能力に条件としてある。理性の関心は、理性自身が規定し、対象を認識する。実践的使用においては、意志を規定する目的がある。理性の関心は、拡張にある。
思弁的理性と実践的理性のどちらが優位か。思弁的理性は、実践的理性の命題が思弁的理性に矛盾しなければ、受け入れなければならない。そして、思弁的理性の対象と比較し、結びつけるよう努めねばならない。実践的理性の拡張を慎ましく認識せねばならない。したがって、アプリオリで必然的なものであれば、限界づけられている思弁理性に対して、実践理性が優位に立つ。
最高善には、意志が道徳法則に完全にふさわしくなることが条件となるが、これは神聖性、すなわち所有できない完全性である。したがって、道徳法則に対する完全なふさわしさへの無限な進歩にしか見出しえない。そこで、無限な進歩の条件として、同一人格の無限の想定、すなわち霊魂の不滅が想定される。霊魂が不滅でなければ最高善は不可能となる。このことは、理論的には証明しえないが、純粋実践理性が要請するものである。宗教的にも、これがなければ神聖性を損なうか、狂信的な神智学的夢想となる。キリスト教では、確固とした決意の確信と、道徳的な無限の進歩を聖化と呼び、この2つは同じ聖霊から生まれるとしている。被造物たる人は、完全な幸福にはなれなくとも、浄福なる未来を期待することは許される。
幸福とは、あらゆるものが意のままになる状態。しかし、自然は神のように意のままになるわけではない。だから道徳性と幸福には必然的な関係はない。だが、道徳法則は最高善を要請し、幸福と一致する原因としての神もまた要請される。
→自然法則の理論を認識する思弁理性とは別に、人間の行為の意志を規定する実践理性があると考えられる。なぜなら全てが絶対的必然なら人間はたんなる自動機械であり、自由はないからだ。しかし、理性の事実として人間には良心、道徳が備わっている。すなわち善悪の結果を生む道徳的行為の選択の自由がなければ、道徳法則を意識することはできない。自由の可能性の条件である道徳法則は、最高善を想定しており、その到達できない完全性は無限の努力としての魂の不死を要請する。そして最高善を保証する神が要請される。このように、実践的課題に限って、思弁理性を越えて実践理性は、理性を拡張できる。
神の現実存在を想定することは義務と分かちがたく結びついており、道徳的に必然的である。思弁的には仮説、実践的には純粋な理性的な信と呼べる。
古代ギリシア哲学の最高善の解明失敗は、意志の自由に根拠をおき、神を不要としたこと。エピクロス派の幸福は、ごく貧しく状況で異なるものにしかならない。ストア派は、神のように完全な高い徳が、現実の賢者によって可能とし、人間の限界を超越して想定し、幸福という要素を捨て去ってしまった。
キリスト教では、最高善を神の国と想定した。人間が到達できるのは、法則への尊敬に基づいて、謙虚に傾向性を抑え、法則を遵守する心構え、すなわち徳にすぎない。キリスト教の掟が要求する神聖性には、無限の進歩だけが残されている。現実では、徳は幸福を約束しないが、神の国では一致する。浄福は永遠においてのみ可能。
ストア派は、道徳法則ではなく、人間の心を軸に置いたため、徳が動物的本性を超越する賢者のヒロイズムとして示された。ここではキリスト教的厳格さは実行されえない。
道徳的理念は、実践的な完全さの原像、道徳的行為の不可欠な基準、比較の尺度として役立つ。理念について、キュニコス派はふつうの人間の自然の素朴さ、エピクロス派は学問による抜け目のなさ、ストア派は学問による智恵、キリスト教は神聖性にある。古代ギリシア学派は自然な能力で理念に到達できるとしたが、キリスト教は現世では不可とした。道徳的行為によって神から与えられるという望みによって自信が回復される。アリストテレスとプラトンの違いは道徳的概念の起源にある。
