石原莞爾の世界戦略構想(祥伝社新書460)

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  • Amazon.co.jp ・本 (408ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784396114602

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  • 満州事変から支那事変頃の最重要人物の一人である石原莞爾の思想、戦略について分析・検討した本。

    日本とアメリカによる世界最終戦争が起こると予想し、その構想により満州事変を図った石原。そして対米戦の戦費はシナから得ようと構想していた。しかし抗日が激化していることを把握した石原は一転、不拡大を唱える。
    その思想の変遷について詳しく解説されていて、また当時の陸軍内部の覇権争いについても書かれていて参考になった。

  • 政治外交史の専門家、特に日本の戦前政治史に詳しい著者による、石原莞爾の構想について書かれた本。永田鉄山を中心とした陸軍統制派の動きや考え方に焦点を当て、満州事変から日華事変、太平洋戦争へと突入していく中で、どのような決断に至ったかを詳細に記している。永田や石原は、日華事変や太平洋戦争がどのような戦争になるかを10年以上前から正確に予測しており、その行動力と相まって陸軍中枢で活躍する。戦後、厳しい批判が多い陸軍ではあるが、多くの逸材が存在したことがよくわかった。
    「支那全体を観察せんか。軍閥、学匪、政商など一部人種の利益のために支那民衆は連続せる戦乱のため塗炭に苦しみ、良民また遂に土匪に至らんとす」p100
    「永田は、前の大戦を一つの「世界戦」「世界大戦」として捉え、次期世界大戦が不可避との判断に立っていた。その次期世界大戦は、前回の大戦と同様、国家総力戦となり長期の持久戦となる、そして日本も否応なくそれに巻き込まれると考えていた」p139
    「(1925年講義録)日本の物質力は「すこぶる貧弱」であり、先の欧州大戦のような100万規模の動員を必要とする戦争を行えば、日本は破産する」p140
    「永田は、次期大戦における持久戦は、限定的な戦争目的の実現による途中講話はありえないと考えていた。それは国の生存そのものを賭けた全面戦争となり、どちらかが継戦意思を失うまで続く執拗で徹底的な戦争となると見ていた」p142
    「(1932年)シベリア経由でジュネーブに向かう途中、石原は、モスクワで赤軍トップのエゴロフ参謀総長と会見し、ポーランドでは中堅将校らに講話。ベルリンでも講演。ロンドンでは、イギリス陸軍関係者や各国駐在武官が多数出席し、満州問題について、石原と質疑応答を行う会が開かれている。この頃、石原の名は、軍関係者の間では世界的に知られていたのである。石原は欧州各地で歓迎を受け、講演会なども盛会で、本人も意気軒昂たるものがあった。このジュネーブに向かう旅が、石原にとって生涯で最も華やかな時期だったといえよう」p152
    「(昭和12年度予算)全予算案額は30億3900万円、前年度より7億2700万円の膨張となり、歳出の46.4%が軍事費であった。二二六事件を契機に、もはや内閣から陸軍への財政的抑えが、ほとんど効かなくなったのである。軍事クーデター再発の無言の威嚇などによる陸軍の政治的発言力の増大を要因とするものだった」p187
    「石原らの「日満産業五カ年計画」は、日中戦争開始直前の1937年5月には、「重要産業五カ年計画」として陸軍省に移管された。この間石原はその計画案を、近衛文麿元首相や池田成彬三井合名会社理事に示している。そこから、結城豊太郎日本興業銀行総裁、木戸幸一内大臣秘書官長などにも渡され検討されたようである。石原が軍のみではなく、政財界に一定のネットワークをもっていたことがわかる」p189
    「(星野直樹、岸信介は)満州産業開発のため、鮎川義介の率いる日本産業株式会社(日産)を満州に進出させるよう働きかけた。日産は日立製作所や日産自動車、日本鉱業、日産化学などを傘下に、重化学工業を中心に急成長した新興財閥だった」p192
    「(1935年)当時石原は、中国との戦争は当面できるだけ回避したいと考えていた。それは五カ年計画中の不戦方針からだけではなかった。石原は、対ソ戦略上、英米との良好な関係を維持することが必要だと判断していたが、両国は中国に強い利害関心をもっていたからである」p222
    「永田の国家総動員論は、あくまでも次期大戦を不可避と予想し、それに対応するためのものであった。つまり、次期大戦には、好むと好まざるとにかかわらず、日本もコミットせざるを得なくなる。その場合に備えて、国家総動員の準備と計画を整えておかねばならず、そのための態勢構築が不可欠だ。永田はそう考え、さまざまな方策を実施してきたのである」p229
    「盧溝橋事件時の陸軍中央:陸軍大臣 杉山元、陸軍次官 梅津美治郎、軍務局長 後宮淳、軍事課長 田中新一、軍務課長 柴山兼四郎、人事局長 阿南惟幾、補任課長 加藤守雄
    参謀総長 閑院宮載仁親王、参謀次長 今井清、 第一(作戦)部長 石原莞爾、作戦課長 武藤章、戦争指導課長 河辺虎四郎、第二(情報)部長 渡久雄、ロシア課長 笠原幸雄、欧米課長 丸山政男、支那課長 永津佐比重、第三(運輸通信)部長 塚田攻、第四(戦史)部長 下村定、総務部長 中島鉄蔵」p249
    「(盧溝橋事件直後)目下は専念満州国の建設を完成して、対ソ軍備を完成し、これによって国防は安固をうるのである。支那に手を出して大体支離滅裂ならしむることはよろしくない」p251
    「奇妙な偶然だが、この重大な時点で、戦争指導を統括する参謀本部の参謀次長と情報部長、現地の最高責任者である支那駐屯軍司令官が、そろって病臥中だったのである」p256
    「内地三個師団を実際に派遣すれば、全面戦争に発展することは不可避で、それは長期持久戦となることを意味する。だが、現状では相当数の精鋭師団を対ソ国境に配備しておかねばならず、十分な兵力を中国に投入できない。そのような状況下で、中国の広大な領土を利用して抵抗されれば、戦争は長期化し収拾の見通しがたたなくなる」p260
    「石原は、今は対ソ戦備の充実のための五カ年計画に全力を挙げる時で、中国との軍事紛争となれば、その阻害要因となるため「極力戦争を避けたい」と考えていた。だが、内地3個師団派遣は対中国全面戦争の誘引となり、対ソ戦備の充実どころではなくなる。しかも、今の中国はかつての分裂状況から国家統一に向かいつつあり、民衆レベルでの民族意識が覚醒してきている。そのような中で戦争となれば、一撃では終わらず、行くところまで行く。全面戦争突入は、長期持久戦となる危険が大きく、自らの国防戦略が崩壊する。そうみていたのである」p261
    「(武藤章)中国は国家統一が不可能な分裂状態にあり、日本側が強い態度を示せば蒋介石ら国民政府は屈服する。今は軍事的強硬姿勢を貫き一撃を与え、彼らを屈服させて華北五省を日本の勢力下に入れるべきだ。現在の事態は、それを実現する絶好の機会で、この好機を逃さず目的の達成をはかるべきだ」p262
    「(昭和12年7月17日)石原は杉山陸相を訪れ、梅津次官、田中軍事課長の同席の場で、次のように華北からの撤兵を主張した。本年度の動員計画師団数は30個師団である。そのうち支那方面にあてられるのは11個師団である。このような兵力では広大な中国において、とうてい全面戦争は不可能だ。しかし、このままでは全面戦争の危険が大で、その結果は「底なし沼」にはまることになる。この際「思い切って北支にあるわが軍隊全部を一挙に山海関まで下げる。そして近衛首相自ら、南京に飛び、蒋介石と膝づめで日支の根本問題を解決すべきだ」と」p272
    「(服部卓四郎)夜中2時頃品川から帰って三宅坂の参謀本部の玄関を入ると、階段の途中に石原さんが軍刀をつて立っているのでびっくりした。「どうされましたか」と聞くと、「3個師団の動員について総長、大臣のサインをもらってきたところだ」と答えられ、二度びっくりしたものである。不拡大主義者の石原さんが2時間たらずの間に拡大の決心をされ、下僚の補佐によることなく自分で案文を書き決済をもらい、夜明けと共に動員下令の処置をとられたのであった」p280
    「(開戦2ヶ月前)石油がほしいからといって、戦争する馬鹿があるか。南方を占領したって日本の現在の船舶量では、石油はおろか、ゴムも米も絶対に内地へ持って来ることはできぬ。ドイツの戦争ぶりを冷静に観察すると、地形の異なるバルカンでも、西部戦場と同一の戦法を採っている。現在ロシアでやっている戦法でも何ら変化の跡を見ない。これではドイツはロシアに勝てぬ。もし勝算もないくせにドイツに頼って、米英相手に戦うというなら、こんな危険なことはない」p382

