- Amazon.co.jp ・本 (380ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480025722
感想・レビュー・書評
-
表現を楽しみつつ日本語の奥深さを再認識されられるという、面白い体験をしました。でも著者が説明してくれながらでなければ「?」で終わってたところもいっぱいありそうだ。昔の人って知的で粋だったんだなあ。
現代でもこれに似た雑誌ってあるだろうか?ビートたけしと所ジョージのFAMOSO(不定期だけど)が一番近そうだ詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
高校の時にこれを読んで、宮武外骨にどハマりした。赤瀬川のフィルターを通しているので、とてもわかりやすく面白い。外骨の愛嬌が感じ取れる一冊。
-
(実家から発掘して持ち帰り)
-
赤瀬川原平さんが外骨好きすぎて、外骨になり切って書いて出してしまった感じの1冊。いいです、寂しい時や脳が疲れた様な時にはこうした「学術小説」が効きますね。
前半は「スコブル」について、後半は「滑稽新聞」を授業で紹介するというお膳立ての小説です。渋谷のガード下迄来たあたりでFさんがきっと何かオチになる筈…!と期待してしまったw
巻末は外骨に扮した著者の外骨と、著者と、外骨の甥子さんが3人で語らうというインタビュー(対談)仕立て。また赤瀬川さんのなりきり具合がとても良いです。
楽しんでんなー!!っていう気持ちがビシビシ伝わってきました! -
言っている事は正しいのだけど、正しすぎるからおかしみがある。ということだけど、かなりエロ、グロ、侮蔑内容多い。発禁になったり投獄されたりというのも頷ける。
-
↑借りる人は自分の名前を書く
↓感想あれば以下に -
明治時代の反骨のジャーナリスト、宮武外骨(みやたけがいこつ)を赤瀬川原平が描いた抱腹絶倒の一冊。
反骨のジャーナリストと書いてはみたものの、そんなチープな表現では外骨を説明することなど到底不可能。実際、赤瀬川もどう表現すればよいか途方に暮れ、挫折しかかったらしい。『滑稽新聞』や雑誌『スコブル』で外骨が展開したのは権力に対する風刺や批判なのだが、その内容としつこさがハンパない。読者を食って世間を舐めきっている。でも、ここまで食われ舐められると、なんだか気持ちいい。笑いが止まらない。
それにしても、外骨の魅力を存分に引き出している赤瀬川の作風はお見事というほかない。文章はもちろんのこと、外骨の遺品の着物と眼鏡を身につけて外骨になりきってみたり、外骨と架空対談してみたり。この一冊は、外骨と赤瀬川の大成功のコラボレーションだ。 -
これはちょっと差別表現が多すぎるかな。
-
赤瀬川原平が、古本屋で、外骨がつくった古い雑誌を初めて見つけて、なんじゃこりゃとニヤニヤおもしろがって書いてる本。外骨がつくった誌面がかなりたくさん収録されている。文庫ではその誌面がかなり小さくなってしまってて、ちょっと読みづらいところもあるが、その小さい字でもつい読んでしまうおもしろさがある。
赤瀬川は外骨の雑誌にであい、そのスコブルなおもしろさを隅から隅まで解析したい紹介したいというヨクボウがある。だが、「それ自体が面白いものって、こちらがそれ以上に書きにくいのである」(p.102)。だから、それ自体をじかに、外骨が残した表現作業そのものを、できるだけ現物紹介するという手を使った。でも「それがしだいにマンネリになり、外骨の表現にただ感嘆するしか能がなくなってくる」(p.110)という次第で、外骨のおもしろさを紹介しようと続けていた連載を、赤瀬川はいったん中断する。
半年ほど間をあけて、その先は、小説仕立てになる。美学校の学生たちに、外骨の表現がいかにスーパーモダンであるかということを、赤瀬川が諄々と講義していくというかたちで。「カシャン」「カシャン」と、外骨の表現自体をスライドで見せながらの講義は、半ばは夢の中のようでもある。
しまいには「外骨先生かく語りき」と称して、自分が外骨"本人"になって、赤瀬川がその"本人"にインタビューするというかたちの記事が書かれている。表紙カバーには、その外骨"本人"に扮した赤瀬川の写真が使われていて、着物と眼鏡は、外骨の甥の吉野孝雄さんから拝借した「外骨の遺品」だという。
そうして書かれた外骨"本人"のインタビューで、雑誌について語っているここのところが私にはおもしろかった。
▼原平 …とにかくですね、外骨さんがいろんな雑誌を出しますね。売れない雑誌もあれば売れた雑誌もたくさんある。ふつうだと売れた雑誌が一つあれば、それをずーっといつまでも売れるように工夫しながらえんえんと出していくもんだけど。
外骨 私だって売れる工夫はしておった。
原平 ええ。でもそれは面白くする工夫でしょう。
外骨 そりゃそうだ。面白くなければ売れんでしょう。私の雑誌だって面白いのは大変売れたね。最高は「滑稽新聞」の一番売れたときで毎号八万部だ。
原平 もちろん知ってます。あれは面白いもの。売れるのが正しい。
外骨 工夫したんだよ。
原平 ですからそれは面白くする工夫ですよ。売れるための工夫とは違う。
外骨 何を言いたいんですか。
原平 いや、面白い結果売れるのと、売れるために面白くしたのとは違うと思うんです。
外骨 面倒だな。
原平 つまり前者をスキゾと言った場合に後者はパラノと言われています。
外骨 あ、スキゾのことか。
原平 つまりですね、外骨先生は「滑稽新聞」だけじゃなくてもいろんな雑誌で成功するんだけど、売れるとすぐ次の雑誌をはじめちゃうでしょう。いくら売れたって売れたってパッパとつぎつぎに新しい雑誌を作って飛び移っていく。
外骨 かっこいいではないですか。
原平 そうなんですよ。かっこいい。一つのものにしがみつかずにどんどん飛び移っていく。だから初代スキゾ人間て言われているんです。
外骨 そんなこと言われてますか。
原平 いや、いまぼくが言ったんですけど、そういうその、成功も失敗も等価値みたいにしてパッパと移っていくというのは、そういう、やっぱり一つの、お考えなんですかねえ。
外骨 お考えということもないがね。他人の評価と自分の気持ちというのは必ずしも一致しないということです。だいたいそうでしょう。一つのことをつづけるって、飽きるもんだよ。人間だから。(pp.342-344)
外骨は、ほんとに次々といろんな雑誌をつくっている。その外骨"本人"の考えとか気持ちを推し量ってみるのに、こういうやり方もあるねんなあーと、そこも興味をそそられた。
小さい文庫本でも、外骨の誌面を載せたところは、じぃーっと読んだが、もとの単行本のサイズで、もう一度よくよく細かいところまで見てみたい気もする。
(4/9了)