日本のありふれた心理療法: ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学

著者 :
  • 誠信書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (328ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784414416237

作品紹介・あらすじ

心理療法は必ず文化の中で行われる。だから、欧米で生まれた心理療法は、日本文化に合わせて変形したし、教科書に描かれる心理療法は、それぞれのローカルな現場の事情に合わせて妥協されざるをえない。そうやって、私たちのありふれた心理療法は営まれる。本書は、臨床心理学と医療人類学の二つの視点から、そのような文化と心理療法のダイナミズムを明らかにする。臨床心理学の専門性が問われる今、刺激的な心理臨床論が誕生。

感想・レビュー・書評

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  • ヘルス・ケア・システムの話は勉強になった。
    ケアしていると、だんだんどこに向かっているのかわからなくなって来るので、俯瞰できてよかった。民間セクター、民族セクター、専門セクターが意外とこういう勢力図なんだっていうのは正直驚きだった。
    もう一度読み直したい本。

  •  『居るのはつらいよ』で著者を知り、次が本書。
     本書は、心理療法とはどんなものなのか、殊に日本で普通に行われている日常的な心理療法とは如何なるものなのかを説明したものである。
     心理学や臨床心理学自体には門外漢なので良くは知らないが、確か精神分析療法で、国際ルールの方式に則って行われていないということで、ゴタゴタしたといった話を聞いたことがある。
     
     著者は現実の制約、クライエントや心理臨床家、所属機関等の様々な事情によって、理想型からある意味変容してしまう“日本のありふれた心理療法“を正面から取り上げ、それに理論的な光を投げかけ、ひいては臨床実践の現実的な指針の一助となることを目指す。

     確かに、心理療法と言ってもいろいろな学派というか閥があって良く分からない。特に日本の混淆した状態は「認知行動療法をトッピングした精神分析もどきのユンギアンフレイヴァー溢れるロジェリアン」と揶揄されるようなものらしい。
     しかし著者はこうした状態を単に不純なもの、遅れたものと見るのではなく、日本の生活世界、文化に関係するものだからこそ、ローカルな立場から見ていくことが重要だと言う。

     そうした考察を支える理論的枠組みが医療人類学であるとして、まず第1部ではアーサー・クラインマンのヘルス・ケア・システム理論が紹介され、次いで心理臨床家がいかにして「心理学すること」を習得するのかを、著者が実際に体験したスーパーヴィジョンを元に説明する。
     第2部では、臨床事例が3つ取り上げられる。
     第3部は、心理療法を文化的営みとして捉え、文化の文脈から解釈し、理解することを目的とする。ここでも事例が取り上げられるが、特にクライエントの属する治療文化との関係が問題となる。

     第1部の医療人類学による捉え方、具体的には説明モデルや治療者とクライエントとの関係についての考え方などは大変興味あるものだったが、現実の臨床で一番大切であろう事例研究の「考察」のところが、心理学のベースがないため「フーン、そういうものなのかなあ」としか思えず、もどかしかった。
     そういったことを思う中、最後の第8章では、そもそも事例研究とは何なのか、何を得ることができるのかが説明される。しかもそれは著者自身の学生から研究者時代の経験を赤裸々に語りつつで、門外漢にも理解の助けとなる話だった。
     

     

  • ありふれた心理療法について、臨床心理学および心理臨床学の歴史と医療人類学と筆者の事例を軸にしながら語られたもの。日々の臨床を真摯に成していくことは大前提だけれど、臨床の知のありふれた一粒を抽出すべく、ありふれた事例研究を書こうと思わせてくれる。妥協と交渉により合金の心理療法しか提供できないけれど、そこには個別性の極みが確かにあり、そこから『心理学すること』と『関係すること』を丁寧に紡ぐことで普遍的な物語となる。その時の自分に可能な範囲で精度の高いものをまとめる。できればどこかでおずおずと発表する。そう決意をさせてくれる一冊。私の師匠も、年に一度は事例をまとめて発表すると、それをご自身に課し今も実践されている。時間は作るもの。陳腐な言い訳はやめて、私も。

  • 文体論で高野秀行の話はおおーという感じ。これもう5年以上前の本だったんだ。読もうと思って読めない本にもそれなりに出会いがあるものだ。事例研究学会発表しよう投稿しようは泣けてきた。

  • 以下引用

    現実の制約によってさまざまな妥協をしながら心理療法を行わざるをえない

    ★心理療法も社会に埋め込まれた営みであるのだから、私たちは、自分のしていることを、職場やコミュニティに向けて語らなくてはならないし、広く社会に向けて説明していく必要がある。そのようにして、心理療法は社会の中で場所を獲得する努力を続けてきた。それは説明責任と呼ばれる私たちの仕事の重要な一部だ

    →うちのやっていることを、もっと総合的に「説明責任」という観点から、語らないといけないのだろうと思う。すでに書いた論文を、論文という形ではなく、その文章を含みつつ、ビジュアル、体験談、経緯、、、といったところで総合的にまとめる方が、伝わるのではないか。


