- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480016669
感想・レビュー・書評
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本書は、教養とは何かといった、理念や内容を主張した本ではなく、教養の成立要件や枠組みを3つの識者との対談と1つのエッセイで確認した作業の記録の様式をとっている。教養の周辺にあるエピソードを自由に語ることで、その中身を浮き彫りにする試みともいえる。本の全体が口語調なので読みやすい反面、ところにより表現や展開が荒くなることを、読者側が予め了承しておく必要があろう。大切にしていきたい言説を以下に引用した。
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p.2019/3/21
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感想。読書で得られるのは知識であるより考えの型であることが多いように思う。
知識は目的に応じてのみ引き出されるが、考えの型はどのようにも使われるからで、引き出されない知識は忘れ去られるので。
テキストにはなっていない自分自身の関わる問題にこの型を使うことにこそ意味があると思う。型は公平に使う人間自体を批判もするから。
教養主義もアウトプット前提である。インプットし、アウトプットする間にいろいろくっついてくるものがノイズではなく教養だ。
ノイズのないデジタルな情報を、いつでも持ち歩いていると思うことで教養主義は廃れた。
実は廃れたのではなく、そのように教養が剥奪された純粋な情報を「教養」として捉えていた大多数が、「本」を手放しただけで、ほんとうの教養主義者の絶対数はそれ程変わっていないのではないか。
たしかに、のっぺりした時代だ。ほぼ手続きがなくなり人間は動物化する。ただ、動物化した人間は、本を読む快楽を知らない、知る機会がないだけなのかも知れない。
一方で、ネット検索は情報を得るためではなく、本を得るためである本読みにとっては、読みたい本がすぐに読める、この時代はすばらしい、とバランスがとれているのかも知れない。 -
◆5/24 シンポジウム「自由に生きるための知性とはなにか?」と並行開催した「【立命館大学×丸善ジュンク堂書店】わたしをアップグレードする“教養知”発見フェア」でご紹介しました。
http://www.ritsumei.ac.jp/liberalarts/symposium/
本の詳細
http://www.chikumashobo.co.jp/special/rehabilitation/ -
本来、本は未知のものとの出会い。知っていることをホンに求めてはだめ。
大学の総合科目というのがダメ。実態はリレー講義で、各先生が共通のテーマのもと1コマを担当して、それを足し合わせているだけなので。
かつては大学でも博士論文なんてそう簡単に書けるものではなかった。 -
思索
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対談形式ですが語彙が難解、注釈さえ難しく、今の自分の知的レベルでは理解が及ばず…。対話を通して教養を鍛える、世界を立体的に見るための複眼的思考、堪え性をつける、教養小説を読むなどが大切だということは分かりました。物事の歴史を(知ることは大事だと思いながら読んでこなかったので)少しずつ読んだり、異なる感受性や思考に触れて自分の価値観を揺さぶられるような読書体験を、今まで以上にしていきたいと思います。
p24
一見遠く離れたもの同士が、じつはおなじ構造に支えられていたり、おなじ要素を抱えていたりする。それを発見することもまた教養でしょう。
p26
よくいわれるように、臨機応変に意味や機能を組み替えることができるのも教養です。
p27
パッシブではダメ、多義性を残す、批評性もしのばせる、このデザインの三要素はそのまま教養の重要な成立条件でもありますね。
P32
少し変形してその文脈に接続させる、これも教養の一つのあり方だと思う。僕はそれを「対話的教養」と呼んでいます。これが衰退している。
p46
詩や思想書を読むなかで、自分とはまったく異なる感受性や思考に触れることによって、それまで自明だと思っていたことがぐらぐらゆさぶられる。自分の前提や基盤が不明になっていく。そういう経験が読書にはあります。
p48
