モンゴル帝国の興亡 (ちくま新書 314)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480059147

作品紹介・あらすじ

モンゴル帝国は東の中国世界と西の地中海世界を結ぶ「草原の道」を支配し、それによって世界史の舞台を準備した。もっとも帝国とはいっても、一人の皇帝が中心にいて全国を統治するというものではなかった。その内部の構造はどうなっていたのだろうか。そもそも、その巨大な帝国はどのようにして創られたのだろうか。今は歴史の後景に退いた、史上最大の帝国の過去と現在。

感想・レビュー・書評

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  • 2017/12/04 14:43:21

  • 第一章第四節 カラコルムの栄光から、第二章 元帝国の発展、まで。以下備忘録的に。/1242年、モンゴル遠征軍撤退時にオーストリア軍が追撃し捕虜にした将官のなかに、イギリス人がいたこと。ガブリエル・ローナイ「モンゴル軍のイギリス人使節―キリスト教世界を売った男」で取り扱われた人物のことか。/フビライが開平府で即位直後に、中書省のトップにたったのが王文統、李壇軍閥の利益代表だった、と。しかし、翌年、李壇の反乱と鎮圧に伴い失脚し殺された、と。/皇帝と中書省、枢密院、尚書省とは直接接点がない、それぞれを司る、アントンはチャブイの甥、チンキムはチャブイの子、アフマドはチャブイの家臣、チャブイのみが接点で、だからフンギラト政権だ、というが、アントンはフビライとも血縁、チンキムはフビライの子でもあるし、アフマドも自ら任命したと思われるし、一概にそうは言えないのではないか,と個人的には思う。/1282〜1284年に皇太子チンキムの独裁体制が確立したかに見えたが、翌年急死。/キプチャク部族のトゥクトゥカは、ハダン攻撃に派遣、その息子チョングルは、ハイシャンとともに1301年にハイドと戦い、その息子は権臣エル=テムル。/元朝はフビライ家の私有財産であり、元朝の行政はハーンの私領からの収入でまかなわれていたが、遊牧民の均分相続の習慣のため、代替わりごとに私領は分割され宮廷の財政は逼迫→商業収入はなかったのだろうか?/ティムールは最初は北元のハーンに敬意を表して貢税を払っていたが(明にではない)、モンゴル各地への遠征で勝利を収めて、宣戦を布告。/トゴン・テムルは、権臣たちを競わせ、最終的には彼らの勢力をそぎ、自らの影響力を確立したが、その過程で、権臣たちがにぎっていた軍事力はいちじるしく低下し、明をはじめとする諸勢力の反乱をおさえることができなかった、と。皮肉な成り行き。

  • 幅広く拾い過ぎて全体像が判りにくい本。判ったことと云えば、領土の相続が分割されたこと、ハーンが世襲ではなく選挙によって選ばれたことなどが、モンゴルが結局バラバラで統一されなかったことの原因なのかも知れない。

  • この本は、チンギス・ハーンによるモンゴル帝国(1206-71)の成立から、元(1271-1368)と4ハーン国(キプチャク・ハーン国(1243-1502)、イル・ハーン国(1258-1353)、チャガタイ・ハーン国(1277-14c後半)、オゴタイ・ハーン(1225頃-1310))の分裂までは普通ですが、この本の最大の特徴を挙げるならば、概説書や教科書で語られるがあまりない北元(1371-88)(エセン・ハンのオイラートやアルタン・ハーンのタタールを含む)と各ハーン国のその後について幅広く書かれていることです。
    反面、あまりに地域が幅広いのでいまいち詳しくないのが難点ですが・・・

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著者プロフィール

東洋史家

「2018年 『真実の中国史[1840-1949]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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