道徳法則は、最高善の概念を通じて、宗教に到達する。義務は制裁ではなく神の命令と認識し、自由意志の本質的な法則として認識すること。神の意志との一致で最高善を希望しうる。恐れや希望ではなく、たんに義務だけに基づいている。最高善は、一つの全体であり、最大の完全な道徳が幸福と厳密な比率で結びついている。
道徳は、幸福にするかではなく値するかの教え。それに宗教が加わって、徳に応じた幸福に与る(あずかる)という希望が生まれる。値するのは、最高善と調和するとき。値するかは道徳的ふるまいにかかわり、幸福に与る条件である。最高善を促し、神の国をもたらそうという道徳的願望が生まれ、宗教への歩みが始まる。このときに道徳論は幸福論となる。幸福への希望は、宗教とともにしか始まらない。神の最終目的は、幸福ではなく、最高善。幸福に値するという条件のもとでのみ慈悲が得られるので、神の命令に対する尊敬と遵守が生じ、神は愛すべきものになり、崇拝の対象となる。神だけに適用される特性は、唯一の神聖な者、唯一の浄福な者、唯一の賢明な者。これらは無制限性を含む。法則を定める創造者、慈悲深い統治者、公正な審判者。神を宗教の対象とするための一切のものを含み、形而上学的な完全性が理性において自ずから付加される。
したがって、全ての理性的存在者は、いかなる者にも手段とされない、目的それ自体である。人間性は、道徳法則の主体であるがゆえに、自身にとっても神聖なものでなければならない。
→理性が自律しているから自然法則の必然性に絡め取られない。
霊魂の不死、自由、神の現実存在の要請は、教説ドグマではなく、実践的な前提である。思弁的理性の理念一般に客観的実在性を与える。わたしたちの認識は、純粋実践理性によって拡張され、思弁理性では超越的だったものが、実践理性においては内在的になる。ただし、実践的な意図においてだけ、道徳法則を介してのみ結びつけたにすぎない。自由が、どのように可能か、理論的積極的に考えるべきかは洞察しえず、たんに要請されるにすぎない。換言すれば、真ではないと確信させることはできない。3つの理念は超越的な思想である。実践的な理性の拡張は、浄化に着手し、擬人化の迷信や狂信を阻止する。
超越論的な述語として、現存の量としての持続がある。時間こそが現存を量として思い浮かべるための唯一可能な手段である。
→ハイデガー存在と時間
学識とは、歴史的な知識の総体にすぎないから、哲学と数学は学者と呼べない。その2つは理性によって自ずから発見されるからだ。
→ウィトゲンシュタイン自ずから示される
道徳法則を介した実践的な証明、すなわち神の存在の規定は、これまでの自然学的、形而上学的、思弁的全ての行程においてなしえなかったことだ。したがって、神の概念は、自然学、形而上学ではなく道徳に属する概念だ。
ギリシア哲学においては、アナクサゴラス以前は、災いが神の存在の反証と考えられ、自然に原因性を求めた。そして道徳を扱って実践的必要性を見出し、根源的存在者の概念を把握した。
カテゴリーの根拠づけが、神学と道徳に必要で有益であるか『純粋理性批判』の読者ならわかるだろう。つまり、カテゴリーを、プラトン的に超感性的幻影の幻燈機に変えてしまう誤謬と、エピクロス的感性的使用に制限する誤謬を防いだ。
→イデア。ファンタスマゴリーマルクス、ベンヤミン
カテゴリーは、アプリオリであり、超感性的思考に役立つ。安全に智恵に至るためには、学問の道でなければならない。
わたしたちに選択が委ねられているのは幸福の自然法則と道徳の自由法則の調和をどのような仕方で考えるべきかということ。これに決着をつけるのは、道徳的な関心である。
仮に人間に洞察力と明瞭さを自然が与えていたなら、道徳的な努力はなく、たんに機械的な働きメカニズムになっていただろう。マリオネットのような身振りはするが、生命は見出しえない。
理性が神を推測するにすぎず、道徳法則が尊敬を要求するのみで、超感性的王国の願望を許すだけであるからこそ、道徳的心構えが生まれ、最高善に値する存在になることが可能になる。したがって、神の智恵は、理性や道徳的心構え与えたことだけでなく、洞察力や明瞭さを与えなかったということも尊敬に値するのである。
