日本史の謎は地政学で解ける (祥伝社黄金文庫)

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  • 祥伝社
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  • Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784396317768

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  • 江戸時代の話になったと思ったら戦国に戻ったりと、話の時系列があっちにいったりこっちにいったりで読みにくかった。
    筆者の主観が多く、客観性に乏しいが、ひとつの視点としては興味深かった。

  • この本で取り上げられているのは、日本史の謎とされている事件・戦争について、地政学の観点から解説をしています。さらにそれが起きた時期の気候変動についても併せて述べています。

    日本史を、地政学や気候変動、地政学上の利点がそうでなくなる条件(技術革新など)は何かを、具体的な事象をあげて説明してくれており目から鱗のような気分になりました。

    また普段見慣れている、日本を中心とした地図も、相手との関係を考える場合、その国から日本はどう見えているか、具体的には、中国から見た地図を見てみることも大事だと感じました。

    以下は気になったポイントです。

    ・九州南部の日向灘からいまの静岡県が面する遠州灘にかけての日本列島の南岸は、いちど難破したら生還が期し難い、舟艇にとってはすこぶる恐ろしい海域である。恒常風である西風に、たまたま北風が加わり、船がひとたび陸岸から吹き離されてしまえば、沖合には強い黒潮があって、どんどん伊豆方面へ運ばれてしまう、伊豆諸島のどこかに乗りあげることができなければ、そのまま北太平洋を果てしなく漂流する、近世に帆船が洗練されるまで、太平洋とは限りなく不吉な海であった(p15)

    ・古代の丹波(のちの丹後、若狭)あるいは敦賀の海岸からは、わずかな陸行で琵琶湖までアクセスできた、ところが日本海側の沿岸航路(夏季のみ利用可能)は、瀬戸内海を通るルートを発展させてきた、古代の航海技術では克服し得ない厄介な海象(海流と季節風)がある、対馬海峡から能登半島にかけては暖流が東進、朝鮮半島東岸では寒流が南進、この海流にのれば大陸と朝鮮の文物は簡単に西日本(出雲)まで漂着するが、逆は成功しない(p21、23)

    ・大型船や、うまく風波をしのげる船隠しが見つからない磯の続く海岸(これを灘という)では、冬の強い北西風に押された船舶は海岸に座礁し、打ち寄せ続ける激浪のために破壊される、明治元年、最新鋭だった2800トンのオランダ製スクリュー式蒸気軍艦「海陽」すらも、日本海の海象には勝てず、江差海岸で全損している。地球が温暖化していた縄文時代には小型漕ぎ船によって環日本海海岸が交易場となってたが、地球が寒冷化すると瀬戸内海の一年を通じた輸送の利便性にはとても競争できなかった(p24)

    ・もしも通常の日本列島とその周辺に、東から西へと向かう穏やかな風しか吹くことがなく、かつ日本列島を洗う潮流も、東の太平洋から西の大陸へ向かってゆっくりと衝突するような安定な気象環境があったと仮定すると、間違いなく太宰府は、大陸の全沿岸を海軍力と会場通商力によって支配する日本のロンドンに成長していただろう(p29)

    ・日本と朝鮮半島の関係が、けっして英国とフランスのような関係にならなかった理由は、ドーバー海峡は小船でも漕ぎ渡ることが可能だが、日本から半島経由で大陸に赴くのは、必ず命がけの覚悟が求められた。九州北部に首都を置いたら、列島な二つに分断されるが、畿内に首都を置いたら、九州北部も含めて全国に目を配れる。太宰府は中間補給港となる(p31)

    ・淀川の特徴は、吃水の浅い物資運搬艇が、あまり苦労しないで山崎(秀吉の改修工事後は伏見)までも河口から遡行ができたことである。瀬戸内海と淀川は一本の運河として機能していた(p35)

    ・瀬戸内ルートを使える西国と違って、東方の勢力を征伐するには陸上をひたすら行軍するしかない、海路遠征が距離をほとんど無視できる(兵卒を寝かせておけば良い、食料を搭載した補給船団を随伴可能)のに対して、陸路遠征では距離が死活的な意味を持つ(p42)

    ・東国制服は、濃尾平野と伊勢湾に向かって進展し、大和から鈴鹿山地を越える伊勢湾に到達する峠道ルートは古代ヤマト政権にとって最重要の軍道であり、そこに「鈴鹿の関」琵琶湖南東岸から伊吹山地を越える美濃に出る峠道がそれに次いだ、今日の関ヶ原に「不破関」が置かれる(p44)

