- Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480082497
作品紹介・あらすじ
「わたし」の意識はわたしが知らずにいる無意識によって規定されている。「意識」には「無意識」を、「理性」には「リビドー」を対置して、デカルト以来のヨーロッパ近代合理主義に疑問符をつきつけたフロイト。「自我」(「わたし」)を「意識」「前意識」「無意識」という構造として理解しようとした初期の論文から、それを巨大な「エス」の一部ととらえつつ「超自我」の概念を採用した後期の論文まで、フロイト「自我論」の思想的変遷を跡づけた。「欲動とその運命」「抑圧」「子供が叩かれる」『快感原則の彼岸』『自我とエス』「マゾヒズムの経済論的問題」「否定」「マジック・メモについてのノート」の8編を、新訳でおくる。
感想・レビュー・書評
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断捨離がてらざっと再読。若い頃よりバカになっているので、昔読んだときは理解できたことが今はちんぷんかんぷんだったりした(苦笑)
確かこの本で、「涅槃(ニルヴァーナ)原則」という言葉を知ったのだったと思う。「死の欲動=涅槃原則=タナトス」と「生の欲動=快感原則=エロス」、そして現実原則。
「マゾヒズムとは自己に向けられたサディズム」というのはわかりやすい。
※収録
欲動とその運命/抑圧/子供が叩かれる/快感原則の彼岸/自我とエス/マゾヒズムの経済論的問題/否定/マジック・メモについてのノート詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「快感原則の彼岸」「自我とエス」等の主要論文が掲載。文庫なので、手軽に手に取れるうえ、訳も読み易く、訳注も豊富。実は、10年前に読んだ時は、ちんぷんかんぷんだった(笑)。が、今回は、非常に面白く読めた。上記の主要論文ほか、「子どもが叩かれる」「マジック・メモについてのノート」が、個人的には面白かった。フロイトの思考過程(あーでもない、こーでもない、この説明ではヘンだ、不十分だ…等々)も興味深く、臨床家としてのフロイトの実践と思考とのせめぎ合いが、足跡として伝わる。フロイトも、あくまで近代思想のひとつであること、その意味で、近代という時代背景を抜きには読みにくかったのだなーという気がしている。個人に内面(心性)があり、そこに意識/(前意識)/無意識がある、という発見や人間像の提起は、近代(思想)という系譜のうえで理解するのが、ふさわしいように思える。そういう読み方の可能性に気づかされたという点でも良かった。
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優先度の高い、「快感原則の彼岸」を読む。それまでのフロイト精神分析の理論、すなわち性欲動の快感原則だけでは説明しえない、反復強迫を様々な観点から考察する。子どもの遊戯の執拗な反復、神経症の状況再現と克服の試み、意識・無意識システムにおける備給エネルギーの集中、刺激保護による知覚と意識の生成、原生生物の反復増殖などを経て、個体にとって反復(無機物への還帰)が原初的欲動であり、快楽原則に先行すると推察する。つまり、快楽原則に従う生の欲動(自己保存・性欲動)以外に、快楽原則の彼岸として、死の欲動(無機物状態への還帰)があることを結論づける。
人間は快を求める快感原則に従っているが、このことは「夢は願望充足である」という『夢判断』以来の命題と結びつく。しかし、反復強迫、災害神経症の夢は、外傷トラウマを繰り返しており、それでは説明できない。つまり、快感原則の彼岸がある。通常は、不安によって心的に外傷に耐えうるように準備されるはずが、外傷が不意打ちであった場合、驚愕となって持続的な痕跡となる。その原因となった不安の形成を行うため、繰り返し災害現場などを再現するのである。