教養がある人とは、たくさんの知識をもっている人という意味ではありません。そうではなくて、自分(たち)がの存在を世界のなかに空間的にも時間的にもちゃんと位置づけられる人のことを指しています。つまり、自分の世界のなかにマッピングできるということ。そして、この世界を平面ではなくて立体で捉える。そのためには単眼で見ていてはダメです。奥行きがわかりませんから。立体的に見るためには複眼でなければならない。パララックス、つまり視差をもつ。いいかえると、ひとつの対象を複数の異なる角度から観察するということです。
p48
そこで、自分とは異なるタイプの思想家なり作家なりの本を読むことが重要になります。著者との対話をとおしてこそ、思いもよらなかった補助線をいくつも引くことができるようになる。そうした補助線を獲得することをとりあえず教養と考えるといい。
p49
複眼的思考を身につけ、自分を世界のなかに位置づけ、対話をとおして補助線を多く獲得せよ。
p51
(前略)むかしもいまも教養のポイントは自分でコンテクストを編むということにあるのかもしれません。僕たちは歴史的な存在です。コンテクストのなかにいる。ところが、そのコンテクストはすぐには見えない。自分なりにマッピングするということは、とりもなおさず、なぜ自分がこういう存在なのかを知るということですね。たとえば、哲学は自分がどこから語りだそうとしているのかを執拗に問う学問です。なにかへの問いかけは、問いそれ自体への問いを自己言及的に含んでいなければならない。どこまでもメタレヴェルを含んでいるんですね。自分のメンタリティのバックグラウンドがわかると自己変革のきっかけにもなる。
そして、ものごとを変えるときには地図が必要です。相対化できないことには変えられません。
p52
自分の関心から「××史」という補助線を増やして編みなおしていく。
「わくわく」×「こらえ性」を鍛えるような古い教養メソッド
p63
どう使えるかわからない古典を何度も読むことは、一見すると遠回りのようでいて、じつはもっとも有効だということがわかる。
p76
「ビルドゥングスロマン(教養小説)」のたぐいもドイツ教養市民層の成立と密接なつながりがあります。中世の封建的な桎梏から解放され、一人ひとりの努力によって経済的にも社会的にも成功する可能性が開けると、「いかに生きるか」が切実な課題としてせり出してくる。そうしたなかで、主人公が数々の体験を重ねて試行錯誤しながら自己形成を遂げ、人間として成長していく、そんな軌跡を描いた小説が多くの読者に求められるようになっていきます。その典型がゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』ですね。ジャンルとしての青春小説はいまなお健在だし、むしろ青春小説しかないといっていい。でも、教養小説となると、若い世代のあいだでまったく読まれなくなっています。
p110
そもそも、前提知識が必要なテーマのもとでは、知識のある者とない者とは対等ではありえない。それに、過去にどんな議論がなされたかという歴史を知らずに素手で意見を発することがいかに非効率的か。そこを勘違いしている。その発想は結局、知的な上昇意欲を削ぐことにつながります。自分の解釈の自己循環で満足しつづけていられるわけですから。
p129
文系の学問では、政治学も社会学も人類学も歴史学も、それぞれ閉じた固有のディシプリンが自立してあるわけではないと私は考えています。むしろ、それぞれの多様性を横断していくことが生む創造性に文系の可能性がある。
そして、その横断性や総合性こそが教養の本来の要件です。
p184
関東大震災後、一九二四年からの数年間、予約制の全集販売が流行しました。それがプレ期というか助走期となって、一九二七年には新たなフェーズへと突入。改造社が社運挽回すべく仕掛けた『現代日本文学全集』刊行に端を発する一冊一円(それで「円本」といいます)の廉価版全集が激増します。改造社のダンピング路線の成功が他社の類似企画をたちまち誘発したわけです。日本文学が中心でしたが、世界文学や芸術、経済学、法学、科学などおよそあらゆる分野の旧作ストックがここに放出される。こうして、円本が出版界を席巻しました。
p195
よい本を何度も丁寧に読む。そんな反芻に値する書物こそが「古典」なのだ(後略)。(『三木清教養論集』)
p198
「自分の感銘した作品に接したならば、その人の全集を読むこと。一個の人間の成育を究めることは、自分の生き方を考へる上に最も大きな参考になる。同時に他の作品を承る上にも大きなたすけとなるものである」。
(『読書七則』)
p199
読む速度が遅いと感じるのは、他人と比較するからですよね。次々読了していく人が身近にいたり、書物からの引用を頻繁にする人を見かけたり。けれど、じつはその人の「読む」と自分の「読む」とはまったく異質のものなのかもしれない。他人が本を読んでいる最中の場面を実際に見ることはほとんどありませんから。