・第二部 純粋実践理性の方法論
ここでの方法論とは、学問的認識の取扱い方や手続きではなく、道徳法則を人々の心に取り入れるか、影響を与えるかということだ。
まず、意志の規定の根拠となるには、道徳法則を義務とみなし、遵守することで、行為の動機となる必要がある。そのためには、心に純粋な道徳的動因がなければならない。動因は、一貫した心構え、自らの尊厳の自覚、感性的愛着からの独立、心の偉大さの願望を獲得する。
人間本性に道徳的素質、道徳的関心への受容力、道徳的行為へと働きかける力が備わっていることを証明する必要がある。
実業家や女性の社交の場でも、道徳的価値についての議論は誰でも参加し生気が生まれる。善悪行の内容を詮索するときは、厳密で思索的で微細な議論を展開する。故人や自身の徳について、実例と道徳法則と比較がなされる。道徳的行為としての実例の意図の純粋さを擁護する人がいるのは、実例に徳の純粋さがないと全て幻想、虚飾、欺瞞、自惚れにすぎないと蔑視されかねないからだ。青少年教育にも理性の性向を利用すべき。また、判断力を活発にさせるため、義務の例証を古代近代伝記に求めるべき。逆に高貴な過度な功績は、たんに小説の主人公を作るだけで、日常の義務を無意味にしてしまう。持続性の観点からも、心の高揚よりも、義務の服従を重視すべき。不平等によって窮乏している他人がいることも一つの負い目であり、独りよがりな功績の想像で義務を押し退けてはならない。
道徳的行為かどうかは、普通の理性使用で、右手左手の違いのようにすでに明確に区別されている。決定に疑義を挟むのは哲学者だけ。
→ウィトゲンシュタイン左右の手
10歳の子供に、ヘンリー8世によって訴えられた妻アンブーリンのように無実で非力な人を、誹謗する仲間に引き摺り込もうとする話を聞かせるとする。有力者に財産や生命を奪うと脅され、困窮した家族が譲歩を依頼したとしても、誠実であろうとする気持ちに忠実だったと語って聞かせれば、子供の是認は感嘆から、驚嘆、尊敬へと変わる。それは、道徳的原則の純粋さによって生まれる。功績ではなく、義務こそが心に決定的な影響を及ぼす。
現代は、感傷的で高踏的で傲慢で不当な要求によって、人を感化させようとすることが多い。子供たちに功績を模範とさせるのは目的に反しており、空想家に仕立て上げてしまう。
原則は、一時的な感情ではなく、概念によって構築する必要がある。概念でなければ、価値も信頼ももたらさない、たんなる気紛れにすぎない。法則は、個人との関係において考察しなければならない。そして、偏愛ではなく、義務に基づいて遵守することを求める。
自分の命を捨てて他人を助けたり祖国を守る行為は、功績ではあるが、義務の毀損あるいは義務ではなく、模範とはならない。功績には自己愛が混ざる。
方法は、第一に、自らと他人の行為を道徳的に判断することを習慣とすること。責務の根拠を与える法則レゲスオブリガンテス(欲求-本質的でない義務)と、責務を与える法則レゲスオブリガンディ(権利-本質的義務)を区別すること。
→根拠=対象
道徳法則を守る行為ならば、心構えに道徳的価値がある。それを判断するよう訓練することで、理性法則や道徳的行為への関心を生む。理性が満足し、道徳的事柄を愛するようになる。この時点では、判断を楽しむだけで、道徳性への関心ではない。道徳法則に従う心構えである徳に、ある形の美しさが与えられ、それに感嘆するにすぎない。
第二に、道徳的心構えの実例に即して意志の純粋さに注目させて、自由を意識させる。克己の苦痛は、次第に欲望によって不満足を感じていたことに気づかせ、解放されたことを自覚させる。道徳的決意によって、内的自由が露わになり、心の重圧から解放される。義務の遵守には、積極的価値がある。自由にある自身への尊敬がこれを受け入れやすくする。いわば尊敬の上に道徳的心構えが接木される。心の傾きへの最善かつ唯一の見張りは、自己吟味。