無意識において、内部からの欲動の興奮が、快感原則に従い、心的な自由エネルギーとして表象から表象へと放出を求める(一次過程)。覚醒=前意識・意識において、現実原則に従い、それが拘束され静止エネルギーへと変化する(二次過程:自我が形成された後に発生。抑圧)。これがうまくいかないと外傷神経症を引き起こす。拘束してはじめて快感原則の支配、現実原則への修正が可能になる。
欲動は、子どもの遊戯や魚・鳥の生息地回帰のように、反復を求める。成長は外界からの影響によるものである。欲動は、生命の推移において強制されたすべての変動を受け入れ、反復するために保存されている。生命の目標は、変化や進歩ではなく、最初の状態に戻ること。無機的な状態に還帰すると仮定すると、すべての生命体の目標は死である。
生の欲動(自我のナルシシズム的な自己保存欲動、対象をもつ性欲動)、死の欲動(無機物への還帰)。快感原則に従う生の欲動と、快感原則の彼岸としての死の欲動がある。
死の欲動が、「固有の死を求める」というのは、ハイデガーの『存在と時間』を想起させる。
・快感原則の彼岸
不快な緊張によって刺激された心的なプロセスは、緊張を減退させ、不快を回避、あるいは快を生成する快感原則によって自動的に規制することが自明視されている。これは、経済論エコノミーの観点を導入することを意味する。局所論、力動の他に、経済論を含む理論は、完璧で、メタ心理学と呼ぶに値する。心的な生に存在し、いかなる形でも拘束されていない興奮の量と、快と不快を関連させる。不快は興奮量の増大、快は減少。感覚の強さと変動に単純な関係は存在しない。時間における増減が感覚にとって決定的な要素。
快と不快について、グスターフフェヒナー『有機体の発生と進化の歴史について』、意識的強迫、快不快、精神の安定不安定は結びつく。識閾を越えるすべての精神物理的運動は、ある限界を超えて完全な安定性に応じ快となり、そこから離れると不快となる。2つの間に無関心がある。
快感原則は、興奮量を低くあるいは保つ恒常原則から想定する必要があり、導かれる。これはフェヒナーのいう、安定傾向原則の特別な事例ということになる。ただし、他の特定の力がこれに逆らうため、常に快感傾向の結果が一致するとは限らない。快感原則は、外界の重圧のもとで、有機体が自我の自己保存欲動の影響を受けて、現実原則に代わる。現実原則は、満足を延期し、不快に耐えることを強いる。快感原則は、教育しにくい性的欲動の働き方であり、現実原則を圧倒し、有害な効果をもたらすことが多い。
しかし不快の源泉は、自我の統合の間に発生する葛藤と分裂である。様々な欲動は互いに対立することがあり、その際には自我統一が優先され、当面満足の可能性が奪われるが、性的欲動など迂回して直接的満足や代用的満足を手に入れる。しかし、抑圧された古い葛藤であるがゆえに自我はこれを不快として感じる。すべての神経症の不快は、この種の快として感じられない快である。
2つの不快以外の多くの体験は、快感原則の支配に矛盾しない。これは知覚の不快で、満たされない欲動、苦痛、期待が危険なものとされる外部の知覚。
機械的な振動や列車の衝突など生命を脅かす事故のあと、外傷神経症がみられる。これは神経損傷ではなく、心気症やメランコリーのように主観的苦悩の兆候がある。戦争神経症は、機械的作用なしにこれが起こる。外傷神経症は、驚愕と不意打ちに原因があること、同時に負傷損傷があると神経症が発生しないという2つの特徴がある。驚愕、恐怖、不安は、危険において区別できる。不安は、未知を含む危険を予期し備える。恐怖は、特定の対象が恐れられる。驚愕は、全く準備のない危険に陥ったときの状態で、不意打ちの要因が強調される。不安は、驚愕から防衛し、外傷神経症を防ぐ。
→ハイデガー恐れ、不安
魂の深部のプロセスの信頼できる研究方法は、夢。夢で事故に立ち戻り、驚愕で目覚める。外傷(トラウマ)に身体的に固着している。目覚めた生活においては、そのことを考えまいと努力している。