    ・桓武天皇(781−806)の頃は、大陸では気候の寒冷化の兆しが顕著だった、760−990年までずっと寒い、安史の乱(755−763)に続くこの寒冷化で、唐朝は衰退モードになった(p49)

    ・源頼朝が挙兵した頃、世界の中緯度地方で温暖化がピークに達していた、この影響で関東平野を筆頭に日本の東国一帯で兵糧米の未曾有の備蓄増と人口増が続いていた、一方で近畿と瀬戸内地方は、水田の開発限界となり、温暖化はむしろ旱害や洪水撹乱から収穫減を招くものであった(p55)

    ・砂金を産出し気候の温暖化で農業経済が絶好調だった平泉の人口は京都に次いだほどであった、頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、奥州藤原氏対策であった。後白河法皇(京都)と挟撃されたときのリスクを軽減できる中間地であった(p56)

    ・南北朝動乱の収拾が見えた1392年は、1200年までの温暖期が嘘のように、中緯度諸国の気候が寒冷化して久しく、1400年頃まで続いた。東国農業の行く末は悲観的、西国では干ばつが減って毎年の確実な生産が期待できた。従って、瀬戸内物流ハイウェイの東端である近畿に都を置くのが合理的であった(p59)

    ・かつて天智天皇は琵琶湖南端の西岸に大津宮を置いたが、535年のインドネシアのクラカタウ火山の大爆発が助長した寒冷期が底を打って暖かさの戻る時期であった、湖岸の低湿地が徐々に沼化していったのであれば、大津宮が早く放棄された理由の一つだろう。信長の生きた天正時代には逆に、東岸に広がる低湿地が自然に乾田に変わりつつあったのかもしれない(p63)

    ・城が安土に選定された理由として、諸街道の結節点が琵琶湖東岸に形成されていたこと、北国街道(畿内と越後)、東山道(畿内と陸奥)、東海道、さらに伊勢湾に抜ける近道も安土城下から分岐していた。織田家の支配領である、伊勢・美濃・尾張を後背地補給基地をして、東の三河・遠江・駿河は家康に保たせて、主敵となる西国の大名を逐次屈服させるという長期戦の司令部所在地として、安土は京都より合理的であった(p64)

    ・秀吉は没するまで京都の伏見城の城主であった、大阪城はかつて同じ位置に石山本願寺にかわって、豊臣家が「海を介して行われる交易の支配者」であることを西国の支配者たちに知らしめる役割を果たした。大阪市のほとんどは縄文時代には水底であったが、仁徳天皇陵、住吉大社、四天王寺、大阪城本丸にかけての「上町台地」だけは、高燥であった(p67)

    ・上方を宥めるために新政府は「遷都」という言葉を使えず、「奠都(遷すのではなく、新たな都をもうひとつ定める)」と公称した。現在まで、正式な詔によっても、国の法令によっても「わが国の首都は東京」と定義されたことは一度もない(p80)

    ・明治4年7月の廃藩置県と同時に、4個の鎮台(後の師団だが、海外作戦ができる兵站組織は持っていない)が置かれ、大阪鎮台(第4師団)は東京師団に次ぐ規模とされた、明治期のいっとき東京、京都と西京(大阪)の三都ともに首都格としてはどうかという話もあった(p85)

    ・農業、なかんずく水稲作が最大の産業であったときは、日本列島内の権力地盤は、温暖期には東国(重心は関東)、寒冷期には西国(重心は近畿)へと移ろった(p86)

    ・日本の天皇は水稲作の豊穣を祈願するところにある、粗放畑作や漁労採集にこだわる者のために日本の天皇家は祈らない(p95)

    ・日本独特の水稲作文化は、耕作者の自我を「字」(灌漑水利共同体)に預けることを促してきた、ところが薩摩でのみ「自我」は各個人のものであった。甘藷栽培(薩摩芋、琉球芋)には、用水路という面倒な共同管理資産がいっさい不要だから(p100)

    ・極東では樺太南部、満州北部までなら馬鈴薯は栽培可能であったが、それより北では育たない。だからロシアから見て満州の領有は、シベリア軍隊が自活補給するためには不可避の長期政策であった(p101)

    ・東海道を京都から江戸までくだるあいだ、最大の戦略的ボトルネック(隘路)となるのは箱根峠、海洋地政学でいうことろのチョークポイント(海峡)である、それに至る前に駿河に二箇所ある、ひとつは浜名湖で湖の南西に「新居関」が置かれている、もうひとつは、由比ヶ浜であった(p117)