→人々に道徳性を受け入れさせる方法論は、二つの訓練である。①習慣的な道徳的判断力のゲームと、②道徳的心構えの実例の活写。自己吟味の克己の試みによって、心の傾きから自由になり、道徳法則を遵守することに満足感を得る。
この方法論は、一般的な行動原理にすぎない。義務は多様であるので、特別規定が必要だが、予備的な本書では概要にとどめる。
・結論
賛嘆と畏敬で心が満たされるのは、頭上の星辰の天空と、内なる道徳法則だ。これらは直接わたしの現存の意識を結びつける。天空は、世界、体系、運動、時間を無限にまで拡大する。道徳法則は、不可侵の自己の人格性から知性の無限な世界のうちに、そして歌詞的世界と普遍的必然的な結びつきのうちに、わたしを置く。こうした賛嘆と畏敬は探究に刺激を与えるが、欠陥は補えない。世界は占星術に終わり、道徳は狂信迷信に終わった。理性は練習で使い方はわからない。理性の歩みを熟考した後に、別の進路を進む。自然科学では、観察が要素を分解し、数学的処理によって、不変な洞察を得る。道徳では、化学のように、合理と経験を分離し、純粋に認識することでそれだけで何ができるかを確実にする。粗野あるいは天才による誤謬を防ぎ、批判によって智恵に達する。何をなすべきか、さらには、教師に何が基準として役立つかを教える。これは哲学が保護者とならねばならない。公衆は、哲学に関心をもたないが、教えには公衆も関心をもたねばならない。
・解説
・第4章 動機
法則は客観的に意志を規定する根拠、動機は主観的。道徳性は行為だけではわからないので、内的な動機の考察が必要になる。道徳性は法則が直接意志を規定する、適法性はそれに感情を前提として法則が意志を規定するとき。感情は、心の傾き=感性的欲望=我欲(自愛=自己愛、自己満足=自負)。自愛は自己自身を充足させる意志規定根拠に、自負は自らを無条件な原理とする。純粋実践理性は、自愛を毀損し、道徳法則に一致する自愛だけを容認する。残った自愛は理性的な自己愛と呼べる。自負は、自らが道徳法則を定め、自らを道徳的だと自認する。カントは道徳哲学の要は、自負と道徳[義務]の区別だとする。自負は完全に破壊すべき。道徳法則という動機は、苦痛を与えるものとしてアプリオリに認識できるもの(消極的側面)。
そして、道徳法則によって、毀損破壊され謙虚になった人は、尊敬の感情を引き起こす(積極的側面)。尊敬は、道徳法則を遵守させる動機になる。尊敬が、経験的な満足が行為原理になる道徳感情と異なるのは、道徳法則の遵守によって生まれるから尊敬そのものが行動原理になることはない。道徳法則は意志の規定根拠であり、尊敬の感情こそが動機。道徳法則に対する尊敬が、本来の意味での道徳感情。
動機が理性によって描かれると、関心と呼ぶ。関心に基づく規則が、行動原理。
→道徳法則→尊敬→動機→関心→謙譲→尊敬
義務は、客観的道徳法則、強制、実践的。尊敬の裏の顔であり、快に対し否定的だが、高揚を伴う。
→関心→義務→尊敬
尊敬の対象は人格である。道徳法則は聖なるもの。尊敬と聖なる法則を義務が結びつける。適法性とは義務に適合した行為、道徳性とは義務に基づいた(尊敬に基づいた)行為。道徳的主体として自律した人間は、目的そのもの、聖なるもの。
自負や狂信を防ぎ、義務の思想を生命原理とするようには、自己吟味が必要。自らの不正を見逃せば、ソクラテスが語るように私自身と不調和になり、内心の眼差しを恐れるようになる。
思弁理性は、感性的直観→概念→原則、実践理性は、原則→善悪概念→道徳的感情。経験が混じりやすい実践理性は、分析と総合ができない代わりに、化学のように実験できる。嘘が利益になる人に道徳法則を加えると、嘘は尊敬に値しないと認識する。
ゼンマイの自動機械のような内的で比較的な自由は、行動原理や責任主体の自由ではない。
→個人で意図的にずらせるのが自由