心の装置の働き方について、一歳半の子どもが作り出した遊戯を検討する。おもちゃなどの小物を部屋の隅やベッドの下などに放り投げ、オーオー(フォールト=いない)と音を立てた。一つの遊戯。見つけて渡すとダー=いた、と迎える。姿を現す動作の方が、大きな快感を伴った。このことは、躾の良さと関連がある。母親が子供のそばを離れても受け入れ、欲望放棄をする。母親のいないいない、いたを自分で演出していたことで、欲望放棄が償われていた。母親の不在は苦痛であるはずだが、それを遊戯として繰り返すことは、快感原則とどのように一致するか。最初は受動的に見舞われた不快に満ちた経験を、遊戯として繰り返した。支配欲動。他方で、抑圧されていた母親に対する復讐衝動ともとれる。いなくなっちゃえという反抗心。しかし、どちらを採用すべきか決定できない。生活において強い印象を与えるものを、遊戯において反復し、支配しようとする。大人のようになりたい、ふるまいたいという願望もある。診察の不快な体験が、遊戯になる。受動から能動へ、遊び仲間に味わわせ、代理人に復讐する。このことから、模倣欲動ではない。
精神分析の当初の目標は、無意識の解明と患者にそれを伝えることだった。解釈の技術。次の目標は、患者が自らの回想によって、この解釈を確認することだったが、抵抗が問題となる。抵抗の存在を患者に知らせ、転移をもたらし、抵抗放棄を働きかけることが分析者の役割。しかしこれでも不足し、すべての抑圧は想起できない。特に最も本質的な抑圧。再現は、常に幼児の性的な生活、すなわちエディプスコンプレックスを内容とし、医者との関係における転移の領域で、規則的に演じられる。転移神経症に変化する。過去の生活の一コマを再び生きさせることで、現実が過去の反映であることを認識し、治療の成果が確保される。
誤解してはならないのが、無意識的なものが抵抗しているわけではない。無意識は放出を求める。意識と無意識の対立ではなく、自我と抑圧されたものの対立。自我の多くは無意識的で、一部を前意識と呼ぶ。抵抗は、自我から生まれる。反復強迫は、抑圧されたものから生じる。
※訳者註、事故や戦争を能動的に繰り返す反復強迫は、快感原則で説明できないが、フロイトはその彼岸に死の欲動を想定する。
自我の意識・前意識の間の抵抗が、快感原則に役立っている。
→抑圧されたものが解放されることによって、古い葛藤が呼び起こされ、自己保存のための現実原則と齟齬を起こし、不快となるので、抵抗によりそれを抑える。
反復強迫がもたらす不快は、快感原則に矛盾する。
幼児の性的願望は、苦痛を伴い衰退せざるを得ない。自己感情に長期的な損傷を残し、ナルシシズムの傷跡となる。劣等感の最大の原因。「何もできない、成功しない」という嘆きが繰り返される。弟や妹を親の裏切りの証拠と見て嫉妬する。教育面が強まり、厳しい罰が与えられる。拒絶として受け取られる。
神経症はこれらを転移において反復し、生き直す。医者からの厳しい言葉と冷淡さによって、治療の中断し、拒絶を再現しようとする。夢の方が不快の度合いは少ない。満足を得ようとしても不快しか得られなかった過去の経験を強迫によって反復する。しかし、何も学ばれていないので何も得られない。
神経症でなくとも、宿命が追いかけてくるとか、デモーニッシュな性格がまとわりついているという印象を受ける人もいる。このような強迫は、反復強迫と同じ。慈善、友情の裏切り、権威の祭り上げ、愛情の経過と結末、これらの宿命、同一物の永劫回帰は、能動的態度に関わる。しかし、結婚すると必ず夫が病床に伏す婦人など受動的な例もある。タッソー『解放されたエルサレム』、敵方の甲冑を着た恋人を殺し、その魂を呪縛していた樹を傷つける。
転移と宿命によって、心的生には反復強迫があり、それは快感原則の彼岸にあることがわかる。災害神経症の夢と、子どもの遊戯は、反復強迫と関係がある。ただし、快感の欲動など他の動機と結びついて現れる。転移は、抵抗に奉仕する。反復強迫を転移して快感原則に自我が引き寄せる。反復強迫は、快感原則より根源的で、欲動に満ちたもの。