  • 本書は、陸軍中将石原莞爾の構想を彼の論考や他の軍人の回想などから読み解こうと試みる一冊である。
    読後の印象としては、石原は「奇才」であったことは間違いない、と思った。優秀な陸軍軍人のなかでも、このような将来的構想を綿密に練っていたものは数少なかった。仏教に傾注していたのも注目に値する。
    彼がいうところの対米持久戦争や対米最終戦争を遂行するために満蒙権益を重視しており満州事変を起こした。支那事変が始まってからは、陸軍主流派や近衛、広田弘毅らが戦線拡大を強硬に主張していたが、石原は対ソ軍備を念頭に不拡大を主張した。当時の軍部は、対支強硬派が主流であり、不拡大派は少数派だったため石原や多田らの努力も虚しく泥沼化した。
    石原系が陸軍で実権を握ったらあの惨劇はもたらされなかったのではないかと思う。近衛文麿の罪は重い。

  • 満州事変,日中戦争を中心に石原莞爾の思想と行動をまとめている.

  • 陸軍における石原莞爾にフォーカスしており、最終戦争論にも触れているが、主な流れは、満州事変から日中戦争までの、陸軍が国を誤った経緯となっている。国家的リーダーの不在、軍の暴走、すなわち下克上の端緒となったのが、満州事変の際の石原達の独断専行だったが、結局、自らの軍規違反が後年、部下の「規範」になってしまい、戦争を止められなくなる。しかも国家総動員とか総力戦が唱えられた時代だったが、陸軍一つとっても派閥争いに明け暮れ、石原もやがて部内闘争に敗れ、満州国以後に責任を果たさないまま、表舞台から去っていく。最終戦争論の価値は変わらなくとも、より学ぶべきは、1930年代、各組織が好き勝手した挙句、国家が体を成さなくなった病根についてだろうと感じた。

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著者プロフィール

1947年生まれ。名古屋大学大学院法学研究科博士課程単位取得。現在、日本福祉大学教授、名古屋大学名誉教授。法学博士。専門は政治外交史、政治思想史。『原敬 転換期の構造』(未来社)、『浜口雄幸』(ミネルヴァ書房)、『浜口雄幸と永田鉄山』、『満州事変と政党政治』(ともに講談社選書メチエ)、『昭和陸軍全史1~3』(講談社現代新書)、『石原莞爾の世界戦略構想』(祥伝社新書)など著書多数。

「2017年 『永田鉄山軍事戦略論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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