思考の補助線 (ちくま新書 707)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480064158

感想・レビュー・書評

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  • あらゆる分野での研究が日々進んでいて科学で説明できないことなんてないんじゃないかと思わせられる現代。
    でも、いくら科学その他の学術研究が進歩したとはいえ、人間の思考や感情が完全に解明されたとは言えない。時間や空間や個人のバックボーンといった条件をどれだけ揃えても、一人ひとりの人間の感じることや思考の内容は同一にはならない。
    これだけ科学で説明できることが多い世界で、説明のつかない人間の思考の曖昧さは、自明のものではなくむしろ驚くべきものだと茂木氏は言う。

    そこから様々な思考的アプローチで人間の本質を説こうとし、しかし結局はどのアプローチをしても曖昧なところに着地する印象を受けた。
    自分の理解力が著しく及んでいないこともあるが、氏はおそらく「あーでもないこーでもないと思考すること論ずることが人にとっての至上の贅沢」ということを本書を使って読者に示しているのではないだろうか。

    気に入った箇所引用。
    "哲学、思想、社会学、経済学、数学。あらゆる知のディシプリンにおいて、不用意に淫すると堕してしまう罠は至る所にある。ここで言う「罠」とは、つまり、世界の多様性を正しく見ることができなくなるということである。とりわけ、「普遍性」の概念を不用意に立ててしまつことの中に、人間を怠惰にするトラップが仕掛けられている。"

    =====
    個人的な話。
    社会の法則を知るために、具体的な人間の行動を抽象度を上げることで一般化しようとしてきた自分にとって、抽象化・一般化された数式から人間を理解しようとする本書のアプローチは新鮮で面白く、それでも解明できない人の思考というものはやはりたまらなく魅力的だと感じた。
    社会学的アプローチと数学的アプローチの違い、のようなイメージ。

  • 知のデフレからの脱却にむけて学問への情熱の補助線。
    専門性と総合性のバランス。
    全部をよんでぼんやりしたらつながるかなという印象、だけど、結局どういうことなんだろう?
    C0200

  • 『クオリア』という問題を考える上での 茂木氏の心構えというか
    クオリアへの闘争宣言 序論 というべきものなのだろう。
    コンペイトウのような ゴツゴツした ツノが生えていて
    そのツノのぶつかっている 部分が おもしろい。

    ツノのぶつかっているのは・・
    知というものの軽薄化。
    科学者の制約とルールの枠を飛び越えない旧態依然さ。
    学問に突き進むべき情熱の希薄さ。
    世界を引き受ける 勇気を持たない輩たち。

    クオリア問題の 『天下統一』を 成し遂げていくための
    受難(passion)と情熱(passion)がほとばしり・・・・
    モギ的言葉の じゅうたん爆撃みたいで・・・心地よい。
    『言葉』の 縦横無尽さが まるで義経の八艘とびのようである。

    モギ本をいくつか読んでいると 
    おなじような 『モギ話』がでてくる・・・・
    モーツアルトの明るさとは?
    夏目漱石の批評性とは?
    湯川秀樹の教養とは?
    その 『モギ話』を うまく活用して 展開する。
    茂木氏の 編集能力が うまいというべきなのだろう

    茂木氏は言う
    『昨今の人々は分かりやすいものばかりを求めるようになった。
    難解な本を読んだり、
    真剣に粘り強く本質的なことを考えたりしなくなった。
    「インテリ」という言葉が死語になった。
    日本におけるそんな「知のデフレ」現象に私は怒りを覚え、
    不特定多数の人々が集う公の場ではともかく、
    親しい知人や仲間たちの間では
    「ふざけんじゃねえ」と噴火を繰り返してきた』

    知識層なるものが 特権ではなくなってきている。
    インターネットの急速な進展による 
    知識を取り入れる方法が簡便になったことによって
    『知のデフレ』が起こっている。
    クオリアというような問題も 
    ブログやこのような『新書』で 
    入り口までは入れるようになったことはありがたいことである。


    茂木氏は言う
    『大切なのは、「何が正しいか」ということではなく、
    「何がしたいか」という情熱のほうなのではないか
    と思うようになった。
    難しいことに取り組む「インテリ」になること自体が
    重要なのではない。
    問題は、それがどのような情熱によって
    支えられているかということである。』

    『まえがき』の 1ページの中に 十分に 
    知へいざなう 地雷の仕掛けができている。

    茂木氏は言う
    『子どものように問いかける気持ちが学問から失われている』

    なぜ その問題に取り組むのか?
    なぜ そのことを考えるのか?

    そのような素朴な質問が 専門性や科学性 のなかで
    拒絶され 窒息させられている 現実を 素直に見つめる。
    それを突き破るには・・・
    『学問への情熱』に他ならない。

    茂木氏は言う
    『情熱は、結局は生きるということに由来する。
    生きるとは 行き交うことである。
    出会うことである。
    幅広く眺めることである。
    そして、ときには ルールを無視することである。』

    情熱の源泉が ニンゲンが生きることである・・・
    うれしいこと、たのしいこと、あいすること、不条理なこと
    それをすべて 引き受けながら 生きていくこと。
    『わからないこと』に どう 自分の補助線を引くのか?
    ニンゲンだけの 楽しみである。

  • 100年間、特にこの50年間に学問の領域は理系とされる分野に於いて細分化され深化した。それゆえにかつてなら科学や知の全領域を専門性を以て見通すことが可能であったが、今ではほぼ不可能になった。

     しかし、現在世間一般の知のレベルはその専門性の細分化と深化では説明できないほどの低下を見せている。それはいろいろな娯楽が増えたこともあろうし、それに伴いそもそも知の顎が柔になったこともあるだろう。