意識は心のプロセスの一部にすぎない。意識Bwは、外界からの興奮の知覚と、心的装置内部の快と不快を供給する。知覚W-意識Bwシステムには、外部と内部の境界という空間的位置を定めることができる。これは局所論的脳解剖学と同じ。意識は脳皮質、すなわち最も外側にある。精神分析によって解明する。
他のシステムで発生する興奮が、意識化されない記憶の残滓として残り、意識化されないがゆえに強力で持続的なものとなる。この長期的な痕跡は、どこにあるか。意識であれば常に制限されることになるし、無意識であれば意識の中に無意識的なものが存在することになってしまう。おそらく、意識化される行為と、記憶の痕跡を残す作用は共存しない。であれば、意識においては興奮が意識化されるが、持続的な痕跡は残さない。痕跡は隣のシステムに残される。意識は、記憶の痕跡の代わりに発生する。
『夢の解釈(夢判断)』の図式…知覚末端W→記憶組織Er→Er'→Er"→…→運動末端M
意識は外界と接している。未分化な小胞として考えると、外界と接した表面は、刺激受容器官として機能する。表面層の興奮プロセスが他と異なるのは容易に考えられる。興奮が別の要素に移行する際に、抵抗を克服し、容易に通れるようになる疎通として持続痕跡を残す。すると意識において抵抗はない。ブロイアーの静止・自由活動の備給エネルギーの区分を結びつけられる。意識では自由エネルギーのみとなる。
※訳者註、ブロイアーは静止(拘束)エネルギーを基本としたのに対し、フロイトは無意識の特徴である自由(運動)エネルギーを基本とし、快楽原則に従い置換えと圧縮によって別の表象に移ることを無意識的プロセスの一次過程、移る前に現実原則に従いまず拘束されることを前意識-意識的プロセスの二次過程とした。
小胞は、外界の刺激から守るために、刺激保護を備えていなくてはならない。小胞の1番外側の層。生きている有機体にとっては、刺激を受容することよりも、刺激から自らを保護することの方が重要な課題。外界からの強力なエネルギー均質化作用、すなわち破壊作用から体内のエネルギー転換を保護しなければならない。刺激の受容は、外部刺激の方向と種類の把握が目的。この感覚器官には、受容以外に、過剰刺激に対して新たな保護を行う特別な装置も備えている。ごくわずかな外部刺激しか加工しない、いわば外界の抜き取り検査。
※訳者註、刺激保護は、「マジックメモについてのノート」でさらに展開される。『快感原則の彼岸』では知覚意識システムの役割だが、「マジックメモ」ではパラフィン紙に喩えられる。防衛に先立つ心的装置であり、時間的ずれが重要。無意識の無時間性。刺激伝達に不連続性があることが時間概念の根本である。
カントの思考形式、時間と空間(『純粋理性批判』第一部超越論的感性論B59-60)。精神分析から再検討できる。無意識的な心的プロセスは、無時間的である。時間的配置、変更、表象は不可能。時間表象は、知覚意識システムの機能方式から得られたもので、自らの機能について知覚した場合に発生する。
刺激保護の受容器官が意識システムとなる。そして内部からの興奮も受け取る。内部刺激から保護はないことが、心的装置全体に決定的な効果がある。強度と質的特性はシステムの機能にふさわしい。二つの決定的な結果を生むが、第一に装置内部プロセスの快と不快が他のすべての刺激より優位にたつ。第二に、過大な不快の内部興奮への対処が採用される。すなわち、外部興奮への刺激保護を適用する。投影。快感原則の由来である。しかし、快感原則に反する事例は解明できない。刺激保護を突破する興奮を、外傷性の興奮と呼ぶ。外傷トラウマ。快感原則は無力化される。外部刺激を拘束し処分する。刺激を受けた周囲に備給エネルギーを集中させるので、他のシステムが貧困になり、麻痺・低下する。これは確定的なものではないが、心的システムは何も知られていない。いわば大いなるxを操作し、どの公式にも持ち込む。自由エネルギーが、静止エネルギーに移行する際に、心的装置へエネルギーが流入する拘束が発生する。
