- Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480058003
感想・レビュー・書評
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いやはや、久しぶりに自分の読解力をはるかに超えるものを読んだ。入門書でこれだから、オリジナルを読んだらどうなってしまうのだろう。
よくある自己―他者という軸なのだが、複雑すぎる。が、一つだけ、性愛についての説明は、大変よくわかった気になっている自分がいるから不思議である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
[ 内容 ]
フッサールとハイデガーに学びながらも、ユダヤの伝統を継承し、独特な他者論を展開した哲学者エマニュエル・レヴィナス。
自己の収容所体験を通して、ハイデガーのいう「寛大で措しみない存在」などは、こうしたおそるべき現実の前では無化されてしまう、と批判した。
人間は本当はどれだけわずかなものによって生きていけるのか、死や苦しみにまつわる切なさ、やりきれなさへの感受性が、じつは世界と生を結びつけているのではないか、といった現代における精神的課題を、レヴィナスに寄り添いながら考えていく、初の入門書。
[ 目次 ]
個人的な経験から―ばくぜんと感じた悲しみ
第1部 原型じぶん自身を振りほどくことができない―『存在することから存在するものへ』を中心に(思考の背景―ブランショ・ベルクソン・フッサール・ハイデガー;存在と不眠―私が起きているのではなく夜じしんが目覚めている;主体と倦怠―存在することに耐えがたく疲れてしまう)
第2部 展開「他者」を迎え入れることはできるのか―第一の主著『全体性と無限』をよむ(享受と身体―ひとは苦痛において存在へと追い詰められる;他者の到来―他者は私にとって「無限」である;世界と他者―他者との関係それ自身が「倫理」である)
第3部 転回:他者にたいして無関心であることができない―第二の主著『存在するとはべつのしかたで』ヘ(問題の転回―自己とは「私」の同一性の破損である;他者の痕跡― 気づいたときにはすでに私は他者に呼びかけられている)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
―砕かれた世界、親しい者たちという中心を喪失してしまった世界がなお在る。
世界から意味がこぼれ落ち、しらじらと漂白されてしまってもなお、世界は単にあるのだ。
親しい者たちの死すら、世界に穴を穿つことはない―
『世界内では、あらゆる涙が乾いてゆく』
世界とは何か?
私の中でずっとくすぶり続けている命題。
私にとって、世界とは《自分》だった。
私というフィルターを通して捉え、認識する領域。
だから、私が死んだときに、私の世界は終わるのだと。
そう思っていた。
けれど、誰かが死んだあとも世界が在り続けているのも事実。
それは、外界世界と内在世界との葛藤。
世界とは、なんだろう。
世界とは、 -
おそらく日本で一冊であろう、レヴィナスの入門書。
レヴィナスはハイデガーやフッサールのもとで現象学を学んでいて
パリ5月革命は肯定的ではなかったあたりが、
自分の知らなかった、いくぶんか興味深いレヴィナスを知れた。
確かに一言でレヴィナスを語り尽くすのは難解であるが、
非常によくレヴィナスのエッセンスを取り入れつつ、熊野氏の味も出ていると感じた。
最終章になるにつれ、レヴィナスの論理が彼の人生とともに変わっていくさまも見る事ができて、
感慨深かった。
他者論には欠かす事の出来ない偉人。 -
レヴィナス入門