- Amazon.co.jp ・本 (493ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480087997
作品紹介・あらすじ
労働の発生と組織化、欲望の無制限な発露に対する禁止の体系の成立、そして死をめぐる禁忌…。エロティシズムの衝動は、それらを侵犯して、至高の生へ行き着く。人間が自己の存続を欲している限り、禁止はなくならない。しかしまた人間は、生命の過剰を抑え難く内に抱えてもいる。禁止と侵犯の終りなき相克にバタイユは人間の本質を見ていった。内的体験と普遍経済論の長い思考の渦から生まれ、1957年に刊行された本書によって、エロティシズムは最初にして決定的な光を当てられる。バタイユ新世代の明快な新訳で送る、待望の文庫版バタイユの核心。
感想・レビュー・書評
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[ 内容 ]
労働の発生と組織化、欲望の無制限な発露に対する禁止の体系の成立、そして死をめぐる禁忌…。
エロティシズムの衝動は、それらを侵犯して、至高の生へ行き着く。
人間が自己の存続を欲している限り、禁止はなくならない。
しかしまた人間は、生命の過剰を抑え難く内に抱えてもいる。
禁止と侵犯の終りなき相克にバタイユは人間の本質を見ていった。
内的体験と普遍経済論の長い思考の渦から生まれ、1957年に刊行された本書によって、エロティシズムは最初にして決定的な光を当てられる。
バタイユ新世代の明快な新訳で送る、待望の文庫版バタイユの核心。
[ 目次 ]
第1部 禁止と侵犯(内的体験におけるエロティシズム;死に関係した禁止;生殖に関係した禁止;生殖と死の類縁性;侵犯 ほか)
第2部 エロティシズムに関する諸論文(キンゼイ報告、悪党と労働;サドの至高者;サドと正常な人間;近親婚の謎;神秘主義と肉欲 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
数年前に読んだ時は、[聖なるエロティシズム]=神の追求、及び 神への愛との一体化 [芸術様式のエロティシズムと美の境界] の視点で、さらさらと読み済ませていたが…
その時、私はクンデラを知らなかったのだろうか…。存在の重さ軽さ、連続性と不連続性、生の彼方、死からの出発… -
さすがの難易度。エロティシズムと労働の対極関係などは意識したことがなく新たな発見であった。エロスとタナトスという単純な図式ではなく、性というものに関して様々なベクトルをもって望まなければならない。
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最後まで読めなかった
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784480087997 -
禁忌に対する侵犯をエロティシズムと定義する事ができ、それは、人間特有である。禁忌とは何か。宗教のような、後天的な規定。しかしまた、それは先天的なものをも含む。先天的なものがあり、かつ、エロティシズムを人間特有とする。さすれば、人間とは、先天的な本能にして、他の霊長類とも差違的な存在なのか。答えは否。だとすれば、次の二択になる。つまり、人間以外の霊長類にもエロティシズムが存在するか、先天的な禁忌というものは存在しないのか。
そもそも禁忌とは何か。社会を統制し、利益を傾斜するために守らせるべき約束事。また、人民同士が住みやすい社会を構成するためのルール。宗教上のタブーとは、絶対的存在に対する秩序を保つために必要なものだ。では、それを侵犯する事が、必ずエロスか。いや、もうひと定義必要だろう。つまり、対外的に暴露されずに、行為を成立するという事が、その条件となる。
つまり、エロティシズムとは、こそこそ、恥ずかしい事をする、という事だ。
その事を深く考察して、何の足しになるか。そんなものは、言葉にせず、認識している言葉の世界である。 -
「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。」
ということを説明している本です。
エロティシズムというどちらかと言えば人間の暗部について考えぬかれた本です。バタイユさんが60歳で出版されてます。書き上がるまでにおそらく二十年以上かかっているんじゃないでしょうか?
エロティシズムは死や暴力と関係が深いようです。しかも理性から逃れ去る性質があります。ですからエロティシズムそのものを意識化して言語化するのは不可能みたいです。そういうところをしつこく粘りに粘って書こうとされています。
考えてみれば性衝動は大脳よりも下位の脳(視床下部とか?)が関与しているところのようですから意識化できないのは当たり前といえば当たり前のような気もします。しかも、性衝動による意識や行動は大脳皮質で処理されますから、エロティシズムの根本は不明でその表層的なものだけが意識に上るという結果になります。ですからわけわかんなくなるんです。
だから、「わけわかんないんだ。」で終わらせることもできるのでしょうが、バタイユさんはそこを執拗に追求します。まるで、養老さんが『唯脳論』で身体にこだわり続けられたのとパラレルです。バタイユさんの前に養老さんを読んでいたのもやはり何かの思し召しなのかもしれません。
バタイユさんは西欧のキリスト世界の方なので、宗教について語られるときに重苦しさがあります。その重苦しさを和らげるためにはこれまた養老さんの『カミとヒトの解剖学』を読まれておくと、ちょっと気が楽になると思います。
自分はエッチのことばかり考えて変態なんじゃないか?大丈夫だろうか?と心配になっておられる方には、きっと救いになる書物です。
Mahalo