精神分析は、外傷神経症を心的器官に対する刺激保護の破綻と、それによる課題という観点から分析する。驚愕は、不安への準備が欠けており、システムの過剰な備給がない。不安は防衛線。外傷トラウマは、準備の有無が決定要素となる。外傷が強い災害神経症では、災害の夢が繰り返される。快感原則では際限が願望充足だったが、ここでは不安の形成により、刺激の克服を目指している。不安がなかったことが外傷神経症の原因。快感原則以前に、それより根源的に、心的装置に必要な機能。
夢は願望の充足であるという命題の例外。罰の夢は、タブー願望の充足の代わりに受けるべき罰を示すにすぎない。しかし、災害神経症の夢は、願望ではなく、小児期の精神的外傷トラウマもない。反復強迫は、暗示願望、すなわち忘却・抑圧されたものを呼び起こす願望。
戦争神経症は、外傷神経症が自我の葛藤によって促進されたもの。身体的損傷は、神経症発生を抑制するが、精神分析の二つの状況で理解しわやすくなる。第一に機械的振動は性的興奮の源泉、第二に苦痛発熱の疾患の間に、リビドー配分のための強力な影響が発生する。外傷が性的興奮を解放し、不安の準備が欠けているので、外傷的効果を発揮する。損傷器官のナルシシズム的な過剰備給の要求によって過剰な興奮が拘束される。
内部興奮の源泉は、有機体の欲動。欲動から発生する興奮は自由で流動的であり、放出されることを求める。夢においては、無意識で備給は転移、置換、圧縮されるが、前意識でこれは不十分。顕在夢は、前意識的残滓が、無意識に従って生まれるもの。無意識において、内部からの欲動の興奮が、快感原則に従い、心的な自由エネルギーとして表象から表象へと放出を求める(一次過程)。覚醒=前意識・意識において、現実原則に従い、それが拘束され静止エネルギーへと変化する(二次過程:自我が形成された後に発生。抑圧)。これがうまくいかないと外傷神経症を引き起こす。拘束してはじめて快感原則の支配、現実原則への修正が可能になる。
反復強迫の欲動的性格は、快感原則に反する場合デモーニッシュな性格を示す。子どもは反復により克服する。快の経験でも同様で印象の同一性に固執する。大人は常に目新しさが享楽の条件。子どもは、反復、同一性の再確認そのものが、快感の源泉になる。幼児期の出来事を転移において反復する強迫は、快感原則を超えたものである。この記憶痕跡は拘束されていないので、昼間の残滓に固着しながら夢で願望幻想を形成する。また、治療の最終段階でデモーニッシュな強迫が起こるのを恐れて不安を感じる。
欲動とは、生命のある有機体に内在する強迫であり、早期の状態を反復しようとするもの。外部の妨害力により、早期の状態を放棄せざるを得なかった。つまり、欲動とは、変化と発展ではなく、保守的な性格。動物生活。魚や鳥の種族のかつての生息地に戻る旅。遺伝、胎生学における反復強迫の証拠。動物の胚種の発達は、発生で通過した全ての形態の構造を反復することを強いられる。機械的原因では、説明できない。また、失った器官の再生能力が存在する。すべての欲動は、初期状態を回復しようとする傾向がある。ただし、性欲動を考慮すれば、制約と修正が加えられる。
欲動が初期状態の回復という退行を求めるとすれば、成長は外部の影響によるものと考えうる。有機体の発展の痕跡は、地球と、地球と太陽の関係における発展史の痕跡。欲動は、生命の推移において強制されたすべての変動を受け入れ、反復するために保存されている。生命の目標は、変化や進歩ではなく、最初の状態に戻ること。無機的な状態に還帰すると仮定すると、すべての生命体の目標は死である。生命のないものが、あるもの以前に存在していたとも表現しうる。生命の特性は意識。そして生命のない状態に還帰しようとする欲動が生まれる。自己保存、権力、顕示などは、部分欲動であり、固有の死への経路を確保している。つまり、有機体は、自らに固有の方法で死のうとする。しかし、短経路の死の危険性には抵抗するというパラドックスがある。
性欲動は固有の生の欲動である。生命の目標を達成しようとする欲動に対し、経路を再び辿り直し、死までを延長しようとする。性的欲動は、性的現象・差異よりも前に活動していた。これが自我欲動に反対する。
