レヴィナス入門 (ちくま新書 200)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480058003

感想・レビュー・書評

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  • 少し前に読んだ哲学大図鑑で気になったので、入門書として読んでみたが、中々難しかった。
    レヴィナスの思想の背景にあるフッサールの現象学は以前に入門書を一読していたから掴めたものの、ハイデガーの方は不勉強であった為、それと比する形での説明は理解できたと言い難い。
    一般書としての平易な記述をかなり意識されていたが却ってまどろっこしさを感じる部分もあった。
    終盤の内容は、個人的な時間の不可逆性への恐怖や生まれたこと生きていることの申し訳なさ、関係すること認識してしまうことの不安と関連づけて考えられた。解釈は間違っているかもだけど。
    いずれにせよもう少し知識をつけて読み返したい。

  • 「存在」「主体」「身体」「糧」「世界」「他者」「女性」等々のキーワードを、レヴィナスの思想の展開をたどりながら、説明していく。彼の思想を捉えるための手がかりが得られるように思うが、一読しただけでは、それもなかなか難しい、というのが正直なところ。

  • 文の書き方が技巧的で、僕にはちょっと大変だった。

  • レヴィナスの思想について、判りやすくゆっくりと解説した入門書。
    中身はしっかり詰まっているので新書だからといっても読むのに時間はかかるが、先に読んだ物よりも判りやすい印象を受けた。先に読んだせいかもしれないが、年譜と思想を交互に読んでいくせいか。

  • レヴィナスの思想のエッセンスは何となく理解出来たという感じか。

    ところで、現代思想は比喩表現や造語が多い気がする。言葉が違うだけで同じことを言ってるだけなのでは勘繰りたくなるとこもある。

  • けっこう前に書かれた本なせいか、入門と言うにしては難しい……震災を経験したあとの日本の哲学者たちのレヴィナス評ができれば読んでみたいな。

  • 非情に面白い人物だ。楽観的なのか悲観的なのかまるでわからない。悲観しているのかと思えば、かなり楽観的に理論を構築し始める。しかし、彼の中では一貫したものがある。それが哲学者なのだろう。レヴィナスの名前はそれほど広くはきかない。それは、カントやニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、フッサール、ベルクソン、ハイデッガーなどと比べればという次元でしかないのだけれど。そうでありながら、なぜ、レヴィナスに焦点が当たりつつあるのか?その問いにはある程度本書で回答を得られたように思われる。彼はユダヤ人というアナクロニズム的な考え方に縛られていることを自覚していたのだろう。それゆえに経済性という観点を用いている。確かに経済学は近代的な概念であるのだけれど、経済学ではなくて経済性という観点でアナクロニズムに駆られていると言えようし、サルトルがマルクス主義を取り入れたのは解決策のようなものであって、あくまで彼の哲学観自体がマルクス主義によって構築されていたというわけでもない。レヴィナスは彼の哲学観自体をそうした観点で構築しようとしている。しかし、出発点は違う。出発点が非情に悲観的かつ、独自である。基本的には誰しもが自らの存在を肯定的に捉えようとしている、あるいは存在の可能性に迫ることで真理を獲得しようと努めている。だが、レヴィナスは「存在することに疲れる」と述べている。あるいは、主体も現在も全ては「存在に従属せざるを得ない」といった点に絶望している。彼はベクトルが異なるのである。彼の出発点は悲観的である。終着点もある種悲観的と言えよう。だが、その過程には楽観的要素が入り混じる。それゆえに彼の哲学は倫理とも言われるのだろうし、なんとも捉えがたい性格を持ちうるのだろう。