現象界では必然性なので、無時間的な叡智界の物自体として人間を捉えることで、理性自らの法則にしか従わないものとみなす。自由を救う唯一の方法。
→自由によって、責任を問う法的思考。
自責と非難の後悔は、空虚で非合理だとしても、良心と実践理性が感覚を道徳的に過去に結びつける意味で正当である。
→自由意志の行為の結果として後悔できる。
時間と空間が無限だとすると、感性界に存在しなくなってしまう。そこで時間の超越論的な観念性として、つまりたんなる人間の感性的な直観の条件・形式として考える。ライプニッツのように人間を時間下の物自体と考えると、全てが必然の神のマリオネットになる。ライプニッツの自由は、比較的な自由だった。自由を否定し、道徳を破壊することだ。神の創造は叡智界にかかわり、感性的現象では必然的であると同時に、人間は神の意志と独立して、叡智的原因性を土台にして自由に行動する。
・第5章 弁証論
思弁理性が自由、不死、神の仮象を生み出したのと同じように、実践理性は最高善の仮象を生む。最上に有徳=幸福に値する、かつ完全に幸福であること。ここで重要なのは、第一に、『純粋理性批判』では幸福は心の傾きの満足にすぎなかったが、本書では世界の人格一般の理性判断にまで拡張されている。世界の全ての人が幸福になるのを求めることが、最高善の条件。つまり自然の目的、永遠平和。
第二に、道徳法則に従って幸福になることが善。徳と幸福の結びつきは、論理的分析的つまり同一か、実在的総合的つまり因果か。同一としたのはエピクロス派、ストア派。徳を幸福のための手段とするエピクロス派、幸福は徳を所有している意識とするストア派。しかし、同一にはできない対立するもの。有徳な行動か、意識だけで幸福かは判断できない。したがって論理的分析的に同一として結合はできない。
実在的総合的に因果として結合するなら、アプリオリかつ必然であるはずなので、超越論的になる。二律背反の解決が必要。幸福を求める行為は徳に結びつかないし、有徳な行為は幸福を妨げる。数学的二律背反は矛盾対当でないことから両方が偽として解決された(世界は無限か有限かは量的規定が前提となっているので偽)。力学的二律背反は感性界叡智界の区別で解決された。感性界を現象として処理し、叡智界を物自体とすれば両方が真となる。
→ウィトゲンシュタイン矛盾、トートロジー、論理学で世界を解決する。ただし、分析的のみ認める。
ただし、徳と幸福の二律背反は両方真ではなく、幸福が徳につながるは虚偽だが、徳が幸福につながることは、神、不死があれば可能とされる。ただし、必ずしも最高善が実現されるとはいえない。最高善は道徳の最高目的、実践理性の真の対象。
→叡智界に徳をおけば、神と不死がありさえすれば、最高善(全員の幸福)とつながる可能性がある。
道徳的行為を幸福と感じる人はいるが、最高善とはいえない。①ごく一部の例外に主観的に妥当する規則であり、普遍的規則とはなりえない。論点先取の誤謬。②自分が行うことを受動的に感じることと取り違えて、道徳的動機を感性的衝動と錯覚してしまう。③根底に喜びを置き、道徳が偽りの引き立て役になる。④感情的な喜びがさらに大きくなり、善い行為という思い込みが空虚を残す面倒なものになる。
→幸福が目的になって、道徳が手段になってしまう。
幸福は道徳の結果付随するという意味で、道徳は条件づけるもの、幸福は条件づけられるもの。
理性を所有する条件は様々な原理が矛盾しないこと。理性を行使する条件は自らを拡張すること。関心から比較する。関心とは、理性能力遂行の条件を含む原理。思弁理性の関心は認識、実践理性の関心は究極目的の意志規定。実践的意図において、思弁理性が拡張されるので、実践理性が優位に立つ。ただし霊魂の不死、自由、神の現実存在のみ。
霊魂の不死は、無限の進歩として最高善に向かうために必要な要請。要請とは実践的法則と結びついているので、証明できない命題。最高善には、道徳性だけでなく第二の要素として幸福がある。自己吟味によって、良心の呵責のない現世と、来世への希望を抱くことができる者は、ある意味で幸福。浄福なる未来を期待しうる。しかし、これだけでは不足するので、全人類の幸福が自然の目的とすると、神の意志=道徳性もここに含まれる。