文化もまた欲動の抑圧の上に構築されている。抑圧された欲動は、反復に、いつも完全な充足を求める。代理、反動、昇華でも不十分であり、そこで満たされた、求められた2つの充足快感の差異に駆り立てられる。『ファウスト』メフィストフェレス、抑えられずにいつも前へと衝き動かされる。後退、完全充足への道は抑圧により阻まれている。神経症的恐怖症フォビアは、欲望充足からの逃走だが、完全性欲動の発生手本。抑圧と結びついたエロスは、完全性欲動の現象を説明できる。
死に向かう自我欲動と、生命の持続を求める性欲動が対立する。欲動の保守的退行的反復強迫は、自我欲動のみに認められる。生命のない状態への還帰。対して性欲動は、差異のある胚細胞の結合を追求し、生命に不滅の外見を与える。
ヴァイスマン『生命の持続について』『生と死について』『胚原形質』、生死の区分は、死ぬ部分は身体ソーマの自然の死、生の部分は胚細胞が好条件下で新しい個体ソーマで自己を包むことができる、すなわち潜在的不死。
不死の胚原形質とは、種の保存、生殖に貢献する部分。性欲動に対応する。ヴァイスマンにとって単細胞生物は個体と生殖細胞が同一であるので不死、死が訪れるのは後生生物、多細胞動物。死は目的に適った調整であり、外部の生の条件に対する適応の現象。個体の無限の寿命は、目的にそぐわない浪費となる。
しかし、遅れた段階に死が獲得されたとすると、死の欲動の説明がつかない。原生動物では死ぬ部分と不死の部分が区別されていないので、死の欲動が働いているが生命維持の力に覆い隠されているとは考えうる。
生物の欲動、同化と異化。ショーペンハウアー「個人の運命における外見上の意図について」、死は生命の本来の結果であり、目的でさえあり、性欲動は、生の意志が体現されたものである。
一般的見解では、多数の細胞が統一されることは、寿命を長くする手段であり、個々の細胞が死んでも細胞国家は生き延びる。2つの細胞の接合は生命維持と若返りをもたらす。これに、リビドー理論を適用すれば、生命欲動あるいは性欲動は他の細胞を対象とし、その刺激を受けて死の欲動が発生するが相殺され、生命が維持される。胚細胞は、リビドーを自我の中に保存する、つまりナルシシズム的に行動する。性欲動のリビドーは詩人や哲学者のエロスと同じ、生命あるすべてのものを結びつける。
リビドー理論の発展段階。性欲動と対立するのは自我欲動であり、個体の自己保存に貢献する。食い気と色気。精神分析が近づいた心理学的な自我は、抑圧し、検閲し、防衛構成や反動形成を営む審級。リビドーは、対象から自我へ向けられる(内向)。自我がリビドーの器であり、そこからリビドーが対象に向けられる。自我は性的対象としてあり、しかも最も重要な位置を占める。自我にとどまるナルシシズム的リビドーは、性欲動の力が表現されたものであり、自己保存欲動と同一視された。自我欲動の一部がリビドー的なものとして認識された。自我欲動と性欲動の葛藤という定式は未だ有効。二つの欲動の差異は、当初考えられた質的差異ではなく、局所論的差異である。性欲動とは、万物を維持するエロスである。自我欲動=死の欲動と、性欲動=生の欲動を区別する。自己保存欲動を死の欲動に含めようとしたが撤回した。自我欲動と性欲動ではなく、生の欲動と死の欲動の二元論。自我の中ではリビドー的な自己保存欲動とは異なる欲望が働いているが証明困難。生死の対立は、愛にも情愛と憎しみがある。性欲動にサディズム要素がある。前性器的体制の一つとして、支配的部分欲動として現れる。サディズムは死の欲動で、ナルシシズム的リビドーの影響で、自我から対象に向かい、性的な機能に奉仕する。マゾヒズムはサディズムが逆転して自我に向かったもの。退行。
生命維持的な性欲動において、二つの原生動物の接合により新しい刺激量が導入され、各個体が若返る。反対に死の欲動、すなわち個体の生命プロセスでは、内的な理由から化学的緊張がならされ、死に到達する。結合は緊張が高まり、生命力を生む差異となる。快感原則は、心的な生の支配的傾向として、内的刺激の緊張をならし、あるいは一定に維持し、取り除く涅槃(ニルヴァーナ)原則がある。死の欲動。性欲動にはこの反復強迫がない。生殖の発生と、性的欲動の由来を解明しなければならない。以前の状態を反復する必要性によって一つの欲動が生まれたとする仮説。