    ちなみに彼の系譜的に言えば、フッサール、ベルクソン、ハイデガー、サルトルの影響があるのだろう。フッサールの現象学、ベルクソンの時間論、ハイデガーの現存在、サルトルの実存、まなざし、その全てに影響を受けた上で、彼は「他者」あるいは「他我」にたどり着いている。現在は存在に従属している。現在に対して我々は悲観的にならざるを得ない。ならばその救い主は?他者である。超越論的主観性、しかしそれぞれの超越論的主観性を結びつけるものは?(ここで、超越論的主観性が超越的な絶対的な一つとすればその間は消えるかもしれないが、実際に一つとは言い切れないだろう)、だとしたら、それを結びつける超越論的間主観性とは、つまり超越論的他我性なのである。存在、現存在、しかし、それらのそれぞれの境界は?世界でいいのか?いや、他者であるべきだ。サルトルの影響は存在に疲れる、という言葉に直に表れている。サルトルはまなざしに嘔吐感を覚えたのだけれど、レヴィナスはそれをより直裁に表現している。故に、彼はそれぞれを一応評価しているのであろう。とはいえ、彼はハイデッガーに対してはかなり批判的であったようだが、それはハイデッガーのユダヤ人蔑視にもあったのではないか?しかし、レヴィナスは自らがアナクロニズムに捉われていることを自覚しているのだ、もっと言ってしまえば、人間、現存在はアナクロニズムに捉われなければ生きてはいけないのだ。このあたりはどうにもヴィトゲンシュタインを髣髴とさせる。ヴィトゲンシュタイン以外は、他者と区別される<わたし>を想定しているが、ヴィトゲンシュタインだけはその一方上、つまり他者と区別されないこの、<このわたし>というある種独自なところまでのぼっているので永井の評価の理由もなるほどなとうなずけるものだ。さて、レヴィナスにとって他者とは救いにも悲劇にもなりうる。他者のおかげで我々は、我々でありうる、というこれは救いかもしれないが、他者に常に圧迫されて傷つけられることで我々は成立しているというのは悲劇なのかもしれない。我々が自己を強烈に意識させられるのは、それだけ他者によって圧迫されたからではないか?著者は述べていないが個人的にはこう読める。自己が同一性の敗北、あるいは破損でありうるならば間違いなくそう言えよう。更に、我々は身体に拘束されるが、その身体が他者に削られることで存在できているとしたなら、我々は絶えず自己喪失しているとも言える。このあたりの解釈は現代的な現象学解釈に近しいのかもしれない。鷲田、竹田あたりである。これを肯定的に捉えるとそうなるのだろう。これを悲観的に捉えるならば確かにそこに生産性はないかもしれないが、しかし、そこから迫れるものはやはりあろう。だが、個人的には永井ヴィトゲンシュタインに触れてしまうと一抹の物足りなさを覚えるのも事実だ。それは、つまり、他から切り取ることで自己を確定しようとする営みがどうにも個人的には気持ち悪いからである。それは妥協とは言えまいか?あるいは、簡単な便宜的な解決策なのでは?より本質に迫れるのではないか?言語のテクニカルな周辺的議論にならずに、迫れる術はないのか?そこが個人的にはかなり気になる場所である。しかし、「存在に疲れる」このフレーズだけでも、レヴィナスに触れた意義があると断言できる。その一言を求めていたように思われる故に。

  • コンパクトなレヴィナスの入門書。とくにハイデガー哲学と対比することで、レヴィナスの哲学が従来の西洋哲学における存在論を反転させて、まったく新しい光景を私たちに見せてくれるものであることを教えてくれる。

    ハイデガーによれば「存在は存在者ではない」。したがって「〈それ〉が存在を与える」(Es gibt das Sein)といわなければならない。著者はここに、「存在とは贈与である」という発想を読み取っている。「存在論的差異」を主張するハイデガーには、「存在のあり-がたさ」ないし「存在者が存在することそのものという、稀有なできごとへの感覚」が働いていた。

    だが、あの戦争から生還したユダヤ人レヴィナスにとっての存在の感覚は、ハイデガーのそれとは異なっていた。それは、世界がいまだに存在していることに対するいぶかしさである。何もかも変わってしまったのに、親しかった者たちは皆いなくなってしまったのに、なお世界があるのはどうしてなのか。存在とは贈与どころか、むしろ意味の徹底的な剥奪なのではないか。こうして著者は、レヴィナスの「イリヤ」を、彼が抱いたはずの独特の存在への感覚と結びつけている。

    さらに著者は、〈同〉の中の〈他〉を追求する『存在とは別の仕方で』のレヴィナスの思索の内に、〈喪失〉への感覚を読み取っている。私は息を吸い、息を吐く。かつてレヴィナスが「享受」という言葉で描き取ったこの事態を、後期のレヴィナスは、私が息をするごとに〈他なるもの〉にさらされ老いてゆく自己喪失のプロセスとして理解しようとする。その意味で、「生とは生に反する生なのである」といわれる。

    私はそのつど世界に直接することで傷ついている。私にはすでに逃げ道がなく、この世界に対していつも決定的に遅れてしまっている。このことを、著者はレヴィナスの性愛についての叙述の内に確かめている。「愛撫されているものは、ほんとうは触れられていない」とレヴィナスは語る。彼が触れようとした他者の現在は、すでに過ぎ去った若さである。若さの内にすでに老いがきざしている。ここに、〈同〉の内に〈他〉を、現在の内に「現前」ではなく「痕跡」を見ようとするレヴィナスの後期思想の特徴が示されている。