     それに加えて、一般大衆のうすぼんやりした人生に対する呑気さは日本人に於いて顕著であるという。確かに日本では人生や哲学等のテーマは話題に上りにくい。たまに上がったとしても、たいていは酒席でのからみであったり、反論を待たない捨て台詞の形でしかない。到底討論、対話にはならない。

     生活のない哲学は無意味だが、哲学のない生活は空虚である。それは動物が本能で生きるだけの一生と変わりない。金のために働き、子を育て、飯を喰らい、たまに旅行をする。それは人間風の動物的生き方である。動物は生きているが、それは身体を生きているだけである。

     五木寛之のように「生きてるだけで正しい」は人生に絶望し、自殺するひと向けには一時的なモルヒネの効用もあるだろう。だが息を吸って吐くだけの「生きる」に人としての価値はそれほど認めることは出来ない。日本は特に額に汗して働き、真面目に生活を送ることを至上の生き方と考える。だが、それは思考の怠惰を是認することであり、そのうすらぼんやりした生活が有象無象の害悪を自己にも他者にもまき散らしていることを忘れてはいけない。それは語弊を恐れずに言うならば、原発の放射能に勝るとも劣らない害悪である。

     問題にしたいのは、生活が生きるだけの思考に留まっている点である。生活は重要である。生活の思考は生活それ自体以上に重要である。しかし、それは動物でもそこそこやっている。キリストは「人はパンのみに生くるに非ず」と言った。キリストは戯れ言も多いが、ごくたまにいいことも言う。パンのみに生きない日本人は、娯楽を楽しんでいるがそれはパンである。テレビ、映画、音楽、劇、絵画などこれはパンである。パンを得る労働の癒しとしての存在であるからパンである。

     パンに関する集合に属さない知をそろそろ真剣に求めるべきではないか。ボランティアを単位に認定する大学があるという。もちろんそこは「大学」ではない。

  • 2008年20冊目

  • なんかこう・・・一人の人間のスケールに対して世界は果てしないなあ、と、思って途方にくれていたようなときに、少しヒントをもらえるような。

  • 【図書館】
    タイトルから思ったのは「思考の補助線の引き方」だったんだけど、
    そんなラクしようとしたら、怒られちゃいそう。
    「アハ体験」を推奨しているフレンドリーな学者、だと思ってたんだけど、
    実は怒れる学者だったのね。

    不可能であると知りつつも、世界を引き受ける野心をもつこと。
    そんな覚悟で、世の中を知りたい、深く学びたいと願うこと。

    うーん。反射で「無理!」って言っちゃいたい。

    でも、無理を無理と知った上で、
    それでもあがいてしまう人間の姿を描くお話は世の中に沢山あって、
    ハッピーエンドで終わればベストだけれど、ひたむきに取り組む人の姿は、
    たとえ最後まで叶わなくても、何かを残してくれる。

    とにかくただ、まっすぐに進むことに全力を注ぐ人々、
    そういうものを好きだと思う人間の一人として、自分も、
    無理だと知りつつも、諦めまい、折れまいと自分を律することができればいい。

    学問を究めようとストイックになることはできないけれど、
    それでも、科学や政治や経済や、世の中のいろんなジャンルの問題に対して、
    食わず嫌いをせずにのぞいてみよう、と思うことはできるかもしれない。

    ま、気負わずに、がんばっていきまっしょい。

  • 自家中毒だったのねこの人も。繊細なのね。

  • 読書会で読む。
    その後マインドマップ化するときに「なぜ補助線」なのか?といったことが分かる。
    マインドマップで理解が進んだ一冊。
    なぜ茂木さんが小津安二郎の映画を好むのか分かった。
    静止的印象と「唯一の真理」を求める時に、ダイナミズムがぶつかるのが面白かった。

    この本に先立って、梅田さんの『5つの定理』を読んでいて、
    「茂木さんと対談して、怒りについて話をした」というのを読んだ後に、
    この本で
    「梅田さんと対談して、ビジョナリーについて話した」とあって、リンクした。

    次に『国家の罠』を読んだら、
    「魂は沖縄では6つあるとされている。○○(エスキモー?)では36(?)あるといわれて
    納得した」とあった。

    「思考の補助線」では唯一のものを求めいているがそれ自体が、ヨーロッパ的だなとおもった。

  • なかなか興味深い本だった。
    今の時代に語られる、専門細分化と文化の細分化に対して、それらが硬直した状態に補助線を引くことで新たな視点と思考を獲得するべきだという。
    個々の分化に対して、クロスオーバーしながら包括的に物事を考えるのは、それ自体の強度を低くしてしまう恐れがあるし、結局は抽象的なままにとどまってしまう可能性がある。
    ましてや専門とするものに長けていない者がそんなことをしようとすれば、思想はとても脆弱になる。
    ヒエラルキーを取り払い、等価な関係のもと物事を扱い、様々なことを相対化していくことに対して、筆者と同様一矢の希望を見出しつつも自分自身はその先がまだ見えない。

著者プロフィール

脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘教授。「クオリア」をキーワードに、脳と心の関係を探究しつづけている。1962年、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。理学博士。
著書『脳と仮想』(新潮社、第4回小林秀雄賞受賞)『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房、第12回桑原武夫学芸賞受賞)『脳とクオリア』(日経サイエンス社)『脳内現象』(NHK出版)『感動する脳』(PHP研究所)『ひらめき脳』(新潮社)ほか多数。

「2013年 『おぎ・もぎ対談 「個」育て論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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