    心理臨床家の多くが自分を折衷派と規定している。キメラのような心理療法

    クラインマンのヘルスケアシステム理論は、ひとつの地域の中に複数のセクターの治療システムが機能していることを示し、それらが互いに影響を与えあう中で、病者個々人が自分なりのヘルスケアシステムを組み立ててくことを明らかにした

    心理療法は基本的に強い価値観に支えられている。精神分析には精神分析の、認知行動療法には認知行動療法の、家族療法には家族療法の価値観がある。それぞれは違った価値を抱き、違った治癒を目指している

    医療と言う言葉は、わゆる西欧近代に始まる現代医学に限定されていない。シャーマニズムや薬草治療、占い、カイロプラティック、健康食品、そして心理療法などの様々な治療的営み

    私たちは目の前の現実を絶対的な動かしがたいものと思うし、だからこそそれは「現実」と呼ばれる。しかし、動かしがたいはずの現実が人間関係の中でその姿を大きく変えていくのも事実である。

    ★恋愛について相談するときに、旧友に相談するか、職場の同僚に相談するか、その相手によって、自分が悩んでいた内容が変わってしまうことはよくあるし、同じように頭痛という問題は医者に相談するか、霊能者に相談するかによって、まったく違ったように扱われ、挙句の果てに本人にとっても頭痛の体験のされ方が変わってしまう。私たちの現実は実は液体のように姿を変えやすいものなのである。

    クラインマン
    -私が力説したのは、伝統的であれ、臨床的な営みは、特定の社会的世界の中で生じるとともに、その社会的世界を作り出してもいるという事実である。病気についての信念、病者のとる行動、期待する治療、家族や治療者の病者への対応の仕方、これらはすべて社会的リアリティの諸側面である。それはヘルス・ケア・システム自体と同じく、文化的な構築物にほかならない。すなわち、それぞれの社会で、さらにその社会内部のそれぞれの社会構造の背景のもとで、まぎれもなく作り上げられたものなのである。社会的リアリティのうちのこうした健康にかかわる側面、病気についての態度や規範、臨床場面での人間関係、治療活動を、私は臨床リアリティと呼ぶ

    臨床リアリティと言う言葉でクラインマンが語ろうとしているのは、治療者やクライエントに見えている世界は、唯一無二の絶対のものではないありえないということ

    行動に制度化されている専門職セクターの治療者が倫亮リアリティに働きかける効果は絶大なものがある。診断名やメカニズムを真実そのものとして受け取り、それに基づいて自らの病を理解する

  • われわれは物事を別の面から見るばかりでなく、別の目でもって見る。だから、それらの事物が同じように見えるわけがない。―パンセ

    本書にとって重要なことは、明治時代になって、日本の心理療法が、そのような呪術的環境に生まれ落ちたということである。心身の不調をキツネが憑りついているせいだと捉え、山伏がキツネの霊を祓う文化の中に、心理療法の種子は播かれた。このとき、病の原因は病者の外側にあるこころへと移されることになるので、そこには激しい葛藤が生じることになる。

    ウィニコットはスクイグルが「赤ん坊の自己がまだ形成されていない、ごく初期の依存が最大の時期」のコミュニケーションをもたらすと指摘している。

    実は、意味を汲みだし理解することと、美的にかたちづくることが芸術療法の両輪であることを、芸術療法の始祖であるユング派深く認識していた。ユングは芸術に対する態度として、表現された意味を把握する「理解原理」と、美的なかたちを追求する「造形原理」の二つがあり、両者が相互補完的に作用することが望ましいと指摘している。しかし、実際には、ユングは「造形原理」ではなく「理解原理」を偏重した。その決定的な瞬間が、彼の自叙伝に描かれている。


    ここからは数冊の本を棚に入れた。

  • 久々に面白い本に出会った、割には読了に時間がかかった。よく見ると300ページ余りあった。これまで「日本」の「ありふれた心理臨床」について総説的に書かれた本はなかった。精神分析や認知行動療法など、欧米から輸入したものを日本的に咀嚼した上で総論を述べる本が多々で、それぞれの学派の壁は高かった。その中では、日本の心理臨床の歴史と日本の文化の考察を経た上で、医療人類学者クラインマンのヘルスケアシステムに理論的に準拠した上で考察されている。沖縄での臨床実践をされたことも体験的には大きいのかもしれない。ただ事例や著者自身をも事例として取り上げ、理論と現実を折衷する形で、心理療法の葛藤状況を体験的に理解できるような筆の進め方で、最後まで目を離さずに読み切れた。改めて、自分自身の心理臨床の振り返りにもなり、今後の課題も見つかった。

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著者プロフィール

1983年東京生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)・臨床心理士。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。白金高輪カウンセリングルーム主宰。著書に『野の医者は笑う―心の治療とは何か?』(誠信書房)『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)『心はどこへ消えた?』(文藝春秋 2021)『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)など。『居るのはつらいよ』で第19回(2019年)大佛次郎論壇賞受賞、紀伊國屋じんぶん大賞2020受賞。

「2022年 『聞く技術 聞いてもらう技術』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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