    ・毛利氏は石見銀山の採掘権は幕府に取られたが、防長(周防と長門)の良港の利用税利権と海峡支配権は安堵された、これは瀬戸内物流ハイウェイの通行料収入を公式にプレエントされたような特権材えあった(p121)

    ・島津氏は、対馬の宗氏と同様に、政権の一方の外交窓口として期待された、島津氏はそれに応え、見返りとして密貿易を黙認された(p122)

    ・モンゴルの奴隷的尖兵は背後からモンゴル兵が監視していなければ働かないので、日本列島の広い海岸線にバラバラと上陸させることもできず、博多湾上での密集船中泊を選んだ。しかしモンゴル人には操船不能となるほど海が荒れると察知した奴隷水兵たちは、夜のうちに船ごと半島方面へ逃げ帰った(p134)

    ・日本全国の私貿易活動をどうやったら完全に停止させられるか、それが対外渡海遠征の号令である、西国諸侯はこの半島攻略作戦のためにすべての船舶、水夫あるいは財を差し出さなければならない、密貿易を続ける余裕は無くなる(p145)

    ・元朝は台湾のことを琉球と呼んでいたが、明国では沖縄を「琉球」と表記した。唐の鑑真和上は難船して「おこなは」島に漂着したと伝記に記載された(p158)

    ・薩摩島津氏は、琉球はあえて「二流の外国」ということにして、それを薩摩藩がうまく服属させているという構図をこしらえた、すると島津氏には別格なステイタスが生じ、秀吉も徳川氏も島津家に対して薩摩からの転封を命じるのは難しくなった(p159)

    ・明治4年、宮古島の漁民が台風のために台湾南部東岸に漂着し54人が虐殺された事件において、3年後に西郷従道が台湾への膺懲遠征を強行、清国政府に賠償金を払わせ、それによって沖縄が日本国に帰属していることを示した、その後、幕末から横浜に駐留を続けていた英仏両国の軍隊が撤退となった(p162)

    ・蒸気船は風や海流を気にせずに、あらかじめ申し合わせた時刻に確実に港から一斉出撃ができる、これは艦隊作戦の革命であった、蒸気船が導入されたことで、日本列島の太平洋側の沿岸航海ははじめて遭難死とほぼ無縁となった(p166)

    ・ロシアが、半島経由・九州方面へ、と、樺太経由・北海道方面への二正面攻撃を展開するのを阻止するには、日本軍が半島まで前進すれば良かった、理にかなった、地政学の応用サンプルであった(p173)

    ・旧幕府の軍事組織は、個々の将兵の家柄によって陣地や行軍の位置関係も規定され、家柄の低い小部隊指揮官が自分の判断で前にでたり、後方へ回り込んだりすることはできない仕組みになっていた。(p184)

    ・日本政府が、道東駐屯の陸上自衛隊第五師団をヘリコプター師団化するでもなく、スリム化して旅団化してしまったことにより、ロシア政府は「日本は国後島奪還には関心がない」というメッセージを受け取り、現在に至っている(p199)

    2020年10月31日作成

  • 2020.09.22読了。簡単な地政学の本だが、筆者の分析には些か主観的要素が入っており話半分に読むのが良い。

  • 地政学という学問なり用語があるというのを知ったのは、この数年。本を読んだのも始めて。

    自分が歴史を学んだ時代には全く無かった視点であった。少々こじつけじゃないの?と勘ぐりたくなる説もあったが、軍事・防衛(というか兵站)の観点と、当時地球(というか日本)は寒冷期だったのか温暖期だったのかというデータまで繰り出して説明しているあたりが、斬新で「へぇー」であった。

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著者プロフィール

昭和35年、長野市生まれ。陸上自衛隊に2年勤務したのち、神奈川大学英語英文科卒、東京工業大学博士前期課程(社会工学専攻)修了を経て、作家・評論家に。既著に『米中「AI大戦」』(並木書房)、『アメリカ大統領戦記』(2冊、草思社)、『「日本陸海軍」失敗の本質』『新訳 孫子』(PHP文庫)、『封鎖戦――中国を機雷で隔離せよ!』『尖閣諸島を自衛隊はどう防衛するか』『亡びゆく中国の最期の悪あがきから日本をどう守るか』(徳間書店)などがある。北海道函館市に居住。

「2022年 『ウクライナの戦訓 台湾有事なら全滅するしかない中国人民解放軍』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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