神は最高善を実現できる者として、人間の最高善を目指す義務の意識と結びついている。霊魂の不死同様に宗教的な、理性的な信。カントは、ユダヤキリスト教的な概念なしにこのような要請を出せなかったはず。
→実践理性からキリスト教を説明する逆説的な論理
キリスト教の神の国概念がカントの最高善に最もふさわしい。自然と道徳の調和。最高善の概念を通じて宗教に到達するが、これは、神の命令に対する信仰と服従があれば、道徳は不要となりかねない危険がある。カント道徳哲学は、キリスト教的道徳論を哲学的に表現したものであることは間違いない。
認識の拡張についての3つの問題。理念の感性化の禁止(直観の誤認)、神の実践理性において初めて規定されること(道徳法則の要請)、カテゴリーの根拠づけ=演繹(理性の濫用防止)。カテゴリーの演繹は、プラトン幻燈機(イデアという基礎)の防止と、エピクロス感性論から経験主義的懐疑論への道を防止しうる。
判断の主観的な妥当性「真とみなすこと」は、全ての人が正しいとみなす「確信」、主体の特性だけに基づく「思い込み」に分かれ、他者に伝達できるものが「真理」と呼ばれる。確信は、不十分な臆見、主観的には十分な信念、客観的にも十分な知に分かれる。魂の不死、自由、神は信念を持ちうるにすぎない。しかし道徳的実践的見地からは、要請として是認される。実践理性は、神の存在を意欲する。これは信である。思弁理性では実践的妥当性にすぎない信念が、実践理性では客観的必然性の信となった。純粋な実践的な理性的な信。知とは別の確実さ。
人間は悪だからこそ自由である。悪がなければ自然の目的への無限の進歩もない。つまり歴史がない。それは神のマリオネットにすぎない。最高善に向かう悪しき存在であることを祝福する。
・第6章 方法論
カントは数理問答カテキズムという道徳教育が必要と考えていた。『道徳の形而上学』、最大の欲求は何かと教師は問い、答えられない生徒に「万事が望みのままになることだ」「それが幸福だ」と教える。
→ウィトゲンシュタイン哲学探究教える立場、ソクラテス問答
その幸福を分け与えるとすれば、幸福に値する人物か自らも点検すべきではないかと、心の傾きを押さえるべきと教える。これはごく普通の人間も道徳性に関心があると考えているから。
少年道徳の方法論としては、第一に、行為の善悪の判断をする訓練。第二に、道徳性が伝わるような具体的な状況の提示。
→ルソーエミール
成人道徳は、第一の段階が、観察と訓練。そのステップは第一に、道徳性を観察し判断する習慣。第二に、責務の区別。必要としての責務の根拠の法則と、権利としての責務の法則。第三に、道徳的心構えを点検すること。
第二段階が、自己の吟味。ステップは第一に、意志の純粋さの確認。第二に、積極的な自由の意識へと鍛えていく作業。第三に、自己への尊敬。第四に、道徳的な心構えの接木。道徳的存在としての自認が、道徳的行為を促進し、心の衝動を防ぐ。
天空と道徳の無限という領域的類似、実例の分析における合理経験の分離という方法論的類似。
・訳者あとがき
カントの道徳哲学は、イギリスのハチソン道徳感情論と、ルソーの影響がある。
若い頃のカントは道徳感情論者だった。しかし、善悪の道徳性を感じる人間感情があるということを批判し、道徳原理の形式を見出す定言命法という、道徳哲学におけるコペルニクス的転回を起こした。
ルソーから学んだことについて初期の遺稿で語っている。無知な民衆を軽蔑したが、ルソーがその特権を消滅させ、人間を尊敬することを学んだ。普通の人間の道徳的判断と、自らへの尊敬。そして、内心の眼差しから見て生きるに値しない存在となることは耐えられない。定言命法とは別次元で人間の道徳性を支える。ルソーの多くの作品はこうした根源的な倫理性を語る。