プラトン『饗宴』アリフトファネスが語る神話、昔の人間の性は3つあり男、女、男女(おめ)、二重の人間をゼウスが切って以来、自分の半分を求めて一つになろうと欲した。同様の神話がウパニシャッドにも見られる。『ブリハード・アラニヤーカ・ウパニシャッド』、アートマン(自我、自己)は自分を二つに割り、夫を妻が満たす。プラトンがこれに影響を受けた可能性は否定できない。生命は誕生の際に引き裂かれたので、再び結合しようとしている。その熱望のために保護皮膜を形成し、引き裂かれた部分は多細胞状態を形成し、再結合欲動を伝達したと想定しうる。
しかし、フロイトとしては、これを信じない。
性的概念の拡張、ナルシシズムの理論ほど確実ではない。ナルシシズム的なリビドーの仮説と、リビドーが細胞まで拡張された結果、性欲動はエロス、すなわち生命物質を結びつけ、一体化しようとするもの。生の欲動。対する死の欲動は、無機物が生命を持った結果生まれたもの。自我欲動は、対象をもつ性欲動と区別する全ての欲動の名称で、リビドーの性欲動と対立するものだった。しかし、自我欲動もリビドー的で自我を対象とするもので、ナルシシズム的な自己保存欲動であり、リビドー的な性欲動として考えるに至った。自我欲動と性欲動は、自我欲動と対象欲動に転換された。さらにこれらリビドー的な欲動(自我・対象欲動)と対立する破壊欲動として自我の中にあると想定され、生の欲動(エロス)と死の欲動の対立に転換された。
→生の欲動(自我のナルシシズム的な自己保存欲動、対象をもつ性欲動)、死の欲動(無機物への還帰)。快感原則に従う生の欲動と、快感原則の彼岸として(以前として)死の欲動がある。
無意識における自由エネルギーの一次過程から、拘束による意識・前意識における静止エネルギーの二次過程への移行は、快感原則の支配のために行われる。快感原則の傾向は、心的装置の興奮をなくす、あるいは一定に、またはできるだけ低く維持すること。無機的な世界の静止状態に復帰する、生命のもっとも普遍的な営み。性的行為の快楽は、最高度の興奮が瞬時に消滅すること。欲動興奮の拘束は、放出の快感を準備するもの。死の欲動に対する障碍として生の欲動はあり、その緊張の解除が快として知覚される。快感原則は死の欲動に奉仕する。 -
たまにはこういう難しい本を。もちろん全部を理解できてはいないけど、所々「なるほどなぁ」、「確かに」と思える部分はあった。今更ながらフロイトってすごいんだなと気づく。
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思考の変遷を辿れる、超自我がエスに近いもの、ということを全然認識していなかったのでなんかほんとにいままで雰囲気だけ味わっていたんだなと思った、解説もとてもありがたい
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フロイトの「自我論」についての論文集。以下、2つの作品への感想。
フロイト精神分析の大きな転換点とされる論文が『快感原則の彼岸』。精神分析の臨床経験から導き出した死の欲動の仮説を表明するときのフロイト自身の戸惑いが文章の魅力になっていた。
『快感原則の彼岸』と共にこの本の中核と位置付けられているのが『自我とエス』。人は自分が思う以上に道徳的であり非道徳的である。罪責感を埋め合わせようとする道徳的な超自我は症状の苦痛によって満足を得、それを手放そうとしない。一つの規範だけを信奉しないようにすることで苦しみを軽くすることができる、と解釈した。
他の論文も、心にまつわる素朴な印象を言い当ててくれていると感じた。 -
[ 内容 ]
「わたし」の意識はわたしが知らずにいる無意識によって規定されている。
「意識」には「無意識」を、「理性」には「リビドー」を対置して、デカルト以来のヨーロッパ近代合理主義に疑問符をつきつけたフロイト。