  • レヴィナスの思想を二つの主著の内容を中心に概略。存在や<ある>(ilya)についての、考察が多く、ぼくが考えていたレヴィナスのイメージー他者とのコミュニュケーションが全体性を破綻させるーといった点にはあまり向いていなく、その点に興味があったぼくとしては、若干滑った感じかな。ただ<ある>ilyaという考え方は面白かった。

  • 芸術がなりたつのは一般に、世界からこの隔たりのゆえである。芸術は、あたえられた世界をひとつの「異郷」として手わたす。
    しかも世界をその「裸形」において、その異邦性をあらわにしつつてわたすのである。ロダンの彫刻にみとめられる荒々しい魂の存在感、セザンヌの絵画における剥き出しの形態、「色と線との純然たる戯れ」、あるいは「存在の膨らみ」の表現、それらがあらわしているものは、物質があ'る'ということ、世界が存在するということそのものだ(『存在することから存在するものへ』)

    問題となっているのは、世界が私とはなんのかかわりもなく、た'ん'に'存'在'す'る'ということである。芸術は、その意味でおしなべて「異郷的(エキゾティック)」であり、異郷としての世界をこそあらわにするものである。芸術によって開示された世界のまえで感じられるものは、この世界そのものが異郷であることにほかならない。
    私とはなんらかかわりもない裸形の世界のただなかに、私もまた身ひとつの裸形で投げだされている。それは一箇の悲哀だろう。この世にあることの、底しれない悲惨でもあるようにおもわれる。だが、この悲惨のゆえに、他者へと私はひらかれているのではないか。

    生還してつぎつぎと耳はいるのは、失踪が<連行>であったこと、返信の途絶が<絶滅>によるものである。親しい者たちの決定的な不在がたしかめられる。生き残ったものは生きてゆかなければならない。死者が占めていた場所を、やがて生者が埋めてゆく。喪があければ、日常がはじまる。死者の不在そのものが存在のなかに紛れ込む。
    このことは、とはいえ、どこか底なしに恐ろしいことではないだろうか。死は空虚を穿つ。「イリヤ」のざわめきが、やがてそれを満たしてしまう。「たったいま死んだものによって残される空所が、志願者のつぶやきによって充たされる」。つねに「存在の否定がのこした空虚を、あ'る'が埋めてしまうのだ。

    なにもかも消えてしまって、なおた'ん'に'あ'る'。イリヤの経験は、灯あかりひとつない夜の闇の経験、しかも子どもが経験するそれに似ている。
    闇に目を凝らし、微かな音に耳をそばだてようとしても、なにも見えずなにも聞こえない。にもかかわらず「あたかも空虚がみたされ、沈黙がざわめきだっているかのように」感じられる。闇があ'る'。それはしかし「存在者」でも「無」でもない。
    ベッドに入って、なお眠れず起きつづけているとき、私の意識はしだいに闇そのもののなかに溶け出してしまうように感じられる。私じしんの身体の輪郭さえ闇のなかであいまいとなり、意識は透明に冴えわたっていながら、透明となることでむしろ夜そのものと溶け合ってしまう。私'が'おきているのではな、もはやない。「目醒めているのは夜じしんである。<それ>が覚醒している」。そうなってしまえば、私はもうどのようにしても眠ることができない。私'が'そう意志して眠らないのではい。なにものかが覚醒しつづけているのだ。その意味で「夜の目醒めは無名である」。あるいは匿名的であり、非人称的ある。「この無名の目醒めのなかで、私は存在に残るくまなく曝されている」
    意味を剥奪された不眠が、イリヤの恐怖に囚われる。

    悪夢のように長引かされ、死ぬことも禁じられた、身動きひとつとることのできない生そのもののようである。死ぬことではなく、死ぬことすらできないことが恐ろしい。
    はじまりも終わりもないイリヤは、その意味で永遠の恐怖である。
    引き裂こうにも引き裂けない「無名の存在のざわめき」が告げるのは「人には存在する義務がある」、ということである。
    私が存在するかぎり、私は存在そのものに曝されつづける。イリヤの恐怖は止まない。だが、そうであるとすれば、私が存在することには、た'ん'に'あ'る'こと以上の、イリヤ以上の意味があることになる。
    だとすれば、しかし<私>はどのようにして存在しはじめることになるのだろうか。

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著者プロフィール

東北大学助教授

「1997年 『カント哲学のコンテクスト』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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