- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480056207
感想・レビュー・書評
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言葉の意味は、事実を写像したそのものの定義の正しさ(とそこからの論理)ではなく、その使われ方に依り、使われ方は、状況や生活形式に依る。ひととひととの間では、言葉をつかいながら、探索的にルールを積み上げ、その土台の上でコミュニケーションする。これを言語ゲームと表現する(とおもう)
“プロトコルを合わせる”って表現にも近いとおもった。
それと、内容は難しいけれど、読むのを止める気にはならず先に読み進めたくなるような不思議な読中感。 -
読み終えた感じたのだが、本書はヴィトゲンシュタインの入門書ではないかしれない。
つまりは手っ取り早くヴィトゲンシュタインについて理解したいという「入門者」向けではなく、どちらかというとヴィトゲンシュタインのテクストを丁寧に読解していくスタイルをたのしむ、読み飛ばしせずに深く読んでいく、という「入門書」として優れた内容だった。
そのため、読んだ結果を感想として「まとめる」のはおかしな話なのだが、それでも本書についてなにがしか言おうとするならば、ヴィトゲンシュタインを新書サイズで読解するというのは想像していた以上におもしろかった、ということくらいかくらいにとどめておいたほうがよい気がする。
本書はヴィトゲンシュタインの生涯とその思想について「まとまり」があり、検証、規則などヴィトゲンシュタインの思想のキーワードについて、著者の力の入った解説をかなりたのしみながら学べた。
次に読む(同じ講談社新書から出ている)鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』を数ページ読み始めているのだが、本書を読み返しつつ読み進めてヴィトゲンシュタインに「入門」していきたい。 -
高校2年生の時に夢中になって読んだ思い出の本。哲学に興味を持つきっかけになった本。25年前のことだが、今でも色褪せない本。
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難しいのひとこと
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ウィトゲンシュタインの思想の変遷を追いつつ、何が「語り得ない」のか、なぜ「語り得ない」のか、を著者は語ろうとする。「語り得ないこと」こそがウィトゲンシュタインにとって重要なことであるというのは、前に別の本か何かで読んだことがあるが、それがいったいどういうことであるのかを、この本で何となくつかめた感じがする。
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2017.5.3
難しかった。永井さんの解釈がもちろん入っているから、「私」ということの不思議さがテーマとして入っているが、私自身はウィトゲンシュタインがそのテーマを持っていたかどうかはわからない。
ウィトゲンシュタインといえば、『論理哲学論考』と『哲学探求』を書いて、論理空間、言語ゲーム、蝶番の比喩、とか色々、目から鱗なことを言っている人という印象がある。でもやろうとしたことは、カントが理性の可能性と不可能性を見定めたような「批判」のように、何が可能で何が不可能か、つまり「語れないものは沈黙せねばならない」という、ある種の「批判」をしたようにも思えるし、また所々現象学的な発想もあるような気もした。
現代にも続く言語哲学、分析哲学に大きく関わる人なので、もうちょっと読んで見たい気もするが、どうも言語から何かを考えるという視点は狭い気がして、私はまだ好きにはなれない。語れないもの=言語化できないものには沈黙せねばならないのはそりゃそうだろう。しかし言語が世界の全てではないしなぁ。しかし言語化できないものは感じの対象にはなり得ても、思考の対象にはならないんだろう。言語=思考=考えるということの限界を考え詰めた人だったのかもしれない。 -
相対論や量子論、不確定性原理といった物理学とその実験事実は、もはや哲学的な思考実験を追い越してしまった。そんなに現代において、哲学に存在意義はあるのだろうか。いや、それはもうなくなってしまったのではないか。…という持論を某サロンで語ったところ、たまたま参加者に哲学課出身の方もおり、次回のテーマは哲学にしようということになった。残念ながらその前に転勤となってしまってサロンには参加できなかったが、予習にしておこうと思ってこっそり買ったのが本書だ。
ウィトゲンシュタインは、ある程度教養のある人なら名前だけは知っているだろう。「語りえぬものについては、沈黙しなくてはならない」という有名な、そしてほぼ意味不明な結論を残した20世紀最大級の哲学者だ。本書は彼の哲学の内容とそな障害における発展過程を初心者向けに解説した入門書であるが、著者がウィトゲンシュタインに心酔するあまり筆が走っているような所も散見された。
この本を通読しただけでウィトゲンシュタイン哲学が理解できたとはもちろん思わないが、読んでいて感じたのはゲーデルの不完全性定理との近似だ。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」は、言語をすでにあるものとして考察しているが、ゲーデルやその師ヒルベルトは公理つまり基礎中の基礎を定義する所から組み立てようとしていた。その結果、論理の限界が存在するという結論に至ってしまった。ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」とはこの限界と同じものを反対側から見たものだったのではないだろうか。
そんなことを思いながらたまたま別の所でウィトゲンシュタインについて書いた文章を読んだら、ゲーデルに言及して解説されていたので、やはり同じことを思いつく人は少なくないのだろう。しかしウィトゲンシュタインが結局単なるギブアップのような結論に至ったのに対し、不完全性定理は「証明」したのである(もっとも私にはその証明が理解できないだろうが)。
科学が哲学から分離してもう何百年か経っている。科学の手法が未熟だった時代はともかく、今となっては哲学の役目は終わったのではないか。おそらく反論も多いだろうが、私はそんな風に感じる。 -
ウィトゲンシュタインの哲学について触れることができる本。
しかし,その考えは難しく,「入門」と書かれたこの本を読んでも細かい部分については理解しきれず,なんとなくその考えの表面部分が分かったような気がするという程度までしか至らなかった。
それは著者の書き方が悪いのではなく,その内容の難しさに原因があると思う。
しかし,表面の部分はさらっと触れた気がする。さらに詳しく理解するのは,他のウィトゲンシュタインについての本も読んで,自分の頭で考えなければいけないかもしれない。それはまたの機会を楽しみにしておこうと思う。 -
ウィトゲンシュタインは難しい。はっきり言って、一つ一つの文章は、何をいっているのか、ほとんど分からない。でも、なんか気になってしょうがない。そういう存在だ。
なぜ、分かりもしないものが気になるのか?
それは、私が、彼の風変わりな人生の物語と彼の哲学を重ね合わせて読むという非常にロマンティクな読み方をしているからとしか言えない。そういう観点で、ウィトゲンシュタインを読む私にとって、もっと強烈な読書体験は、「論理哲学論考」の結語「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉。
「ウィトゲンシュタイン入門」は、まさに「語りえぬもの」の問題を軸にして、ウィトゲンシュタインの哲学を初期から中期、後期へと著者独自(?)の解釈を進めていく。
著者は、ウィトゲンシュタインの「論考」での「語りえぬもの」という問題は、後期の「哲学探求」では「すべては言語ゲームであり、どんなことでも語りうる」となっているとしたうえで、「語りえない」ものは、「正当な言語の範囲拡大とともに、それは文字通りまったく語りえないものとなった」のだとする。
「入門」を超えた(しかしながら、「考えるという事が何なのかという事に関するそもそもな入門」ではある)スリリングな本であった。だけど、私にはこの本ですら、難しかったので、内容はともかく、自分の満足度としては星は4つとした。