「自我」(「わたし」)を「意識」「前意識」「無意識」という構造として理解しようとした初期の論文から、それを巨大な「エス」の一部ととらえつつ「超自我」の概念を採用した後期の論文まで、フロイト「自我論」の思想的変遷を跡づけた。
「欲動とその運命」「抑圧」「子供が叩かれる」『快感原則の彼岸』『自我とエス』「マゾヒズムの経済論的問題」「否定」「マジック・メモについてのノート」の8編を、新訳でおくる。
[ 目次 ]
欲動とその運命
抑圧
子供が叩かれる
快感原則の彼岸
自我とエス
マゾヒズムの経済論的問題
否定
マジック・メモについてのノート
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
今頃、気がついてバカじゃないかとも思うのだけれども、天才が何年も考え続けたことを文章にしてあるわけだから、そりゃ内容が濃いに決まっている。前回読んだ時には平気で読み飛ばしていたところにいろいろ引っ掛かる。確かに今は病気を治そうと、少なくとも悪くならないようにしようと必死に集中して読んでいるからかもしれないが…
人間が外界に現実感をわざわざ賦与しなければならなくなったのは、言語を獲得してしまったせいであり、それまでは世界に溶けこむように生きていたんじゃないかと思った。ラカンさんが言うみたいに人間だけがイメージから自由であり、そのために苦悩し象徴によってのみなんとか狂わずに世界を破滅させることなく生き延びることができるのかもしれないと思った。
言葉って人を自由にもし縛りもし繋げることもするんだろう。恐ろしくもありがたいものなのかもしれない。まだまだ、読まなければ。何回も…
これって強迫神経症ですか?
ちなみに転換ヒステリーの病識はあります。
Mahalo
前回読了2014/01/14
現代的な学術書には必ずフロイトさんが出てくる。橋本治さんの『蓮と刀』に「エディプス・コンプレックスなんかウソっぱち!」と書かれていたのが衝撃的でもありなんか「そうなんだ~じゃぁそんなに真剣に読まなくてもいいや。」みたいに思って真剣には読んでなかった。それでも読む本読む本にフロイトさんが出てくるから、ちょっと読んでみなきゃなと思って、今までに『精神分析学入門』(中公文庫) と『性と愛情の心理』(角川文庫 リバイバル・コレクション K 25) など読んでみたけど、なんかいまいちよくわかんないしスッキリしなかった。
でまた、サド・マゾ関連の続きで、また読んでみたのだけれども、今回は今までよりもなんとなくフロイトさんの言う心の構造みたいなものがぼんやりと思い浮かぶくらいにはなった。わかりにくかったのはフロイトさんの自我論が分析した症例が増える度に修正されていてそれがゴチャゴチャに入ってくるからということもあるんだと思った。その点この本は時系列に編まれていてその変遷を念頭に入れて訳され適切な箇所に適切な注も入っているので混乱が起こりにくかったのだと思う。
巻末にある中山さんのフロイト自我論の解説も時系列的に上手にまとめられていて有りがたかった。さらに竹田さんの解説も現代的な捉え方に焦点を当てていてフロイトさんの書いたものの取り込み方についてとても参考になると思った。構造主義と現象学という対立があるというお話しはへぇ~なるほどと思いちょっとスッキリしたような気がする。
フロイトさんの理論はウソっぱち!という先入観をちょっと置いといて、フロイトさんが理論を編み出すために行った詳細な人間観察には深いものがあると思った。いまではおそらく脳科学的な説明が結構できるようになっているのではないかと思う。例えばリビドーの動きなど神経細胞の興奮伝達で置き換えられるような気がした。
エロス論集も読んでみたい。
Mahalo -
つまり論文集でした。
フロイトが何を言っていたか、については、分かったつもりでいたのだが…
改めて彼の「生の声」を聞いて、心理学界隈の問題に触れることができた。
以下メモ
・欲動の問題
・原生動物と人間の違い
・種の保存
・自己保存
・自我欲動と性欲動